Act.3 裏切られた想い...8

 お味噌汁とレタスのおひたしを作り終えて、グリルで鮭を焼きながら出汁入り厚焼き玉子を作る準備をしていると、後ろから声を掛けられた。
「藤野さん」
 普段、そんな風に呼ばれないから、一瞬誰のことか分からなかったよ。卵の入ったボウルを抱えて振り向いたら、さっきの洋行が紙袋を手に立っていた。
「あ、ども。洋行さん」
「おはようございます、野添洋行といいます。着替えを買ってきましたよ」
「あ、ありがとうございます」
 ボウルをキッチンの台に置いて、紙袋を受け取った。ちょっと重いな。なにが入ってんの?
 中を調べてみると、薄いピンクのシャツに白いフレアスカート、ヒールの低いパンプスまであるよ。ちゃんとストッキングも入っているし、気の利く人なんだな。その上、パッケージに入った白いパンツまでも。
 それを見て絶句しているあたしに気付いたのか、洋行が頭をかきながら言った。
「すみません。さすがに下着コーナーで買うのは憚られたので、コンビニで買ってきました」
「いえ、そんなこと。助かりますよ、ありがとうございます」
 フロアで売ってる下着は、一度洗濯しないと着る気になれないもん。そこ行くと、コンビニのはその日に使うようになっているからね。あいつじゃ絶対、こんな気の利くことは出来ないよ。っていうか、あいつが用意していた下着はみんな、パッケージされていたからね。そういうのしか買ったことがないんだろうと思う。
 ジャスコのファッションフロアで、「安物」だとか「信じらんねぇ」だとか悪態をついている隆広を思い浮かべちゃって、つい笑っちゃった。
 洋行が、お鍋を覗き込んだ。
「さつまいものお味噌汁ですね」
「あ、すみません。勝手に使っちゃって」
「構いませんよ。隆広様が作れと言ったんでしょう」
 そのとおりです! やっぱりこの人は話が分かるなぁ。
「他にはなにを?」
「冷蔵庫にあった煮物を使わせて頂こうと思っていて、後はレタスのおひたしです。出来たのはカウンターにありますよ」
 ダイニングとの境にあるカウンターを指差して言ったら、「お米はどうされました?」と訊かれた。うん、実はあたしもそれに困っていたのよ。何たって、炊飯器が見付からなくてさ。
「まだです。炊飯器がないので、どうしたらいいのか分からなくて。隆広に訊こうと思ったんですけど、多分知らないでしょ?」
「その通りです。お米は、圧力鍋で炊いて下さい。いつも隆広様の分だけなので、その方が効率的なんです。時間も早いですし」
「圧力鍋……あたし、使い方が分からないんですけど」
 もともと炊飯器持っていたしね。圧力鍋が必要な時ってあんまりなかったから。
「では、お米は俺が炊きますから、藤野さんは玉子をお願いします」
「はい」
「その前に着替えてきませんか?」
「え?」
 顔を上げて洋行を見たら、さっきみたいに顔が赤くなっていた。あ〜そっか、このバスローブ隆広のだからぶかぶかなんだよね。胸もかなり見えちゃってるし……って、あたしも慌てて前を合わせたよ。
「えっと、それじゃあ、先に着替えてきます」
「そうして下さい」
「あ、今鮭を焼いてますから」
 紙袋を持ってそそくさとキッチンを出た。どこで着替えようか。リビングは広過ぎて何だか嫌だし、やっぱり寝室かな。
 そこのドアを開けると、中にスッポンポンの隆広がいた。
「ぎゃあっ! なんて格好してんのよ」
「なに言ってやがる。お前が勝手に入ってきたんだろうが」
 そりゃそうだ、ノックくらいするんだった。どうしよう、やっぱりリビングで着替えようか。
 ちょっと迷っていたら、隆広に腕を引かれてドアが閉められた。
「なにすんの? 痛いんだけど、うわっ」
 紙袋ごとベッドに倒された。え、なに? いきなり何をするんだ、こいつは?
 唖然としてたら、隆広がベッドに上がってきて、手首を押さえつけられた。
「ちょっと、何すんのよ! 朝っぱらから盛ってんじゃんぅ」
 キス、キスされた! しかも思いっ切りディープに!
 顔を背けようと暴れたら、今度は顔を両側から押さえ込まれるし。でも手首は解放されたから、隆広の頭を持って思いっ切り引き剥がした。髪の毛をちょっと引っ張っちゃったな。顔を上げた隆広は、痛そうな顔をしていた。
「このエロ御曹司! なにすんのよ!」
「お前が洋行と仲良く話しなんかしてっからだろうが!」
「は? なによそれ。……ぶっ、なに、嫉妬したわけ?」
 思い掛けない言葉に、つい吹き出しちゃったよ。
「笑うな。くそっ」
 ばつが悪そうに舌打ちして、隆広があたしの上から退いた。いやだってそれ、笑うしかないじゃない。
 そんなんでさぁ、よくあたしを秘書にしたいって思ったよね。ってか、男と話をしただけでこんなことされたら、身が持たないよ。
 隆広は仏頂面で壁の取っ手を引いた。おお、壁の中はウォークインクローゼットになっていたよ。素っ裸のまんまその中に入っていく。やっと落ち着いて着替えが出来るわ。
 まぁでも、さっき自制心を持てって言ったばかりなのに。学習能力ないなぁ。それとも、男ってこんなもんだっけ? 過去の男を思い出して、ちょっと気分が悪くなった。
 お店のバイトが明けた後、同期の黒服とちょっとしゃべってたのを、当時付き合っていた彼氏に見られたことがあったんだよね。あたしはそれに全然気付かなくて、黒服と別れたところでそいつが出てきて、路地裏に連れて行かれて、その場でヤラれたことがあった。
 銀座でも通り一本入ると人気のないところは結構あるし、間の悪いことにそいつは酔っ払っていた。「俺以外の野郎とくっちゃべるな」とか怒鳴られて、お尻を引っ叩かれながら、無理矢理突っ込まれたんだ。泣いて許しを請うて、それ以上酷いことはされなかったけど。
 他の男たちも、似たり寄ったりだったな。SM大好きのAVマニアなんてのもいた。「どこそこの作品の何々ちゃんはこんなことされてた」って言って、その再現をやらされたり。
 うーむ、こうして見るとあたしって、ろくでもない男と付き合ってきたなぁ。そういう男しか寄ってこなかったしね。普通の育ちじゃないって、なんかオーラみたいのが出てたのかなぁ。
 みんなナンパで知り合って、あたしから声を掛けたことはなかったんだよね。まぁこいつならいいかなって思った男がみんな、そんな連中ばっかだった。
 だからセックスに悦びを感じたのって、多分隆広が最初だよね。なんか、最初に酔っ払った勢いで隆広を誘った時は、あいつの話を聞くと随分と積極的に色々やらかしたみたいだし。あたし、本当に欲求不満だったのかも。
 そういう男共と比べたら、隆広は優しい……っていうか、甘い男だよね。これもお坊ちゃまだからかな。たまにろくでもない時があるけど、それだって中身が全然違う。最低だとは思うけどね。でもよくよく考えてみれば、今までの男たちよりはちゃんと人間として、女として扱ってくれている。
 女をエスコートするのは当たり前。女が喜ぶツボを知りまくっているし、セックスの時も自分だけじゃなく、女を悦ばせる方法を知ってる。あたしが付き合ってた男は、みんな自分だけイクことしか考えてなかったもんね。
 あ、そっか。そういうところに惚れてたんだな、あいつと付き合ってた女の子は。優しいし、女を上手く扱う方法を知ってる。イケメンの上、地位も財産もあるなら、女の方が放っておかないよね。
 でも、だったらなんで未だに独身なんだ? とっくに結婚していてもいいでしょ。
「お前、なにやってんだ? 着替えねぇのかよ」
 唐突に隆広の声がして、ビックリしたよ。え、もう着替えてきたの?
 ウォークインクローゼットの扉を閉めた隆広は、ノリの利いた黒いシャツに、黒いスラックスをはいていた。うっ、つい見惚れちゃうほどカッコイイ。
 違う違う! なんでこいつをカッコイイなんて思っちゃうのよ! そうだ、着替え!
「ちょっと、着替えるから出てってよ」
「今までなにしてたんだよ。大体、お互い裸なんて散々見せ合ってるじゃねぇか」
「それとこれとは違うの! お願いだから出てってよ!」
 もう、やっぱりこいつはデリカシーがない。きっとこういうところで、女に振られてきたんだ!
「ちっ、しょうがねぇな」
 とか言いつつも、隆広は寝室を出て行ってくれた。あたしも早く着替えて、玉子焼きを作らなきゃ!
 大急ぎで、洋行が買ってきたものをベッドの上に広げた。ピンクのシャツは、大きく襟が立っているやつでスリムボディのだった。しかも丈が短い。スカートにはこういうのが合うって、洋行はちゃんと分かっているのね。
 ブラジャーは昨日つけてたやつでいいし、ショーツもそれしかないと覚悟していたから、コンビニで買ってきてくれたのは嬉しい。色々と気の利く人だわ。無地の白い綿100%のパンツなんて、何年ぶりだろ。
 靴は後で玄関に持って行くとして、着替えたあたしがダイニングルームに行くと、厚焼き玉子が出来上がっていた。うわぁ、あたしが遅いもんだから、洋行がやってくれちゃったのか。
 席に着いていた隆広が、呆れた目を向けてくる。
「なんだ、結局咲弥子が作ったのは、レタスのおひたしと焼き鮭と味噌汁だけか」
「悪かったわね! あんたが寝室で襲わなきゃ、さっさと着替えてたわよ!」
「隆広様、なにをしたんですか」
「お前が咲弥子と話をしていたからだ」
「子供みたいなことを、言わないで下さいよ」
 隆広の我が儘をサラッと流して、洋行はキッチンに引っ込んだ。すごいよこの人。こいつが何も言えずに黙ってるなんて!
 あたしは隆広の後ろを通って、キッチンに入った。ちょうど、お味噌汁を漆塗りのお椀に移しているところだった。
「あの、洋行さん。すみません、作って下さって」
「いいえ、構いませんよ。どうせ隆広様が、俺に嫉妬して藤野さんを襲ったんでしょう」
「よく分かりますね。もしかしてあいつ、普段からそういう感じなんですか?」
 何気なく訊いたら、洋行は仰け反って「あいつ……」と呟いた。あ、不味かったかな。一応謝っておこう。
「あ、すみません。洋行さんには、上司ですもんね」
「いえ、普段からそう呼んでいるんですか、隆広様のことを」
「ええ、まぁ。ついついそう呼んじゃうんですけど」
 ヤバかったかなぁと思っていたら、「そうですか」と何故か嬉しそうに言われた。
 漆塗りの高そうなお椀は、二つだけ。
「あれ? 洋行さんは食べないんですか?」
「ええ、俺は家で食べてくるので。藤野さん、お箸を出して頂けますか?」
「あ、はい」
 ってどこだ? とキョロキョロしていたら、「その後ろの棚の真ん中の引き出しです」と教えてくれた。
 こっちを見てないのに、あたしの挙動が分かるって凄いよ。やっぱりこの人は出来る秘書だ。

 

 で、なんでこういう図になっているのよ?
 あたしと隆広が向かい合って朝ご飯を食べている。それも妙に家庭的な雰囲気で!
 せめて洋行が一緒にいてくれれば、少しは気が紛れるのに、ご飯の用意をしたらどっか行っちゃった。
 気まずいな。せっかくの美味しいご飯なのに、何だかいまいち。隆広もさぁ、作れって言った割に、美味しいとも不味いとも言わないで、黙々と食べている。
 お箸は正しい持ち方だし、食べ方も綺麗だ。この辺はやっぱりお坊ちゃまだよね。それにしたって、作った本人を目の前にして、一言もないってどういうことよ? そりゃまぁ、半分は洋行が作った煮物とかだけど。
「ちょっと、何か言ったらどう?」
「なにをだ?」
「作った本人が目の前にいるのに、何の感想もないって人としてどうなのよ?」
 自分で言うのも何だけどさ、さつまいものお味噌汁とか甘くて我ながら良く出来たのに、何にも言わずに食べてるんだもん。
 洋行の煮物にしても唸るほど美味しくて、あたしは女としてちょっと悔しく思ってるくらいなのに、大して美味しそうでもなく口に入れてるんだから。
 鮭を切り分けていた隆広のお箸が止まった。なんでそんな不思議そうな顔で見てくるのよ?
「なによ?」
「要するに、美味いとか不味いとか、言えって事か?」
「分かってんじゃない。あんたさぁ、あの洋行に毎日ご飯作ってもらっているのに、何にも言ってないの?」
「言う必要があるのか?」
 思わず持っていたお箸を投げ付けそうになったよ。
「そりゃ、洋行はそれでお給料もらっているのかもしれないけどさ。作ってくれた人に、何にも言うことはないわけ? あんたは、食べていて何にも思わないの?」
「不味けりゃ、不味いって言うぜ」
「だから、黙って食べていれば美味しいっていうわけ? 作り甲斐のない奴!」
 そう言ってやったら、何でか不本意そうな顔で切った鮭を口に入れた。
 まぁあの命令口調からして、こんなことだろうとは思っちゃいたけどさ。こいつのためにご飯を作るなんて、これっきりって最初から思っていたけど、本当にもう二度とお金を積まれたって、作ってやるもんか!
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