花咲く命ある限り ... 3

 それから五日後、美奈は母親にせがみ、昼ご飯を食べずに中庭へと降りてきていた。この前とは違い、厚手のコートで小さな体を包んで、母親と共にベンチに大人しく座っている。
 今朝から異様に中庭に出ることをせがんだ娘に、母親はかなり渋ったが、この5日間は発作も無く元気に過ごし、また黙って病室を抜け出すことがなかったため、その褒美ということで許したのだった。
「一体なにがあるの? 美奈」
「とーるのお兄ちゃんがね、美奈のお願いを聞いてくれたの。今日の正午にここにいると、それがかなうんだって」
 とーるのお兄ちゃんというのが、五日前に出会ったあの青年であることを、母親は美奈から聞いていた。願いが叶うと聞いて、母親の目の色が変わる。
「お願いって、何をお願いしたの!?」
「んっとね……あっ」
 願いの内容である花壇に目を向けた美奈は、空から降ってくるものに気付いた。その声に、母親も花壇を見る。小さな金色に輝く粒が、まるで雪のようにフワフワと舞い降りてきていた。
 それが花壇の小さな芽に触れた瞬間、ありえないスピードで成長を遂げて花が笑んでいく。何もない場所に光の粒が舞い降りると、土の中から小さな芽が顔を出し、一気に大輪の花を咲かせた。
 花壇だけに留まらず、金色の雪のような粒は病院の敷地内に降り注ぎ、塀に沿って植えられた桜に舞い降りるとたちまち満開になり、蕾すらなかった藤の花が咲き綻んでいく。柊、山茶花、金木犀、秋海棠も然り。病院の敷地内にある花という花が、満開状態となったのである。それはまさに、百花繚乱という言葉が相応しい光景であった。
 美奈は目を輝かせて、爛漫に咲き乱れる花々を眺めている。母親は呆然とした後、パチンと自らの頬を叩いた。痛みはあるので夢でないことは明らかだ。
 病棟の窓も次々に開けられ、入院患者、通院患者、医者、看護師、見舞い客など、そこにいる全ての人々が現実にはあり得ない光景を唖然として、あるいは感動的に眺めている。
 桜の花びらが舞う花吹雪の中で、花壇の花々は競うように咲き誇っている。そこに眠る全ての花が咲いてしまったのか、金色の粒が舞い降りてもそれ以上花開くことはなかった。
「すごい、お兄ちゃん、本当にやくそくを守ってくれたんだ」
 感動のためか、震える声で呟く娘の声を、呆然としていても母親は聞き逃さなかった。
「約束?」
「うん、美奈ね、とーるのお兄ちゃんにお願いしたの。ここの花が全部咲くところが見たいって。そうしたら、本当に咲かせてくれた。やっぱりお兄ちゃんは神様だったんだね」
 嬉しそうに話す娘の肩を、母親はきつく掴んだ。顔をしかめる娘には目もくれず、たたみ掛けるように問いただす。
「他には? 他にもお願いをしたんでしょ?」
「ママ、痛い……」
「言って、美奈! 他に何をお願いしたの!?」
「なにも……美奈がお願いしたのは、これだけだよ?」
「そんなっ」
 青褪めて頭を抱える母親の意図が分からず、美奈はそれまでの感動が消えうせたように、不安そうな顔をしている。
「ママ?」
「あなたの病気が治るチャンスなのよ? どうしてお願いしなかったの? 心臓を治してほしいって」
「ママ……」
 ようやく母親の言わんとしていることを理解し、美奈は寂しげな表情で母親を見上げた。
「美奈、お兄ちゃんに言われたから、今ママに言うね」
「なにを?」
 失望した表情の母親の頬に小さな手を添えて、少女は精一杯の笑顔を見せた。
「ママ、泣かないでね。ママが泣いてると、美奈も哀しいの。だから、泣かないで」
「美奈? なにを言ってるの?」
「とーるのお兄ちゃんが別れる時に言ってたの。ママに言いたいことがあったら、この時に言いなさいって。だから、今言うの。ママ、やくそくして。泣かないで」
「分かった、分かったわ。ママは泣かない。だから、もう変なことを言うのはやめて」
 言いようの無い不安が、母親の胸中に広がっていく。娘の手前、努めて笑顔を見せようとするが、顔は引きつったままだ。
「美奈、もう部屋に戻りましょう。願いは叶ったでしょ?」
「うん、美奈も眠くなってきちゃった」
 あふっと小さな欠伸をした娘の体を抱き、母親は急いで病室へと戻った。胸騒ぎがする。しっかりと娘の体を抱きかかえていても、それを拭い去ることが出来ない。
 病室に入り、眠っている娘の体からコートを脱がせてベッドに寝かせる。個室は静かで心落ち着ける場所だが、今だけはこの静けさが怖かった。
 10分程経っただろうか。
 不安にさいなまれたまま、美奈の寝顔を見ていた母親は、寝返りを打った娘が寝言を呟いたのを聞いて、ホッと胸を撫で下ろす。
「ママ、大好き」
「ママもよ、美奈」
 寝言と分かっているのに、つい答えてしまった自分に苦笑する。が、すぐに様子が変なことに気付いた。
「美奈?」
 寝返ってから娘の体がピクリとも動かない。肩を揺らしてみるが、反応がない。
「美奈? 目を覚まして。起きなさい、美奈」
 さきほど感じた嫌な感覚が、再び頭ももたげてきた。
「美奈!」
 娘の体を背中から抱き上げると、頭と腕が力なく垂れる。顔を近付けると、僅かに開いた口から呼吸は失われていた。
「うそ、うそうそうそ!」
 顔から血の気が失せ、パニックになりながらも、手探りでナースコールのボタンを押す。
『美奈ちゃん? どうしましたか?』
「美奈が! 美奈が! お願いすぐ来て!!」
 冷静さを欠いた母親の叫び声に、スピーカーから息を呑む気配が伝わってくる。
『すぐに行きます』
 病室のスピーカーから音が切れるや否や、廊下を走ってくる足音にドアを引く音が重なる。
「お母さん、どうしました!?」
「美奈が、息をしてないの! どうしよう!?」
 泣きながら叫ぶ母親とその腕の中の少女を見た女性看護師は、後から来た男性看護師に主治医を呼んでくるよう頼み、自分は病室に入って母親の腕の中から美奈の体を受け取った。
 ベッドに寝かせ、呼吸と脈拍の有無を確認して、すぐさま心臓マッサージを始める。
 零れんばかりに目を見開いてその様子を見た母親は、頭を抱えながらその場に崩れ落ちた。
「うそよ、うそよ、こんなのうそ。だって、さっきいったもの、みなはいきていたもの」
 ブツブツと呟く声に重なって、医者と看護師の足音、そして機材を乗せたらしい重々しい車輪の音が廊下を走ってくる。
 すぐに病室は緊急救命病室と化し、母親は数人の看護師に抱えられて、ふらつく足取りで廊下へと出された。一人の看護師が付き添い声を掛けてくれるが、その声を聞いている状態ではなかった。

 
 美奈の病室が慌しくなる少し前。
 透は誰もいなくなった中庭に佇んでいた。見る者がいなくなったというのに、花々は未だ咲き誇っている。
 じきにこれらの花は寿命が尽きる。たった一人の人間に見せるため、透が舞い降らせた金色に輝く生命の種を触媒として、彼らは持てる生命を搾り出して、自らの成長を促し花開いたのである。
「これが、お前たちの答えか。よくぞここまで咲き誇ったな」
 感心したように言葉を紡いだ刹那、一陣の風が吹き、花々を薙いでいった。風はすぐに消えうせ、舞い上がった花びらは、静かに透の肩へと降りて行く。
「あの娘が逝ったか。礼など必要はなかったんだがな。だが、受け取っておこう」
 呟きと共に開いた左手の平に、一枚の赤い薔薇の花びらが舞い降り、透はそれを大切そうに手に包み込んだ。
 しばらくその場に佇んでいると、色鮮やかに咲き乱れていた花々は次第に枯れていく。燃え尽きたようにしおれ、色彩豊かだった花々は灰色へと変わる。それはまるで死の世界のようだった。
 ここの花壇は、来年の春になるまで一片の花も咲かせることなく、否、芽吹くことすらなく、ただ茶色の土を露呈するだけであろう。たとえ種を植え付けられたとしても、一年間は生命が宿ることは無い。
 桜の花も全て散ってしまい、まるで冬の枯れ木のようである。今年一年、この桜の木たちは葉を茂らせることもなく、夏の間もこの枯れた姿をさらすことになるのだ。来年のこの時期には再び蕾を付け、淡いピンクの花を開かせることが出来るだろう。
「死んだと思い込んだ人間に、切られなければいいのだがな。それも、お前たちにとっては受け入れるべき運命か」
 枯れた桜の木肌に手を付き、透は一人呟いた。花壇の傍に茂っていたケヤキも、もはや何も応えることはない。

 

 その後、透の姿は病棟の屋上にあった。フェンスの外側、建物の縁に腰を下ろし、少しでも身を乗り出せば地上に落ちる、そんな場所である。彼の手の中には、さきほどの少女からの礼代わりである、赤い薔薇の花びらが一枚握り込まれている。
 そこへ、ドアの音も高らかに屋上へとやってきた女性がいた。ふらふらとした足取りで、泣き腫らした目をしている美奈の母親である。後ろから女性のケアスタッフが追い掛けつつ声を掛けているが、生気の失せた彼女には聞こえていないようだ。
 その母親は、屋上のフェンスの外に見たことのある男の後ろ姿を見止め、カッと目を見開いて駆け寄った。ガシャンと音を立ててフェンスを掴む。
 透はその耳障りな音に驚くでもなく、静かに振り向いた。彼の顔を確かめた母親は、憎悪に満ちた目で透を睨みつけた。
「美奈を、美奈を返して!! あの子死んじゃった。あと半年は生きられるって言われてたのに、あんたに会って美奈は死んだ!! この悪魔!! あの子を返せ!!」
 怨念のこもった叫び声。透は慌てることなく、屋上の縁に立ち上がる。風にはためく黒いロングコートが、羽根のように見えなくもない。女性のケアスタッフは、彼の立つ姿を見て小さな悲鳴をあげた。
「美奈はあんたを神様だと信じたんだ!! なのに、あの子を死なせて、どこへ連れて行くの!! 返してよ、美奈を返せぇ!!」
 母親は掴んだフェンスを握り締め、それを排除するように激しく鳴らし続けた。
 血を吐く様な怒声にも、透は怯むことなく縁から降り、フェンス越しに母親と対峙する。彼女を見下ろす透の瞳は、穏やかな闇色を湛えている。だが、母親は憎悪の瞳を収めるどころか、更に憎々しげに透を見上げた。
「鬼! 悪魔! 死神!! 美奈を連れて行こうったってそうはさせない!! あの子を返せえぇ!!」
「今のお前に何を言っても無駄だろうがな」
 母親の呪詛のように叫ぶ声に阻まれているが、透は穏やかに諭すことをやめなかった。
「あの娘の寿命は、今日尽きる運命にあった。どんなに抗っても、それを覆すことは誰にも出来ない。だから言ったのだ。俺にあの娘の命を救う力はないと」
「そんなこと、誰が信じるか!! あんたを信じた美奈をもてあそんで、あんな力で惑わせて魂を持って行くなんて!! この卑怯者!! その手の中にあの子の魂があるんでしょ!? 返しなさいよ!! 返せぇ!!」
 透の、握り締めた右手に気付いた母親がそれを指摘すると、彼はどこか哀しげに眉をひそめ、その手を開いて見せた。手の中にあった赤い花びらは、風に煽られて簡単に舞い上がっていく。
「美奈! 美奈ぁ!!」
 一片の花びらを追ってフェンスをよじ登ろうとする母親の体を、女性ケアスタッフが必死になって抱き止めた。
「あれは、あの娘からの礼だ。あんなものがなくとも、俺にはあの娘が生きた証を記憶として留め置いている。お前も、あの娘から願いを託されただろう。それを忘れてはならない」
「うるさい!! 願いなんか、お前が美奈を返せばいいんだ!!」
 フェンスを握り締める彼女の手から血が滲み出ている。だが、痛みを感じていないのか、母親は更に強くフェンスを掴んだ。
「あの娘から言われた言葉を思い出せ」
「うるさい、うるさい、うるさい!! 悪魔の言葉なんかに騙されてたまるか!! あんたに会わなければ、美奈は死ななかったんだ!! 美奈……美奈ぁ」
 母親はフェンスを握り締めたまま、その場に泣き崩れた。その体を支えていたケアスタッフが、血の滲んだ指をフェンスから外してやった。そして母親を半ば引きずるようにしてフェンスから遠ざかり、彼女の背中を優しく抱きしめる。その温もりにようやく気付いたのか、母親はケアスタッフにすがりつくようにして号泣した。
 透はそんな二人を見やり、フェンスを軽々と乗り越えて彼女たちの元へとやってきた。
 ケアスタッフは、まるで母親を庇うようにして身を乗り出した。まさか本当に悪魔だと思っているわけではないだろうが、彼を見上げる目には警戒心が滲み出ている。
「心配するな。このままでは、その女も生きていくのにつらいだろう」
 呪詛の声で罵られても、警戒心丸出しの目で睨まれても、透の表情、声は穏やかなままだ。ケアスタッフはその言葉に何かを感じたのか、彼が近付くのを許した。
 透は僅かにうなずき、身を屈めて右手を伸ばし、母親の頭をくしゃりと撫でる。
「あの娘の本当の願いは、花のことではない。最期にお前に向けた言葉があったはずだ。それが叶えられぬなら、あの娘はうかばれん」
 そう言って母親の額に右手の平を当てる。あれほど憎んでいた男が触れることを許すのを、不思議に思ったケアスタッフが彼女を見ると、まるで子供のように背中を丸めて眠っていた。
「しばらくはこのまま眠らせた方がよかろう。お前も、俺のことは忘れろ」
 それが自分に向けられた言葉だとケアスタッフが気付いた時には、透の右手が額に触れていた。

 
 二人の姿が見えないことに心配した男性看護師が、屋上に座り込んだ母親とケアスタッフを見付けたのは、それから数分も経たない頃だった。
 何があったのか尋ねられると、ケアスタッフはふらふらと病院内を歩く母親を追って屋上に来たのだと言った。娘の後を追って飛び降りそうな気配もあり、心配でついて来たのだと。それから泣き崩れるのを介抱している内に、母親は眠ってしまった。
 それから男性看護師の手を借りて、深く寝入る母親の体を、娘がいた病室に運び込んだ。主治医も、突然娘を亡くしたことでパニックに陥ったのだと判断し、母親をそこで眠らせることにした。その夜には夫が駆け付け、眠る妻と共に娘の病室で一夜を過ごしたのである。
 翌朝、目覚めた母親は夫と共に娘の亡骸に対面し、昨日とは打って変わって穏やかに娘の死を受けて止めていた。
「泣いてもいいんですよ」
 娘の担当だった女性看護師にそう優しく言われても、母親はわずかに涙を浮かべた顔で微笑みを浮かべたのである。
「娘と約束したんです。泣かないって。私が泣くと、美奈が哀しむから。あの子を、哀しませたくないの」
 ただ、夫に抱きしめられた時は、静かに涙を零していた。そんな彼女の襟元に、一枚の赤い花びらが落ちているのを、夫が見付けた。それを手に取り妻に渡すと、彼女は愛しそうにそれを手の中に包み込む。
 フェンスを掴んで血が滲んでいた彼女の手は、傷一つ付いてはいなかった。
 
 

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 透は時折訪れる、瑠璃色の星を見下ろす場所に来ていた。今その東側は陰に隠されていて暗い。
 透の前で発作を起こした少女。彼が手を貸さなければ、彼女は集中治療室に入れられ、二度と外の世界を見ることなく死を迎えただろう。少女の母親にそれを見せるべきだったのか。だが、あの場所で生きる草花に愛された少女を、自然から隔たれた場所で死なせることは忍びなかった。
 残った者に悪魔と罵られ、憎まれるのはその結果なのだ。これまでにも、このようなことはあった。いつも誰にでも、彼の存在が受け入れられるわけではない。
 自嘲するように苦い笑みを浮かべると、彼は闇色の瞳を閉じた。思い出されるのは、彼がこれまでに会って来た生き物たちの姿。数多の生命の記憶が彼の中にはある。その中には清廉な人生を生き抜いた老人、そして草花に愛されたあの少女もいる。
 この者たちは皆、彼の記憶の中で永遠に生き続けるのだ。
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