Act.3 裏切られた想い...9

 朝ご飯を食べ終わると、吉永里久が迎えに来た。洋行も吉永里久も、こことは別のところに住んでいるんだって。
 部屋がどれだけあるのか知らないけど、こんなセレブなマンションが寝室とリビングだけなんてあり得ないよね。洋行なんてご飯まで作らなきゃいけないんだから、一緒に住んじゃえばいいのに。まぁでも、仕事場が一緒なのに住む所も一緒なんて、息が詰まるだけか。
 ドアに頬杖をついて流れる車窓を眺めながら、これみよがしに溜め息をつく。横から隆広が視線を向けるのを感じた。
「なんだよ、機嫌悪いな」
「まぁ、良くはないわよ」
 ママがあたしの就職を妨害してるっていう証拠を見せられるところに行くんだから、これで機嫌がいい訳ないじゃない。
「悪かったな」
 取ってつけたような謝罪の言葉がボソッと呟かれて、あたしは隆広を見た。全然悪いと思ってないでしょ、その不貞腐れた顔は。多分朝ご飯のことだろうなぁとは思ったけど、わざと分からない振りをしてやった。
「なにが?」
「だから、朝飯のことだよ。美味かったぜ」
 こういうところに育ちの良さってのが出るんだね。マジマジと隆広の横顔を見ちゃったよ。御曹司とは思えないくらい口は悪いし、たまに最低の事をするけど、本当に酷いことはしない。出来ないのかな。フェミニズムってやつかも。
 口を開くとまた文句が出そうだったから、何も言わずに窓の外を見た。何かと反抗しちゃってるけど、別に好きでそうしてる訳じゃない。何故かついつい、反抗したくなっちゃうのよね。だから、そういう種をまかないように努めて黙っていたのに、この俺様エロ御曹司ときたら。
「俺が謝ってんのに、何で黙ってんだよ」
「…………」
「何とか言え」
「なんとか」
「…………」
 お約束の返答をしたら絶句された。全くもう、こっちの気持ちは全然汲み取ってくれないんだから。まぁ、所詮は御曹司だもん、我が儘なんだよね。
 しょうがないから、隆広に顔を向けて説明してやることにした。
「あのさぁ、あんたに色々言われると、反抗したくなくてもしたくなっちゃうの。口を開いたら文句ばっかりなんて、あんただって嫌でしょ。だから黙っているのよ。分かったら、あんたも口を閉じてよ」
 こんな言い方、あたしも我が儘だよね。でもしょうがないじゃない。あたしだって、いちいち言い合うのは嫌なんだもん。
 隆広は憮然とこっちを見ていたと思ったら、しばらくして無言のまま、あたしとは反対側の車窓に目を向けた。

 

 重々しい雰囲気の中、吉永里久の運転する車は海東物産のビルの地下に入って行った。
「ここで何を見せるのよ?」
「黙ってろ。文句を言いたくねぇんだろ」
 揚げ足を取られた。ムカつく。これで大した証拠じゃなかったら、絶対に詰ってやる! そんでもって、ママの前で土下座させてやるんだ!
 意気込んで隆広の後についてエレベーターに乗る。二つある階数ボタンの内、42の方を押した。
 隆広の後に続いて入った会長室は、一昨日とは全然印象が違った。真夜中と昼間の違いかね。この前より開放感があるように見えるから、更に広く感じるよ。こんな広いところで毎日仕事してるのか、こいつは。なんか、寂しいね。
 ハッ! なにを思ってんのよ、あたしは! こいつが寂しかろうと、あたしには関係ないでしょ!
「なにやってんだ?」
 ブンブン首を横に振っていたのを、隆広に見られていたらしい。怪訝な顔であたしを見ている。
「なんでもないわよ。それで、ママがあたしの就職を妨害している証拠ってのは、何なのよ?」
「ふん、慌てるなよ。こっちの方が先だ」
 こっちってなんだ? と思っていたら、隆広がおもむろにスーツのポケットから取り出したのは、あたしのスマートフォン。
「それ、どうする気?」
「チップの中身を調べる。問題なけりゃ、すぐに返してやるさ」
 ある訳ないでしょ、と言いそうになって、あたしのホワイトライオンから盗聴器が出て来たことを思い出した。今まですっかり忘れてたけど、ママが仕掛けたなんて絶対に信じたくない。
 すぐにそれをどこかに持って行くのかと思っていたら、隆広はスマフォを無駄に大きくてご立派な机の上に置いた。
「少しここで待ってろ」
「どこに行くのよ!」
「すぐに戻る」
 そう言って、壁にあるドアを開けて出て行った。廊下に出るドアじゃなかったけど、どこに行ったんだか。何だかはぐらかされている感じで、嫌な気分。
 4人は優に座れそうな革張りの豪華なソファに腰を降ろした。ここに連れて来たんだから、座るなとは言わないでしょ。
 ガーレットのバッグを傍に置いて、ぐるりと室内を見渡した。本当に殺風景な部屋だな。見るからに高級そうな大型の本棚には、分厚い本が並んでいる。百科事典みたいなハードカバーで、絶対に人を殴り殺せるよ。
 他には目立った調度品はなくて、隆広が出て行ったドアとは反対側の壁に、もう一つドアがあるだけ。一昨日いいところ……じゃない、恥ずかしいところで隆広の電話が鳴った時、このドアを見ながら話していたから、多分秘書とかがいる部屋に通じてるんだな。
 洋行はそのことには全く触れなかったけど、きっと知ってるよね。欲求不満な女と思われていたら、やだな。
 そんなことを考えていたら、隆広が戻ってきた。すぐに、っていうのは本当のことだった。け ど。
 あたしはポカンと口を開けて、隆広を見ちゃったよ。だって、お店に来るような三つ揃いのスーツに着替えてるんだもん。それがまた、この部屋に妙にマッチしてるんだよね。
 それにしても、高そうなスーツだな。どこのだろ。お店だと、照明がちょっと暗めだからあまり分からなかったから、こうして明るいところで見ると本当に存在感あるね。圧倒されるよ。セレブなオーラがばんばん出てる。
「見惚れてんじゃねぇよ」
「だ、誰が見惚れてんのよ!」
「お前。口を開けて呆けていたじゃねぇか」
 くそぉ。勝ち誇ったような顔で言っちゃって。言い返せないじゃないか!
「着替えてくるなんて、言わなかったじゃない。大体なんでわざわざ着替えるのよ?」
「マンションから仕事着で来るなんて、堅苦しいだろうが」
 そんな高級スーツを作業着みたいなニュアンスで言っちゃうあんたが、信じらんないわよ。こいつにとっては普段着みたいなものなのか。
 そりゃ、問答無用でブランドブティックの服を着せる訳だよね。あたしにとっては普段着のこれを、安物の既製品って言い切るんだから。
 もう、何もかもがお金持ち仕様なんだ。東海林グループの会長なんだからそれは当たり前なんだろうけど、やっぱりあたしとはとことん合わないわよ。
「付いて来い」
 そう言って、あたしのスマフォを持って反対側、多分秘書のいる部屋に通じるドアを開けた。
 隆広と同じくらい広い部屋だ。でも机が4つもあるから、印象は大分違う。普通のオフィスって感じだね。その中で、唯一こっちに向かって机が置いてある席に座っていた男が、驚いて立ち上がった。グレイのスーツを着た、華奢な男だ。
「隆広様、おはようございます。いらしているなら、そうと知らせて下さい。私もそうそう暇な身では……」
 上司相手に嫌味を飛ばしていたその口が、あたしを視線に捉えたところでパタッと止まる。ノンフレームの眼鏡から見つめれた視線は、嫌な部類のものだった。なんで知らない奴から、こんな蔑んだ目で見られなきゃいけないのよ。
「何故、藤野咲弥子がここにいるんです?」
「そう嫌そうな顔をするなよ。『椿』の実態を見せに連れて来た。お前の仕事の邪魔はしねぇよ」
「そういう問題じゃありません。昨夜、高嶺美菜にお会いしなかったのですか?」
 言葉は隆広に向けてるのに、視線はあたしを見てるよ。洋行は好意的だったのに、こいつからはビシバシ敵意を感じる。
 まぁいいけどさ。これでもう、こいつの秘書になるっていう選択肢は、あたしの中からは綺麗さっぱりなくなったもん。元々なるつもりもなかったけど、いい理由が出来て好都合だわ。
 それにしても吉永里久が美形だから、隆広の秘書はみんなイケメンかと思っていたら、そうでもないんだね。洋行は普通だったし、こいつはイケメンとは程遠い。不細工じゃないけど、普通以下ってやつ? 見た目だけで選んでないところは、真面目に秘書を選んでるんだな。
「高嶺美菜には会ったぜ。とんでもねぇお嬢様だったがな」
「どういう意味ですか? いえ、それは後でお伺いしましょう」
 隆広の言葉に、少しだけあたしから視線が逸れた。コホンと咳払いをして、すぐにまた見られる。フレームレスの眼鏡のせいか、酷薄そうに見える男だわ。思いやりの欠片もなさそうな感じ。
 冗談でなく、気分が悪くなってきた。やだなぁ……って思っていたら、隆広が移動してあたしの目の前に立った。秘書の嫌な視線が遮られて、ムカムカしていた胸の辺りがスッと落ち着いた。
 え、まさか、この秘書の視線を遮ってくれたの? まさかね、偶然だよ。そんな細かな気遣いの出来る奴じゃないんだから。
「後じゃなく今だ。お前、高嶺建設をパイプを作りたがっていたろ。あれは諦めろ」
「部外者の前で話すことではありませんよ」
「別にいい。咲弥子は知ってる」
 何をよ!? 変なこと言って、あたしを巻き込まないでよね!
 ……って、いつもなら返せるのに、目の前の背中から感じられる気配に、圧倒されちゃって何も言えなかった。もしかして隆広、怒ってる? 一触即発って雰囲気だ。
「藤野さん」
 コソッと小さな声で呼ばれて、あたしは周囲を見回した。壁だと思っていたところが少し開いていて、中から分厚い眼鏡のダサい男が手招きしている。
「春樹はああなると手が付けられないから、こっちに避難していた方がいいっすよ」
「え、でも」
「冬樹さんの言う通りだよ。しばらくはあんな感じだから、向こうに行っていれば」
 うわっ、ビックリした!
 いつの間にか吉永里久が、あたしの背後に立っていた。車を停めて来るから遅くなるとか言ってたっけ。でも、足音もしなかったよ?
「ほら、さっさと行けよ」
 ぐいぐい背中を押されて歩かされて、そのドアの中に押し込められた。
「あの、いいんですか?」
「いいよ、どうせ後でここの部屋に来てたんすから」
 いかにもガリ勉って見た目なのに、口調は体育会系なんだ。変な男。キャスター付きの椅子に座って、クルクル回っているし。
 それにしても、凄い部屋だね。正面の壁一面に、アクリル板みたいな透明な大きな板が付けられてる。支えが見えないから、壁に埋め込まれているのかな。そこから2メートルくらい離れたところにあるコックピットみたいな卓上には、パソコンのキーボードが3つ。その卓上にはパソコンのモニターらしきものが、5つ並んでいた。
 ちょっと薄暗い室内で、隣の秘書室の半分はありそうな広さなのに、何だかせせこましく感じる。
 口を開けて部屋中を見ていたら、クスッと笑われた。
「そんなに珍しいっすか?」
「うん、なんか海外ドラマの科学捜査とかに出てくるような感じ。凄いね」
「まぁ、似たようなもんっすね。面倒だから、先に見せようか?」
「なにを?」
「『椿』のママの実態っすよ」
 ズバリ核心の部分をいきなり言われて、あたしは咄嗟に言葉が出てこなかった。ここに来たのはそれを見せてもらうためなのに、突然突き付けられるとすぐに決心が付かない。
 もし本当にママがあたしを裏切っていたら……あたしはどうしたらいいんだろう。自分がどう思ってどう行動するか、予想も出来なかった。
「後からにするっすか。藤野さんに見せる時は、隆広様も同席するって言ってたっすから」
「あ、うん。そうしてもいい?」
「全然構わないっすよ。まぁでも、ちょっと長くなると思うっすけど」
 そう言って眼鏡拭きの布を手に取って、分厚いレンズの眼鏡を外した。
 その時のあたしの衝撃といったら、雷に打たれるってこんな感じかもって思ったよ。だって、眼鏡を外したら別人って人間、生まれて初めて見たもん。
 スンゴイ美形だ。吉永里久や、あの社長さんといい勝負だよ。こんな綺麗な顔してるのに、あんなダサい眼鏡なんて勿体無い! 髪はボサボサだし、よれよれの白いシャツに紺色のスラックスで、いかにもオタクみたいな服装のくせに、顔だけは美形なんて反則でしょ。
 うん? オタク? どこかで聞いたような……げっ! この前ここに来て隆広に襲われた時、電話してきた秘書じゃないか! うおおお、どうしよう。せめて何も言わないでいてちょうだい!
 あたしの心の祈りが通じたのか、それとも元々気にしない性格なのか、オタクな秘書は眼鏡のレンズに息を吹き掛けて、丁寧に眼鏡拭きで拭いている。ちょっと目を細めているのは、ド近眼なんだな。そんな表情でも絵になっちゃうのが、美形の特権ってやつだね。
 あんぐりと口を開けて固まっていたら、眼鏡を掛けた冬樹が怪訝な目であたしを見てきた。それからおかしそうに小さく笑う。
「ビックリしたっすか?」
「うん、もう天地がひっくり返るくらい。せっかく美形なんだから、コンタクトにすればいいのに」
「仕事柄、モニターばっかり見てるっすからね。目が痛くなるんすよ」
 あ、そうか。ドライアイとかになっちゃうんだっけ。でも、本当に勿体無いと思うよ。吉永里久の美形さは嫌味みたいだけど、この人は何故か自然に思える。性格の違いかな。ああでも、あの時のことを言わないでいてくれて、本当に助かるよ。
「椅子がなくて悪いっすけど」
 しかも、普通に気遣いの出来る人だし。隆広に対してあまり畏まらないみたいだけど、洋行といいこの冬樹といい常識的な人たちなんだな。吉永里久は除くけど。
「そんなの気にしなくていいよ。一つしかないってことは、隆広もここでは立ってるんでしょ?」
「そうっすね。俺が移動するのに、どうしても邪魔になるっすから」
「ふぅん、あいつがねぇ」
 あのお坊ちゃまが、部下だけ座ることを許すなんて、ちょっと信じられないけど。
 腕を組んでしみじみと言ったら、ちょっと驚いたような顔をされた。
「いつも隆広様のことを、そんな風に呼んでるんすか? 呼び捨てとかあいつとか」
「あ、うん。洋行にも言われたんだけど、なんか、さん付けとかで呼びたくないんだよね。でも、ここではちゃんとそう呼んだ方がいいのかな」
「俺や洋行はいいっすけど、春樹の前ではそうした方がいいっすよ。ただでさえ、藤野さんのこと軽蔑してるっすから。こんなこと言って悪いっすけど」
 ってことは、あの酷薄そうな奴が春樹というか。まぁ、多少は覚悟していたけどさ、施設育ちだし、ろくでもない男と付き合ってきたし。
「そんなの気にしないでいいよ。きっと、僕の隆広様を下種な女に取られちゃった、なんて思ってるんでしょ」
「…………」
 絶句されちゃった。いやでも、それくらい思ってそうに見えたもん。さっきあたしを見たあの嫌な視線はさ。
「藤野さんて面白いっすね」
「え、そう?」
 そんなこと言われたの、初めてだよ。あたしから見たら、隆広とその仲間たちの方が面白いと思う。
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