花咲く命ある限り ... 2

 日が暮れた頃、院内の玄関で透を呼び止める声があった。
 聞き覚えのある声に、一つ息をついて振り向いた透の前に、夕方出会った美奈の母親が思い詰めたような表情で立っていた。面会時間は既に終わっている。向かい合う二人の横を、帰りの見舞い客たちが不思議そうに眺めながら、立ち去っていった。
 誰もいなくなったその場所で、彼女を見る透の目が細められる。
「なにか用か?」
「あなたに、お願いがあるんです。美奈を、治してください!」
 母親の両手は自身の胸の前で、まるで祈るようにきつく結ばれている。表情には必死さが伺える。こんな目をした人間を、これまで何度となく見てきたことを、透は思い出す。一つ息を吐いて、透は無表情に言った。
「俺は医者じゃない」
「美奈が言ってました。さっき発作が起きた時、神様が助けてくれたって、苦しかったのが治ったって。あの子は一度発作を起こしたら、すぐには回復出来ないんです。それなのに、あの子は安らかに眠ってた。あなたが助けてくれたんでしょう? お願い、あの子の」
 必死に言葉を紡いでいた母親を、透は右手を上げて制した。
「俺にお前たちの望みを叶える力はない。早くあの娘のところに戻ってやるんだな。一人で心細いだろう」
 母親の縋るような瞳を冷淡に一瞥し、透は玄関を出て行った。呆然とその背中を見送った母親は、慌てて跡を追う。
 自動ドアを抜け、唐突に春先の未だ冷たい夕闇の空気に晒され、腕を抱くようにして体を震わせる。だが、彼を追うことは止めなかった。去っていく背の高い後ろ姿を見付けると、息を弾ませて走り、彼にすがり付くように透の右腕を両手で掴んだ。
「待って! お願い、話を聞いて。あの子の心臓は移植でしか治せないって、医者に言われていた! でも移植をするには、海外に行くしかないって言われたわ! そんなお金、どこにあるの!?」
 母親に腕を掴まれ、透は足を止めていた。遠くでケヤキの枝が揺れ、葉の擦れる音がかすかに届く。
「たとえ手術が出来たとしても、あの子の体がもうそれに耐えられないって、昨日になって言われた! その上、あと半年、いいえ数ヶ月生きられるかも分からないって……。医者は美奈を救ってくれない! あなたしか、もう頼る術がないの!! お願い、あの子を助けて! あの子がこのまま死んじゃうなんて嫌! まだ8歳なのよ? たった8年しか生きてないのに、これからたくさん楽しいことが待っているはずなのに、幸せなことがあるはずなのに! なんで、あの子がこんなに目に遭わなきゃないけないの!?」
 これまで誰にも話せなかった、口に出そうとして思い留まってきたことを、ようやく言葉にすることが出来た。そのことに気付いた彼女は、その場に泣き崩れ、子供のように声を上げて泣いた。
 透は身体を丸めて泣く母親の肩に、自分が着ていたコートを掛けてやった。思い掛けない温もりに包まれ、彼女はハッとして顔を上げた。透の端整な顔を目の前にし、涙と鼻水に濡れた頬がうっすらと赤く染まる。
「よく聞け。激しい動悸を起こしている心臓を鎮めることと、元から壊れている心臓を治すことは、同じではない。俺にあの娘を救う力はない」
 諭すような透の言葉は、母親の心の中に絶望にも似た暗い影を落とした。ようやく見付けたわずかな希望も、あえなく消えてしまったのだ。
 母親は、何かに耐えるように歯を食いしばり、瞼を閉じた。新たに溢れ出た涙が、その頬を濡らす。
「私の心臓をあの子にあげるわ。美奈の代わりに、私の命をあげる。だから、あの子を助けて」
「たとえ血を分けた親子でも、命の代わりはない。お前に残された務めは、あの娘の命の行く末を見届けてやることだ」
「うっ……美奈」
 呟くようなか細い呼び掛けの後、母親の体から力が抜ける。糸が切れた人形のようにゆっくりと傾いだ体は、透の広げた腕の中に倒れ込んでいった。

 
 

「ママ、遅いなぁ」
 小児病棟の個室で、天井を眺めながら静かにベッドに寝ていた美奈は、ドアの開く音に上体を起こした。入ってきたのは、自分の母親を抱き上げた透である。
「ママ?」
「案ずるな、眠っているだけだ。朝には目覚める」
 自分を助けてくれた者の言葉に、美奈はホッと胸を撫で下ろした。抱えていた細い女性の体を、付き添い様の簡易ベッドに寝かせる透の後ろ姿。
「神様のお兄ちゃん」
 子供故の無邪気な呼び掛けに、透はやや辟易した表情で振り返った。ベッドに座っている美奈の元に歩み寄り、その小さな頭を優しく撫でる。
「その神様というのはやめろ。俺は江月透だ」
「こーづきとーる……とーるのお兄ちゃん?」
「それでいい」
 深い微笑みを浮かべて首肯する透を見上げ、美奈は嬉しそうに笑った。
「美奈ね、お兄ちゃんにお願いがあるの」
「なんだ?」
「病院のお庭のお花。全部咲くところが見たいな」
 無邪気な願いに、透は苦笑いで応えるしかない。
「花は種類によって咲く時期が違うぞ」
「うん、知ってる。桜は春で、ひまわりは夏だよね。あと、秋はコスモス」
「知っていて俺にそれを言うのか」
「おいしゃさんに言ってみたら、神様じゃないとそんなことは出来ないって、笑いながら言ってた。お兄ちゃんは神様でしょ?」
 期待のこもった瞳が透を見上げる。しかし彼の言葉は、素っ気無いものだった。
「俺はそんな者じゃない」
「でも、美奈が苦しかったの、助けてくれたもん。苦しくなった時は、おちゅうしゃされて、体にたくさん変なの付けられて、美奈、嫌なの。でも、そうしないと苦しいのが治らないから、我慢しなきゃってママとかんごしさんが言ってた。でもお兄ちゃんは、何もしなくても苦しいの治してくれたでしょ。だから、神様だって思ったの」
 無邪気に透を見上げて話す美奈の瞳には、疑いようもない畏敬の念が見える。そんな目で自分を見る人間を、彼は数多(あまた)見てきていた。その度に彼は否定し続けたが、納得してくれた人間はほんの一握りだけだ。否、それでも本当の意味で納得してくれた者は、一人もいなかったろう。
「お兄ちゃん、ダメ?」
 黙してしまった透を、美奈が不安そうに見上げる。彼は闇色の瞳を閉じ、一つ息を吐いて再びその瞳に、少女の姿を映した。
「五日後」
「え?」
「五日後の昼、正午に先程の庭に出てみるといい。望みが叶うだろう」
「……ホントに? お兄ちゃん!」
 透の言葉の意味を考えていたのか、少女は少しの沈黙の後、ベッドの柵に手を掛けて身を乗り出した。
「その代わり、5日間はこの病室で大人しくいることだ。約束出来るか?」
「うん、美奈、やくそくする!」
 ぱあっと満面の笑顔を見せた美奈は、大きくうなずいた。よほど嬉しいのか、頬が上気している。透は深く穏やかな微笑みを浮かべ、少女の肩を抱くように手を置いた。
「興奮しては体に障る。少し眠るといい」
 透の言葉に従い、美奈は大人しくベッドに横になった。乱れた布団を整えてやり、それから二言三言少女と会話した。
「お兄ちゃん、ありがとう」
 小さく礼を言った美奈は、安らかな寝息を立てて眠りにつき、透は静かに病室を後にした。

 
 

 面会時間はとうに過ぎている。しかし透は誰に見咎められることなく、少女と出会った中庭に来ていた。既に夜の帳が下り、遥か西方の空に冬の星座が瞬いている。
 透は僅かに芽吹いた花壇の植物に目を向けていた。
「お前たちの異常な生命力は、あの娘のためだったか。母親と違い、とうに覚悟を決めているな。己の体のことは己が一番よく分かっているものだ。お前たちにも、それは感じられていたか」
 彼の静かな声は、漂うことなくその場で消えていく。
「あの娘の望みを叶えるには、お前たちの生命を根こそぎ奪うことになる。それでもよいのだな」
 誰にともなく尋ねた言葉に応えるかのように、彼の頭上に広がるケヤキが、風もないのにサワサワと枝を揺らした。
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