花咲く命ある限り ... 1

 小春日和に恵まれた3月半ば。江月透は東京郊外の大学病院にやってきた。偶然近くを通り掛り、未だ芽吹くには早いこの時期に、異常なほどの生命力に溢れた草花の息吹を感じたのだ。
 都会からやや外れた自然に囲まれた土地は、ここが東京であることを忘れてしまう。その広大な敷地の中庭に透はいた。三方を建物に囲まれた場所で壁に沿って花壇が作られ、その縁を飾るように白いプランターが置かれている。病院の大きさに比して、花壇の規模はそれほど広くない。
 広大な敷地を囲うような形で、桜の木も植えられている。枝を張ったその先に蕾がついているが、それらはまだ硬く、開花までにはあと2〜3週間を要するだろう。
 春先とはいえ未だ肌寒い日が続く季節。彼が感じたのはこの花壇からだったが、溢れんばかりの生命力に反してパンジーの蕾はまだ小さく、芽吹く気配すらない草花もある。
 まるで瞑想しているような表情で透がたたずんでいると、建物に寄り添うように立つ一本の大きなケヤキの枝が、風もないのにサワッと動いた。同時に背後に子供の気配を感じ、透は振り向いた。それは少女と言うにはまだまだ小さな子供。だが、彼の感じた気配とは見た目の年齢が違う。
 ほんの少しの時間、小首を傾げて少女を見ていた透は、やや昏い面持ちで切れ長の目を細めた。
 少女はここの入院患者らしく、パジャマにピンクのカーディガンを羽織っている。花壇の側でしゃがみ、芽を出した草花を真剣な表情で見つめていた。
「お花さん、まださむくてたいへんだけど、ことしもきれいなお花を咲かせてね。美奈、お花が咲くの、ちゃんとまってるから。元気でまってるからね」
 そんな独り言が風に乗って透の耳に届く。続けて「クチュンッ」と小さくくしゃみをし、少女は自分の体を抱くようにして両腕をさする。
 透は穏やかな微笑を湛えながら、少女に足を向けた。
 

 陽が差していたので今日は暖かいと思っていたが、意外に外は寒く、美奈はくしゃみをしてしまった。熱を出したりすれば、また嫌な注射や点滴をしなければいけない。
「お部屋に帰らなきゃ。美奈、ママとおいしゃさんに怒られちゃう」
 花に向けて別れを告げた美奈は、立ち上がったところで急に温かくなったのに気付いた。それまでは震える程の寒さであったのに、唐突にふわっと暖かい空気に包まれたように感じたのだ。
 驚いた美奈はせわしなく周囲を見渡し、ようやく自分の隣りに黒い服の人物がいることに気付いた。
 自分は立っているのに、その人はとても大きい。太陽を背にしているため、逆光で顔が見えず全身黒い影のようだが、美奈は怖がることもなくその黒い人に「こんにちは」と笑顔で挨拶した。
「お兄ちゃんも病気なの?」

 
 少女の素朴な問いに透は一瞬目を見開き、次いで相好を崩した。そして静かに瞼を伏せて言う。
「いいや、俺は病にはならない」
「? ……んっと、けんこーだから?」
 懸命に言葉を探したらしい少女のセリフに、透は拳の形にした手で口元を押さえた。隠れた口元には苦笑いが刻まれている。
 腰を落としてその場にしゃがむ。180センチを超える彼は、しゃがんでも少女を見下ろしてしまう。近くなった透の整った顔を見上げて、寒さでピンク色になっていた少女の頬が更に赤くなった。
「お前はここで何をしているのだ? そんな薄着では風邪を引くぞ」
「うん、さっきクチュンッてしちゃったけど、今はあったかいからへいき」
 ニコッと笑った少女は、色素の薄い肌と髪をしている。成長すれば大層美しい女性になることだろう。外国の血が入っているようにも見えるが、肌や髪の色とは違って瞳は日本人のそれだ。
「美奈つかれちゃったから、あそこに座ってもいい?」
 やや苦しそうに息をつきながら、美奈は近くのベンチを指差した。花壇に囲まれるように設置されている木製のベンチである。
 透が了承の意味で頷いたのを見て美奈がベンチの方へ歩くと、10歩ほど進んだところで寒さを感じて体を震わせた。足は完全に止まってしまい、肩をすくめるように体を小さく丸めている。
 透はすぐに立ち上がり、少女の元へと向かった。再び周囲が暖かくなり、美奈は不思議そうに透を見上げる。
「お兄ちゃんがそばにいると、あったかいの?」
「そうだな。俺から離れない方がいいだろう。歩けるか?」
「うん」
 差し伸ばされた手を、美奈は嬉しそうに掴む。小さな彼女の手は、すっぽりと透の手の平に収まった。
 ベンチに腰を下ろした透にくっつくようにして、美奈はちょこんと座る。
「お兄ちゃんのとなりって、おひさまみたいにポカポカしてるの、なんで?」
「さあな、だがこうして役に立つこともある」
「なあに?」
「お前が風邪を引くのを防げる」
 透の手に頭を撫でられ、美奈はくすぐったそうな表情で肩をすくめた。
「こんな寒空の下で何をやっていたのだ? 花に話し掛けていたようだが」
「美奈ね、ここのお花さんたちが咲くのみるのが好きなの。お花さんてね、話しかけるときれいなお花が咲くんだって、かんごしのおにいちゃんが教えてくれたの。でも、お部屋からはちょっとしかみえないから、お外に出てきたの」
「そうか……それはいいことを聞いたな。植物というのは見てくれる者がいれば、一層華やかに花開くものだ。今年は良い花が咲くことだろう」
「ほんとう?」
 信頼する看護師から聞いていても、少女は半信半疑だったのだろう。自分の問いに静かに頷く透を見て、美奈は嬉しそうに笑った。
「じゃあ美奈、元気にしてなきゃ」
「そうだな。もう勝手に外に出るのは、やめた方がいい。そのような薄着で、母親には黙って出て来たのだろう?」
 嬉々としていた美奈は、透の言葉に母親を思い出したか、しゅんと昏い面持ちになった。
「ママ、いつもは優しいのに、美奈がひとりでお部屋を出るとおこるの」
「お前が心配だからだろう」
「うん……分ってる。でも、美奈だってお外に出たい。行けるのはここしかないし、つかれたらちゃんと休むもん!」
 頬をプンッと膨らませている美奈の上で、枝を張ったケヤキが再び風もないのにサワサワと揺れた。
「病室に戻った後で、発作を起こすのではないか?」
 透の静かな指摘に、美奈はグッと言葉を詰まらせた。
「い、いつもじゃないもん!」
「そうだな。いつもじゃない。だが、母親にとってはいつも心配なんだ」
「でも、美奈だって……苦しくなるのは美奈だって、分かってるもん。ママが痛いのでも苦しいのでもないのに」
 可愛らしく唇を尖らして言うのを、透は優しく彼女の頭を撫でてやった。
「自分を心配してのことと、分かっているのだろう? だが、あまり心配されると却って素直にそれを受け入れたくなくなる」
「…………」
 図星なのか、美奈は透の手の温もりを頭に感じながらも、下を向いている。
「母親は母親で、お前の痛みや苦しみが分からないから、余計に心配するのだ。本当は心配されて嬉しいのだろう?」
「……うん」
「ならば、そのお前の気持ちは言わなければ伝わらないぞ。ちゃんと話せば喜ぶだろう」
「ホント!?」
 喜ぶと聞いて、それまで沈んでいた美奈の顔が、パアッと明るくなる。透が無言で頷くと、美奈は嬉しそうな笑顔で、ベンチから飛び降りた。
「美奈、ママに言ってくる! ありがとう、お兄ちゃん」
 朗らかな笑顔を見せ、美奈は駆け出した。
 だが、一歩踏み出したところで、少女は突然胸を押さえてうずくまった。苦しそうに短い呼吸を繰り返し、歯を食いしばって耐えている。冬だというのに、額には玉の汗が浮き、ポタリポタリとアスファルトに垂れた。
 透は暗い表情でそれを見ていたが、わずかに頭を振って美奈の元に跪いた。少女の小さな体を腕の中に収める。  支えられた背中が仄かに温かい。その温もりに一瞬苦痛を忘れた美奈は、うっすらと瞼を上げた。
「はっ、はっ、かっ看護っさんに、言、ないで。お注射、や……くっ…はっ」
 力を振り絞るように呟き、キュッと閉じた目尻から涙が一雫流れ落ちた。
 透は空いている右手を美奈の胸に当てた。その温もりに気付いたか、異常な程の短い呼吸で、美奈は不安そうに透を見上げた。
「落ち着け。すぐに楽になる。もう苦しくはないだろう? 心臓の鼓動が分かるな? それに合わせてゆっくり呼吸するんだ」
 目を閉じて透の言った通りに呼吸し始めた美奈は、つらそうだった表情が次第に安らかになっていく。そして1分も経つと、静かな寝息を立てて眠っていた。
 透は美奈の胸から右手を離し、額にうっすらと浮いた汗を拭った。彼の頭上にある枝が、またも風がないのにサワサワと揺れる。
「この娘の心臓を治した訳じゃない。俺の心配など不要だ」
 そう呟き、透は美奈を抱き上げて病棟へ入って行く。
 自動ドアを抜けたところで、忙しなく駆けて来る女性と出くわした。どことなく透の腕の中で眠る少女に面立ちが似ている。彼女は透の腕の中で眠る少女を目に留め、安堵の表情を浮かべた。そして透から奪う様に、美奈を胸に抱く。
「美奈!」
「眠っているだけだ。心配はいらん」
 彼の言葉に、女性は思い出した様に慌てて頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けしました。この子は心臓が悪くて、寒い空気に触れただけでも発作を起こしやすいのに、外に出たがるんです。皆さんに迷惑だからやめなさいって言ってるのに」
 溜め息をつきつつも、口調とは裏腹にその表情は懸念に満ちている。
「あ、私ったら初対面の方に。すみません」
「いや、気にするな。ここはこの娘にとっては寒い。早く病室に連れて行くがよかろう」
 透の静かな声音に、母親はハッと顔を上げ、深々と頭を下げた。そして足早に病棟の奥へと去って行く。
 それを見送っていた透は、やがてポツリと呟いた。
「あと五日か……」
 肩を落として溜め息をつくその背中は、どこか物哀しげな雰囲気を漂わせていた。
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