Act.2 この俺が女に惚れた? 嘘だろ...3

 物足りねぇ朝メシを食って、爺さんとの約束の30分前に里久が迎えに来た。
 っつっても、こいつのアウディはここの駐車場に停めてある。こいつ自身は、近所の安アパートで一人暮らしだ。俺の護衛も兼ねてるんだし、部屋も余ってんだからここに住みゃいいのに、頑なに固辞してんだよな。
 いつも無愛想な奴だが、今日の里久は更に機嫌が悪い。いや、昨日『椿』へ行った時からこうだったな。咲弥子のことを吐かせるのに、春樹の奴、何をしたんだか。洋行は知ってるだろうが、口を割らなかったな。口止めされてるのか、俺が知ると里久が気の毒になるようなことなのか。
 不気味なほど静かな車での移動を終えて、俺はデッカイ屋敷の前に立った。屋敷っつうか、館だな。ここ東京じゃねぇだろってツッコミたくなるぞ。東京のど真ん中だが。
 明治初期に建てられた洋館は3階建て。見た目は古いが、代が変わるごとに当主の趣向でリフォームしてるから、内装は意外に現代的だ。爺さんが新しい物好きってのもあって、かなり前からオール電化にしてる。ちなみに自家発電機も設置済みだから、停電が起きても問題ねぇ。ホントに抜け目ねぇな、あの爺さんは。
 2年前に死んだ親父は、結局ここを自分の好きなように改装することは出来なかったな。構想はあったみてぇだが。
 今は当主が俺なんで、一応俺の持ち物ってことになってるが、とてもここに住もうなんて気にならねぇぜ。爺さんは健在だし、一番上の香緒里姉貴はとっくに結婚してるのに旦那と一緒に居座っている。爺さんも孫娘には甘いっつうか、別居よりはずっといいなんて言いやがる。だが、一番うるせぇのは妹の多香子だ。
 朝っぱらからあのマシンガントークを聞かされるのか。げっそりした気分で玄関のドアのノックを叩く。平成のご時世にノックたぁ前時代的だが、エントランスにはいつも執事が待機してるんでノックで十分だ。
「隆広様、おはようございます。お待ちして申しておりました」
 バカ丁寧に頭を下げるのは、この館の執事長の真嶋。爺さんより5つ年上で、髪も髭も見事に白い。もう十分に老境なのに、ここの若いメイドたちに人気があるのは、禿げなかったせいだけじゃねぇな。
「真嶋翁、元気そうで何よりだな」
「恐れ入ります。大旦那様はテラスでお待ちになっておられます」
 今日は天気がいい。もう少し時季が進むと、とてもそんな陽気じゃなくなるが、秋晴れで日当たりのいい庭なら、今日は日向ぼっこも出来るだろう。
 一応当主の俺が相手だからか、真嶋翁が先導する。歩く足元はまだまだ揺ぎないし、背筋も伸びている。少なくとも爺さんが健在な内は、館内のことは真嶋翁に任せておいて大丈夫だろう。
「母さんは元気か?」
「はい、旦那様が亡くなられてから、少々塞ぎこんでおられましたが、最近は学生時代のご友人たちと出掛けられることが多くなり、気力が戻られたご様子です。一週間ほど前から、大奥様とご一緒にヨーロッパ旅行に出掛けられました」
「そうか、ならよかった」
 親父が死んで、一番堪えていたのは母さんだったからな。元気に留守にしてるなら、それでいい。
 真嶋翁に続いて庭に出た。何度も言うが、東京のど真ん中だっつうのに、陽射しを遮るものがねぇ庭ってのは、贅沢だよな。爺さんは、テラスにしつらえたテーブルセットの椅子に座って新聞を読んでいた。
 去年までは俺がどこへ行くにも、爺さんがべったりくっ付いて来ていた。自分が後見だってことをアピールするためだろう。今じゃ、こうして実家に引っ込んでいることが多いが。
 毎朝各新聞を読むのは、昔からの習慣だと言ってたな。でかい記事よりは、隅っこにある小さい記事を中心に読むんだとか。俺らくらいの立場になると、デカイ記事になるような事件は自然と耳に入ってくる。つか、耳に入れようとする連中が多いんだよな。
 俺の場合は冬樹が事前に事件をジャンル分けしてまとめておくから、それに目を通せばいいだけだ。持つべきは、信頼出来るサポートだな。あいつはちとオタクだが。
「大旦那様、隆広様がお見えになりました」
 俺の時よりも更に深々と頭を垂れる。この差はどうしようもねぇか。まぁ、俺に対して真嶋翁の頭が、爺さん程垂れるのを見せられるのは勘弁してほしいぜ。今でも十分、面倒臭ぇ立場にいるからな。
 爺さんは老眼鏡を外してから、読んでいた新聞を丁寧にたたんでテーブルに置いた。几帳面なのは相変わらずか。着物に羽織っつうのが似合うのも、この歳ならではだな。髪も髭も、かなり白いものが混じってきた。髪の量は同年代の連中が羨むくらい豊かだから、年齢よりもかなり若く見える。
 それにしても、今朝は随分機嫌がいいな。鼻唄でもしそうなくらい春爛漫な雰囲気だぞ。
「来たか、隆広」
「おはようございます、爺様」
「うむ、帰ってくるのは久しぶりだろう。ここはもうお前のものだ。つまらん意地など張っとらんで、素直に戻ってきてはどうだ?」
「意地で一人暮らしをしている訳ではありませんから。もどりたくなったら、自分から帰ります。そういうお話ならもう用は済んだので、行きますよ」
 軽く頭を下げて踵を返したところで、予想通り声が掛かった。ここは俺も素直に振り返って、爺さんを見下ろす。
「待て待て。全く、そんな性急では女にモテんぞ」
「爺様に心配される程、苦労はしていません。話というのは、そっちのことでしょう?」
「うむ、読みがいいのは話が早くて助かる。真嶋とお前以外はくどくど説明しなきゃいかん」
「それで今回は、どこから来た話です?」
 どうせ今日の話ってのは、見合いかなんかだろう。俺が女と付き合っている間も、いい話が舞い込んで来たり、爺さんが「これは」と思った女を見付けて来たり、色々あった。その度に「今付き合ってる女がいるから」と断っていたが、あいにく今の俺には女がいねぇ。それを知ってる爺さんにとっては、ベストタイミングってやつだ。昨日までは。
「うむ、高嶺建設の会長からだ。孫娘が三月に大学を卒業するそうでな、下手な虫が付く前に結婚相手を決めてしまいたいそうだ。だが本人の意見は尊重したい。そこで何人か男の写真とプロフィールを見せたところ、即断でお前に決めたらしい」
 高嶺建設っつったら、業界きっての最大手だ。グループ内にも建設会社は抱えているが、あいにくと第3位に甘んじている。俺はそれでも全然気にしちゃいねぇが、何でもトップが好きな爺さんとしちゃ渡りに船だろう。この話なら、俺に女がいたとしても強引に話を進めるだろうな。
「このお嬢さんだ」
 そう言って渡されたのは、成人式で撮ったものらしい振袖姿の写真だった。無駄に豪華な装飾をあしらった台紙で、開くと三方向からの立ち姿の写真がはまっていた。
「美人ですね」
「そうだろう。お前の好みに合うと思わんか?」
 嬉しそうだな、爺さん。この話を進めたいってオーラがバンバン出てるぞ。
 確かに写真の女は、正統派美人って部類の顔だ。今までに来た見合い話の中では、群を抜いて美形だな。日本人離れした顔立ちに、くっきりした二重瞼の大きな眼。結い上げた髪がかなり薄い茶色なのは地毛だろう。今の高嶺社長夫人はハーフだと聞いたことがある。この自信のみなぎった目を見れば、自分の美しさと家柄の良さを十分に理解しているのが分かる。爺さんの言う通り、俺好みの女であることは間違いねぇ。
 だが、こんなに好みの女の写真を見せられても、咲弥子がほしい欲望は薄れもしなかった。『小夜』になった時の美しさは、この写真の女の比じゃなかったぜ。加えて、俺を知っても変わらねぇあの無礼な態度。このお嬢様には間違っても備わっちゃいねぇだろう。
「確かにいいお話ですが、俺にはもう決めている女性がいますので」
「なに!? 聞いとらんぞ!」
 そりゃそうだよな。何しろ一昨日出会ったんだから。あんなにも欲しいと思った女は、俺も初めてだぜ。
「高嶺会長がこのお嬢さんの意思を尊重しているのなら、爺様も俺の意思を尊重してくれませんか?」
「……どういう娘だ?」
「綺麗な女性ですよ。自分の意見をはっきりと持ち、俺に対しても一歩も引きません」
 多少美化しちゃいるが、直人に聞いても同じ様な言葉を並べるだろう。
「素性はどうなんだ?」
 爺さんは諦め切れねぇって顔だな。そこを持ち出されたら、咲弥子に勝てる見込みはねぇだろう。あいつの住み家には、お嬢様って育ちの欠片も見られなかった。
「家柄で結婚相手を決めるような真似は、したくありません」
「…………」
 爺さん、脳の血管ブチ切れなきゃいいんだがな。肘掛けから腕が持ち上がって、わなわな震えてるぞ。
「わしがこの話を進めたいのを、分かっていて言っているのか?」
「もちろんです。爺様の顔を見た時から、満開の桜みたいなオーラを感じましたよ」
「わしが反対したらどうする?」
「爺様は反対しません」
 躊躇することなく返した俺を、爺さんは不思議そうな目で見上げた。こうして見ると、随分と小さい存在になったもんだな。
「なぜ、そう言い切るのだ?」
「これまでの爺様の主義主張に反するからです。添い遂げる相手は、自分が心から望んだ者にしなければ、不幸が待っているだけだ。俺が望むのは、このお嬢さんじゃありません」
「お前の好みに合うお嬢さんだぞ?」
「今は違うんです」
 ビジネスでしか使わねぇ極上の笑みを見せて、俺は話題を打ち切った。爺さんは疲れたのか、盛大に息を吐いて椅子にもたれ掛かる。結構な時間、わなないていたからな。
「まったく、本当に融通が利かんな、お前は。わしの望みを叶えようとは、思わんのか?」
「爺様の望みは、俺が会長を継いだことで既に叶えていますよ」
 やりたくもない仕事をこうしてやってるんだ。文句を言われる筋合いはねぇ。爺さんは諦めたように肩を落とした。
「昨日の夕方、坂元水産の社長が注進にきた」
「へぇ?」
 坂元水産? ああ、昨日のおっさんか。何かやるだろうと思っちゃいたが、爺さんに告げ口たぁ情けねぇ。
「昨日の朝は『椿』のホステスと一緒だったそうだな。まさかと思うが、お前の言う結婚したい相手というのは、そのホステスか?」
 結婚はまだ考えてねぇが、そこは訂正しねぇ方がいいだろうな。ここは誤解してもらっておいた方がよさそうだ。
「そうですよ」
「……お前のことだから、反対しても押し切るのだろうな」
「まぁ、そうですね。話が早くて助かります」
 爺さんの揚げ足を取ってやると、益々肩を落として溜め息が深くなる。これじゃ俺が虐めてるみてぇじゃねぇか。そんなつもりはないんだがなぁ。
「お前が一人で高級クラブ『椿』に行ったと、昨夜から今朝にかけて盛大に噂が流れたぞ」
「へぇ、そりゃ相当尾ひれがついたでしょう」
「冗談を言っている場合か。これは誰かが故意に流したものだぞ」
「でしょうね」
 流したのも故意なら、爺さんの耳に入れたのも故意だろう。噂の出所はあのママだな。ホステスのいるクラブに俺が一人で行くなんて、今までやったことねぇからな。昨夜『椿』にいた客は、仕事で見たことある連中ばっかりだった。あいつらが証人みてぇなもんだ。
 咲弥子の客として行く前に、冬樹に一通り調べさせた。『椿』の顧客はそうそうたる顔ぶれだ。名だたる一流企業・組織の重役ばっか、爺さんの名前まであったぞ。あの顧客リストを見れば、あのママがどれだけ強かか分かるぜ。一緒に見た春樹も、あの手広さには呆れてたな。
 それに直人が俺の秘書に推した女は、咲弥子が初めてだった。あいつが有能と太鼓判を押したのに、それで就職が決まらねぇってのもきな臭ぇ話だ。
「あそこのママはやり手だ。油断すると足元をすくわれるぞ」
「承知しています。俺に喧嘩を売る気なら、それ相応の報復はしますのでご心配なく」
 心配性な爺さんを安心させてやろうとニッコリ笑ってやったのに、それを見た爺さんはうすら寒そうに首をすくめた。
「まぁ、ほどほどにな。今朝は真砂」
「真砂子さんが作った朝食でしょう。食べて行きますよ」
 今度は口をパカーッと開けて俺を見上げた。呆気に取られた爺さんを眺めるのは、ちょっと気分がいい。別に虐めてるわけじゃねぇが。さすがに俺の秘書がここのセキュリティにハッキングしたなんて、思い付きもしないだろうな。
 真砂子さんてのは、この館に古くから仕えている女中頭だ。親父を幼い頃から面倒を見ていて、その子供の俺たちも随分世話になった。5年前に引退してそろそろ古希を迎えるが、体も頭もまだまだ元気だ。
 若い頃からずっと住み込みだった真砂子さんには、他に住むところがない。狭くてもいいという真砂子さんの意思は置いておいて、爺さんは嫁いで行った二番目の姉貴、由香里姉さんの部屋を貸している。由香里姉さんも、真砂子さんならいいと言って喜んで使わせている。
 あの真砂子さんを哀しませるのは、俺も気が重い。それが分かっているから、爺さんも高齢なのを承知で、朝食を作らせたんだろう。それを俺が知っていたとは、考えもしなかっただろうが。
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