Act.3 裏切られた想い...4

 なんか変な間が出来ちゃった。隆広がお見合いを断ったなんて言うから。
「酒が飲みてぇ」
 唐突にボソッと言うから、ちょっとビックリした。そんなボヤく様に言わなくたっていいじゃん。
 何を注文するか訊いたら、またしても「ここで一番高い酒」だって。せめて銘柄を言ってくれればいいのに。まぁ、やることが出来てホッとしたけどね。
 安堵のあまり勢い立ち上がっちゃって、激痛が足首に走った。しまった、すっかり忘れてたよ。声を堪えることも出来ず、ソファに体が沈んだ。
「どうした? 咲弥子」
「な、なんでもない」
 とは言ったものの、身を屈めて足首を押さえた。思いっ切り体重が乗ったから、今までの比じゃないくらい痛い。
「見せてみろ」
「あ、ちょっ、いだっ!」
 押さえていた右足を持ち上げられて、またしても激痛。うう、痛いよぉ。泣きそう。
「こんなに腫れ上がって、よくこんな靴はいてられるな」
「だ、だって、あんたが、セットで贈り付けて、いっ、触んないでよぉ」
「うるせぇ、黙って大人しくしてろ」
 ヒールを脱がされて、熱を持った右足首を持ち上げられた。痛みで瞑っていた瞼をちょっと開けると、チャイナドレスのスリットがはしたなく広がっていた。その先にはあたしの足首を、すくい上げるように持った隆広。ぎゃー、中身が丸見えじゃないの!
「ちょっ、足、下ろしてよ! いだぁ! 触んなってば!」
 なんで痛いところを、そんなに触るのよ。
「ぎゃあ! 押すな、伸ばすな、曲げるな、いだいぃ!」
「んな大声上げるほど痛ぇなら、店に出るんじゃねぇよ。ふん、派手に捻挫したな」
「あんたのせいよ! 離してってば、バカ! ぎゃあ!」
 こいつ、痛いところのツボをわざと押しやがった。ソファの上で思いっ切り仰け反って悶えちゃった。こんな場面見られたら、絶対誤解されるよ!
「このドエス男ぉ! 離してってば!」
「ったく、他の客の前でもお前はこんなかよ」
「そんなわけないでしょ! あんたじゃなきゃ、こんなことしないわよ!」
 ようやく足が下ろされた。それもソファの上に。それから、ちょっと体が浮き上がるような感覚。なんじゃい? と思って涙目を開けたら、隆広がソファから立ち上がっていた。体が浮いたように感じたのは、そのせいか。あの浮き上がり具合は、相当体重は重そうだよね。まぁ、あの体つきは結構鍛えてそうだし。ホテルで最初に抱かれた時の、隆広の裸体を思い出した。
 ハッ! こんな時に、なんてものを思い出してんのよ!!
 自分を叱咤してる内に、隆広は壁のインターホンを取っていた。よく聞き取れないけど、タオルと氷と酒っていう言葉は分かった。
「ちょっと、あたしが仕事してないみたいに聞こえちゃうじゃない!」
 戻ってきた隆広に抗議したら、あたしの右足を持ち上げて腰が密着するほどの傍に座った。あたしの足は隆広の太股の上を通過してるんですけど。左足は床に落としたままだから、かなり大股開いてる。スリットから両足がむき出しになっちゃって、ちょっと恥ずかしいな。
「お前は立てねぇだろ。今日はこのまま送ってやるから、大人しくしてろ」
「お、送るって、だってあたしの上がる時間は11時っ」
 いつの間にか背中に腕が回っていて、胸が隆広に密着状態になっていた。この展開はマズイと思った時には、眼前に隆広の顔が迫っていた。
 お店の中でディープキスなんて、なに考えてんのよ! 力いっぱい隆広の胸を押したのに、全然ビクともしない。こんなところ黒服に見られたら、どうしてくれんの!?
「んぅふっ、んっ」
 口腔を舐め尽されて舌が絡んできたところで、ノックの音が聞こえた。その一瞬後に唇が解放される。あたしは咄嗟に隆広の肩に額を押し付けて、ドアの方角から顔を隠した。二人の格好がどう見られようと、こんな惚けた顔を見られるのだけは避けたかった。
 顔を背けてるあたしの耳に、黒服がテーブルに物を乗せる音が聞こえてきた。隆広は当然のようにお礼を言ってる。外面はいいんだな、こいつ。
「なんで顔を背けてんだよ?」
 黒服が出て行ってから、隆広が意地悪く訊いてきた。
「あんたがキスなんかするからよ!」
「ああ、お前に会ったらすぐにしたかったからな」
「はあ? なに、その欲求不満」
「厄介な女に付き合わされてきたんだ。そのくらいいいだろうが」
 なによ、全然理屈が通ってないじゃない。八つ当たりとか不満解消にキスされたんじゃ、たまったもんじゃないわよ!
 その罵倒は声にはならなかった。隆広が広げたタオルに氷を置き始めたから、何をしてるのかと、つい見入っちゃったよ。
「なにしてんの?」
「このままじゃ痛ぇだろ」
「は? あっ」
 テーブルに広げた氷を置いたタオルの上に、あたしの右足首を持って行った。
「うわ、冷たっ!」
「我慢しろ、こうしてた方が治りは早い」
 そう言って、器用にタオルの端で足首を巻いて固定した。驚いた。氷とタオルなんて、何に使うのかと思っていたら、このためだったのか。思わず隆広を凝視しちゃったよ。
「なんだ?」
「や、だって、こうしてくれるなら、先に言ってくれればいいのに」
「言ったってお前は聞きゃしねぇだろ」
 う、まぁ、それは、ママのこともあるから、こいつの言うことなんか聞く気もなかったけどさ。
 何でもお見通しされてるなんて、ムカつくなぁ。
「まぁ、酒飲んで機嫌を直せ」
「それはあんたでしょ!」
 言いながらボトルを取ろうとしたら、先に隆広が持ち上げてしまった。
「ちょっと、あたしの仕事!」
「今日はいい。そのまま休んでろ」
 そんなこと言われたってさぁ。唖然としている間に、隆広が綺麗な琥珀色のお酒を、ブランデーグラスに注いじゃった。
 この前のブランデーはヘネシーのリシャールだったけど、今日はロール・ド・マーテル。お店でも一日に一本出るか出ないかの、超高価なお酒だよ。あたしはこの前に続いて、お店で見るのも初めて。お安い通販でも20万くらいするから、ビックリだよね。ここだとやっぱり100万はするか。
 いかにも金持ち用のお酒だよね。こいつにピッタリだわ。
 隆広からグラスを渡される。東海林グループ会長が給仕するなんてね。きっと誰に言っても信じてもらえないだろうなぁ。
 ぼやっとそんなことを思いながら、隆広とグラスを鳴らしてコニャックの香りを嗅いだ。この前のリシャールより芳醇な香りがする。こういうお酒の味わい方って、ここで隆広と飲むくらいしかないなぁ。
「美味いな」
「うん、美味しい」
 もっと飲みたくて、くーっと飲み干したら「咲弥子は一杯だけだ」なんて言われてしまった。
「な、なんでよ!?」
「お前、酒に酔ってセックスすると途中で眠っちまうんだよ。前回はえらい目にあったからな、予防だ」
「うぐっ、あの時のことは、ちゃんと謝ったじゃない。それに、今日はそんなに酔うほど飲まないわよ!」
「大体、あれだけ足を腫らして酒なんか飲んだら、後が大変だぞ」
「…………」
 くそぉ、正論過ぎて何も言えない。確かに、こんな強いお酒を体に入れたら、もっと痛んでくるよ。さっきも少し飲んじゃったからなぁ。っていうか、さっきどさくさに紛れて変なこと言ってた。このままあたしをお持ち帰りして、セックスするつもりかい!
「っていうかさ、そもそも足がこうなった原因は、あんたにあるんだからね」
「俺が? どういうこった? そういやお前、イヤリングと簪はどうした? 確かドレスに合わせてルビーのがあったはずだ」
 ぎゃっ! 墓穴掘りってこのこと!? お姉様方の嫌がらせを、言わない訳にいかなくなっちゃった。
 自分だけマーテルを飲んだ隆広が、あたしを見て「言え」と無言の強迫をしてくる。これって仕事用の顔なのかな。ちょっと、どころでなく怖いんですけど。その怖さに耐えかねて、しょうがなく今日起きたことを全部話した。
「ふん、あのホステス共のイヤリングと髪飾り、どっかで見たことあると思ってたが、咲弥子から奪ったのか。まるで強盗だな」
「見たの?」
「ここに入る時に、フロアはざっと見てる。誰が来てるか、一応把握しておかねぇとな」
 なんか、やっぱり隆広って凄いの? 一瞬でお客さんの顔を把握するなんて、そうそう出来ないと思うよ。
「あの、どうするの?」
「あ? どうもしねぇよ。取り返してもいいが、そのままにしておいた方が、後々役立ちそうだからな。それよりお前のことだ」
「あたしの? なによ?」
「お前の就職内定を妨害してるのが『椿』のママだと、俺が言ったのをしゃべっちまったんだろ。あの女に」
 う、そういえば、さっきはそのことで険悪になってたんだった。でも、あたしは間違ったことはしてない。
「言ったでしょ。あたしにとってはお母さんみたいな人なの。あんな話を聞かされたら、気になるじゃない。嘘かどうか訊いただけだよ」
「それで、認めたか? あの女は」
「そんな訳ないでしょ。嘘だって、ちゃんと言ってたわよ」
「本当か?」
 間髪入れずに、胡乱気に訊いてくる。どういう調べ方したのか知らないけど、ママがあたしを裏切るはずはないのよ。さっきはちょっとそう思っちゃったけど、やっぱり違うって信じたい。
「ママは、あたしの就職を妨害してるなんて話は、デタラメだって言ってたわよ」
「ふん、あの女ならそう言うだろうな」
 三杯目のマーテルを空けて、グラスをテーブルに落いた隆広は、その手で顎を押さえて呟いた。
 不敵な笑みを浮かべた横顔に、思わず惚れちゃいそうになる。こいつのこういう顔って、妙にカッコイイんだよね。引きずられちゃダメって思うのに、目が離せなくなる。
「昨日お前に話してから、こんな事態になることもある程度予想しちゃいたが、ちと早急過ぎるな。計画を少し早めた方がいいかもしれねぇ」
「計画?」
 なんだろ、あたしが聞いててもいい話かいな?
 オウム返しに呟いたあたしに向いた隆広の顔は、それまで見たどの表情とも違っていた。有無を言わせない眼光に身がすくむ思いだった。
「咲弥子、早い内にここを辞めろ。そうだな、今月中に」
「…………」
 なに言ってんの!? 今月中って言ったら、あと2週間しかないじゃない!!
 さっきまでならすぐにそう言い返せたのに、今の隆広にはそれを言わせない雰囲気があった。ちょっと、冗談でなく怖いんですけど。
「あ、ど、どうして?」
「お前が巻き込まれるのを防ぐためだ。とにかく、今は何も訊かずに言うことを聞け」
「やだっ!」
「お前なぁ」
 自分でも子供っぽいと思う言い方だったけど、こいつの言うことに従うなんて絶対やだっ!
 隆広は呆れた顔であたしを見てる。でも、これだけは絶対譲らないんだから。
「言うことを聞かせたかったら、ちゃんと納得出来る話をしなさいよ。ママがあたしの就職を妨害してるなら、その証拠を見せなさいよね!」
 う、またさっきの怖い目で睨まれた。でも、今度は負けるもんか!
 しばらく無言で睨み合っていた。だんだん居た堪れなくなってくる。でもここで負けるのは悔しいから、我慢する。
 更に時間が経って、隆広がふいに視線を逸らした。ホッと緊張が解けて、体から一気に力が抜けたよ。
「ちっ、しょうがねぇな。だが、知っちまったらここのバイトはすぐに辞めさせるぞ」
「なっ!? そんなの横暴よ!」
「お前が存外、口が軽いのが分かったからな。あの女の傍に置いておけるか!」
「あんたが納得出来ないことばっかり言うからでしょ! あたしを納得させられたら、あんたの言うことを聞いてやるわよ!」
 ちょっと軽はずみだったかな、言っちゃってから後悔した。こいつなら証拠の捏造くらい簡単に出来そうだし、あたしにそれの真偽を判断出来るとは思えなかった。でも、言っちゃったからには、せめてこいつから証拠を出させなきゃ。
「ふん、言ったな。お前を嫌というほど納得させてやる。あの女を呼んで来い」
「は!? ちょっと、いきなりそれ?」
 今ここでママに問い質そうっての? こいつの頭は大丈夫かと、ちょっと心配しちゃったよ。
「勘違いすんなよ。お前を早退させるのに、公然としねぇとマズイだろ」
「なっ、早退? なんでよ!?」
「こんなところで話せると思うか? ここはあの女の城だぜ。それに書類なんかで見せたって、お前は納得しねぇだろ」
 確かにまぁ、そうだけど。さっきそれを考えたばっかりだし。くそぉ、こいつって本当に何でもお見通しなんだ。怖いくらいだよ。
「分かった」
 渋々言うと、隆広が自分からインターホンに近付いた。
「ちょっと、あたしがやるわよ」
「いいから座ってろ。お前じゃ何を言ってあの女を呼び出すか、知れたもんじゃねぇ」
 慌てて立ち上がろとしたあたしに向かって、そんなことを言う。あたしだって常識は持ってるわよ。そんなバカ正直にママを呼んだりしないわよ! もう、本当にムカつく!
 ママはすぐにVIPルームに入ってきた。珍しいな、お酒を飲んでるみたい。ママが一緒に飲むようなお客さんが来てたのか。
「東海林様、なにかお話があるとか?」
「ああ、これからすぐに小夜を連れて帰る。いいな?」
「まぁ、もちろんですわ。クラブ通いをなさらない東海林隆広様が、ウチの小夜を気に入って頂けるなんて、こんな喜ばしいことはございませんもの」
 ママは澄ました笑顔を浮かべているけど、それが愛想笑いじゃないのがあたしには分かった。ママはもしかして、あたしがいることで隆広をお店に繋げられると思っているのかな。だから、今日はあんなことを言ったの? 今まであんな話はしなかったのに。
 そう思うと、ちょっとだけ自分が傷付いているのに気が付いた。ママにとってはお店が一番なのは、当たり前なのに。
「小夜、鞄を取って来い」
「あ、え?」
 いきなり声を掛けられて、すぐに反応が出来なかった。ママが微笑みながら首を傾げて、隆広は呆れたような顔であたしを見ている。
「ママと少し話しがある。お前は出られる準備をして、ここに戻って来い。足が痛いだろうが、少し我慢しろ」
「え、あ、はい」
 隆広がママと話。気になる! でもあたしは大人しく従うことにした。何となく、あたしの見たくないママを見せられる気がして。
 氷を巻いていたタオルを取って、ヒールをはいて立ってみると、そんなに痛くなかった。直接氷を当てて、物凄く冷たくしていたから、ちょっと麻痺しているのかな。
 VIPルームから出てると、フロアにいたお姉様方も同僚のホステスもお客さんも、そこにいた全員の視線があたしに注がれた。ビックリして固まっちゃったよ。すぐにいつものお店の雰囲気に戻ったけど。
 やっぱりママが入ってあたしが出てくるってのは、注目を集めるよね。
 痛い足を引きずって控え室に入ると、バッグの位置が変わっているのに気付いた。化粧台の前で中身を出して確かめる。別に何も取られてないみたい。
 でも、これを持ってフロアに出たら、今度は何事かってまた見られちゃうと思う。うーん……まぁ、嫌がらせされるにしても、今日以上に酷いことはないでしょ。人生前向きに考えなくちゃね!
 バッグを持ったあたしがフロアに出ると、案の定またしても注目が集まったけど、ニッコリ愛想よく笑ってまたVIPルームに入った。お姉様の一人が唇を噛んでいるのが横目に見えた。笑ったのは、ちょっと不味かったな。後悔しても遅いけどさ。
 VIPルームは、こっちはこっちでまた、別の剣呑な雰囲気が。なんでこんな火花散ってるような空気がするの?
 よくよく見ると、火花を散らせているのはママの方なんだけど。隆広は涼しい顔であたしを見て「来たか」なんて言ってる。
 そしてあたしに近付いて来ると、いきなりお姫様抱っこをした。ギャー!
「何すんのよ! 離して、下ろして!」
「うるせぇ、大人しくしてろ。投げ捨てるぞ」
 うぐっ。こんなところで投げられたら、足を捻挫するくらいじゃ済まないよ。隆広の声にちょっと本気度が混じって聞こえた。こいつ本当にやる気だ。
 しょうがなく、隆広の腕の中で大人しくバッグを抱えた。うう、このままフロアに出ようっての? メチャクチャ目立つじゃないの! せめてバッグで顔を隠そう。
「じゃあな、小夜はもらって行くぞ」
 なによそのセリフ。バッグの隙間から隆広を見上げたら、予想に反して真剣な顔だったから驚いた。
 もし今のが本気で言ってたんだとしたら、もしかしてあたしここを辞めさせられる? 冗談じゃない!
 暴れようとしたあたしの気配に気付いたのか、隆広がこっちを見下ろした。うう、その怖い目はちょっと、マジで勘弁。冷や汗が出て、体が硬直しちゃった。
 隆広はこれ幸いと、ドアに向かった歩き始める。ママが慌てて来て、ドアを開けた。
 フロアに出た途端、周囲が一斉にざわめいた。バッグで顔を隠していても、それがはっきり分かったよ。なんかもう、怖くてお店に来られません!
 体に感じる隆広の歩調は、乱れることなく悠然と進んでいるみたい。こういう注目の浴び方も、慣れたもんなんだ、こいつには。あたしを巻き込まないでよね!
「ありがとうございました。どうぞ、今後とも『椿』をご贔屓に……」
 背後でそんなママの声が聞こえる。少し冷えた外気を感じて、あたしはバッグを下げた。いつも見るのより少し早い、夜の銀座の風景だった。ちょっと目線が違いますが。
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