Act.2 この俺が女に惚れた? 嘘だろ...2

 布団にくるまって眠っていると、やかましい音が鳴り響いた。うるせぇ……アラームか? ……じゃねぇな、電話……でもねぇ。……エントランスのチャイムか。
 だが、眠すぎて目が開かねぇ。秘書の連中なら鍵は持っている。マンションのオートロックも解除出来ねぇ奴なんざ、はなから門前払いだ。
 鳴り響くチャイムを無視していると、しばらくして止んだ。バカみてぇに鳴らす奴は、俺の知ってる人間じゃ一人しかいねぇ。今何時だ?
 ベッド脇のサイドボードに腕を伸ばし、時計を取った。っつっても、まだ目が開かねぇな。何とか薄目を開け、時刻を確認する。
 ぼやける視界に見える針が差しているのは、5時!? あいつめ、減俸だ!
 とりあえず体だけは起き上がれたが、目はまだ開かねぇ。思いっきり欠伸をしていると、ドアがノックされた。
「ああ!?」
 これが「入れ」の同義語と、俺の秘書なら分かるはずだ。
「おはようございます、起きておられましたか」
 慇懃無礼に入ってきたのは俺の秘書の一人、野添洋行だ。どう見ても俺には『ひろゆき』としか読めねぇが、『ようこう』が正しい読み方だそうだ。こんな読みにくい名前を付けた親の顔を見てみてぇぜ。
「お前のチャイムが煩くて起きた。朝5時に主人を叩き起こしておいて、よく笑顔で来られるな」
「お忘れですか?」
「なにをだ」
「今日は朝7時に、お祖父様に呼び出されているじゃないですか」
「…………ああ」
 忘れてたぜ。昨日、じゃねぇ一昨日仕事が明ける直前、爺さんから連絡が入ったんだ。最初は昨日と言われたが、丸一日オフを朝から潰されちゃたまんねぇ。
 昨日か……一日で色んなことがあったな。例えて言えば、天国と地獄……ちっ、笑えねぇ。
「ったく、年寄りは朝早くていけねぇな」
「お祖父様としては、仕事中や仕事明けに呼び出すよりは、気を利かせているつもりのようですよ」
「だからって7時ってのは早すぎだ。どうせ朝飯食ってけとか言うんだろ」
 ようやく目が開いてきた。グレーを基調にしたシンプルな壁紙に、必要最低限の家具その他、キングサイズのダブルベッド。昨日咲弥子にはああ言ったが、俺の部屋もホテルの部屋と似たようなもんだな。
 何にしても眠い! 盛大な欠伸が出たぜ。
「隆広様」
 なんだ? その呆れ顔は。剣呑に見上げてやると、今度は溜め息をついてきた。
「その顔、女性の前では絶対にしちゃダメですよ」
「欠伸を止められるか」
「せめて手で口を覆うくらいのことは、した方がいいと思いますね。顎が外れるんじゃないかと思うくらい大口開けて、酷いアホ面でしたから」
「それくらい許さねぇ女なんか、こっちから願い下げだ」
「まぁ、ここで大人しく「そうだな」なんて言われたら、槍が降ってくるでしょうから、そういうことにしておきましょう。朝食の準備、しますか?」
「ああ、頼む」
 俺の秘書たちは、揃いも揃って一言多い。つか口が悪い。何も言わずに従うのは、里久くらいだ。いや、あいつもたまに俺の命令を無視するか。俺が畏まられることを良しとしなかったからだが、こうして実践されると、いちいち腹が立つな。今更、止めさせようとも思わねぇが。
 洋行が立ち去る気配がないんで、怪訝な目を向けると、困惑顔で訊いてきた。
「俺から振っておいて何ですが、朝食、本当に食べて行かれるんですか?」
「当然だろ」
「では、軽めに作りますね」
「ガッツリ作れ。俺は風呂に入る」
「…………分かりました」
 洋行は、納得しがたいという顔をしている。はっきり教えたことはねぇが、実家を出たのはそれなりに理由があるんだ。嫌味でお前の仕事を増やした訳じゃねぇんだぜ。
 布団をはだけてベッドを降りた俺の背後から、「ちょ、ちょ、ちょっ」とかいう奇妙な声がした。振り向くと、この世の終わりのような顔をしてやがる。
「なんだよ、けったいな顔しやがって」
「あのですね、前から言ってますが」
 頭痛でもするのか、痛みをこらえるように、こめかみを押さえた。
「なんだ、早く言え」
「ベッドから降りたらスッポンポンて、絶っっ対女性の前でやってはダメですよ!!」
 そんなこと今更だろうが。大体、女と寝る時はセックスするんだから、真っ裸なのは当然だろう。昨日もやった。そう言ってやったら、胡乱げな目線をくれやがった。
「まさか、相手はあの酔っ払い女性ですか? マスターの店で出会ったという」
「耳が早ぇな、里久か」
「先に言っておきますが、彼が自分から話した訳ではありませんよ」
「分かってる。春樹が吐かせたんだろ」
「正解です。ですから、里久を責めないでやって下さい」
「そこまでケツの穴は小さくねぇよ。朝飯、頼むぜ」
「分かりました」
 これ以上こいつと話していても埒が明かねぇ。俺はとっとと寝室を出てバスルームに向かった。

 
 

 都心の一等地に建つ40階建てのマンション、その最上階が俺の自宅だ。
 どの階も1フロアに1部屋で6LDKの贅沢な造り。一人暮らしなら2LDKで十分と言ったのに、俺の嗜好は無視され、秘書どもが勝手にここと決めた。あいつらが納得するセキュリティーと立地に叶ったのが、ここしかなかったらしい。
 俺の意思を無視とはいい度胸だが、俺に何かあればあいつらが責任を取らされるんだ、仕方ねぇか。デートの後は大抵ホテルでセックスするから、女を通わせることもねぇ。そういや、女を連れてきたことは一度もねぇな。
 リビングの窓から街を一望した。せせこましくビルと家屋が建ち並んで、空間といったら空しかねぇ。こうして見ると緑が少ねぇってのが、よく分かるな。
 俺がここに帰らねぇ時も、洋行はせっせと来て掃除やら片付けをやっている。人が住まないと家中が傷むとか言って、たまに泊まってもいくらしい。そのせいか、意外に生活感はある。
 バスルームは、湯船のある風呂場とシャワールームに別れている。風呂は24時間循環型なんで、いつでも入れるのがいい。洋行に言わせると贅沢な造りらしいが、実家もこんなもんだから、俺には普通だ。
 熱い湯を頭から被っていると、毎朝お馴染みの下腹部が目に入った。回復するのに今日いっぱい掛かるかと思ったが、思ったより早かったな。
 ったく、昨日のアレはホントに地獄だったぜ。
 スゲェ女だったな、藤野咲弥子。自分から名乗る前に、俺に名乗らせやがった。
 マスターの店じゃ、ワイルドターキーとストリチヤナを浴びるようにカパカパ飲んで、挙げ句の果てにテキーラまで。あれで二日酔いしねぇってのは、殆どバケモンだな。俺も二日酔いをしたことがねぇから身も蓋もねぇが、少なくとも女であそこまで飲める奴は初めてだ。
 迎えに来た里久との相性は最悪だな。同属嫌悪ってやつかもしれねぇ。何となくだが咲弥子は、里久と同じ匂いを感じる。欲求不満なのは全然似てねぇけど。里久が女を作ったって話は聞いたことねぇ。暇があればジムで体を鍛え、道場で実戦技を磨いてるからな。真っ当な男のくせに、どうしてあんなにストイックに生きられるのか、不思議だぜ。
 ああくそっ、思い出しちまった。ベッドの上で散々泣かせた後、爆睡しやがった咲弥子の寝顔。あんな幸せそうな顔で寝られたら、突っ込むなんて出来ねぇわな。あいつが自分からああ言ったってことは、寝てる間にヤられた経験があるってことだよな。意外とろくでもねぇ男と付き合ってきたんだな。
 それにしても、相手がいるのに自分で処理するなんざ、人生初の屈辱だったぜ。
 ……いや、人生初の屈辱はもう一つあったな。多分この先も一生ねぇだろう。股間を蹴り上げられるなんてことは。
 熱めのシャワーを浴びてんのに、今思い出しても寒気がする。マジで三途の川を渡り掛けただろ、ありゃ。真面目に花畑が見えたし。自業自得と言われれば、返す言葉もねぇが。
 今まで付き合ってきた女は、全部向こうからのアプローチだった。独り身の時も俺から付き合えと言ったことはなかった。それなのに「俺と付き合えば、就職先を斡旋してやる」なんてセリフが、よく出てきたもんだぜ。
 この俺が酔っ払い女に一目惚れ?
 まさか、そんなはずはねぇ。あいつに惚れたと言うなら、それは『椿』へ行くのにホステスの顔になったのを見た時だ。
 化けるだろうと予想していたが、あそこまでとは思わなかった。普通の化粧でも、つか、スッピンでも十分美人だったのが、化粧の仕方で女の顔の印象ってな、随分変わるもんだな。
 あの陶器のような肌、思い出しても震えが来るほどだ。
 起き抜けに一発ヤッた時といい、車ん中で弄り倒した時といい、男をそそるエロい表情をしていたが、あいつのアパートに押し掛けて泣かせた時のあの顔は、まさに垂涎ものだった。
 む、こんな程度で欲情するとは情けねぇ。まぁ、ここまで回復したのは、よかったと言えるか。
 ったく、この俺が股間蹴り上げられたなんて、春樹と冬樹に知れたら絶対に大笑いされる。何としても極秘にしとかねぇと。里久はほぼ俺に従順だし、洋行は常識人だからいいとして、あの二人は主人を主人とも思わねぇからな。爺さん相手でも怯まねぇのが気に入って使ってるが、やっぱあそこまで徹底されると腹が立つ。
 ……やめだやめ!
 咲弥子ならともかく、朝っぱらからあの二人の顔を思い出すなんて、縁起悪ぃ。腹立ち紛れにホイップクリームなみにボディソープを泡立て、全身をくまなく洗った。
 軽く風呂に入って体を温め、最後にあまり濃くない髭を当たってバスルームを出た。

 
 

 ウォーキングクローゼットがある寝室へ戻っていると、洋行の作る朝食の匂いが漂ってきた。あいつめ、ガッツリ作れっつったのに、パンなんか焼きやがって。作っちまったもんは仕方ねぇ。話は後で着けることにして、さっさと着替えることにした。
 爺さんは服装にこだわる性格じゃないんで、特に堅苦しいスーツを着ていく必要はない。どうせオフィスに行けば着替えを余儀なくされる。それまではラフなスーツでいよう。
 髪をオールバックにセットしてダイニングルームに向かうと、ちまっとした朝食が用意されていた。
「おい洋行! ガッツリ作れっつったろ」
 それが玉子とハムのホットサンド一つに、ヨーグルトとはなんだ!?
「ですが、ご実家で絶対に朝食が出ますよ?」
「だから、米の飯を食わせろよ」
「それよりも、ご実家で素直に召し上がってくるのが、よろしいんじゃないかと」
「…………」
 ちっ、正論過ぎて返す言葉がねぇな。
「お祖父様への反抗心は分かりますが、意地を張らずに甘えてくればいいじゃないですか」
「爺さんは関係ねぇよ」
 理由を話してねぇと、こういう誤解を受けることになるのは、日頃の俺の言動のせいか。ま、今更変えようとは思わねぇが。
「忘れていましたが、冬樹から伝言があります。今朝ご実家で朝食を作られるのは、真砂子さんだそうですよ」
「あいつはどっからそんな情報を取ってくるんだ?」
 冬樹が住んでるのは、実家から遠く離れたオフィス近くのマンションだ。大体、東海林本家の、しかも誰がメシを作るかなんて究極の内部情報だぞ。そんなもんが筒抜けなんつったら、やば過ぎるだろ。
「俺も訊いてみましたが、ご実家のセキュリティに侵入したとか。昨夜お祖父様が真砂子さんに、隆広様が今朝来ることを伝えていらしたそうです」
 全く、呆れて物も言えねぇな。あいつの希望通り、3億も掛けてスパコン入れてやったのに、実家なんかハッキングしてどうすんだよ。
「ですから、朝食は召し上がってきた方がいいと、冬樹が言っていましたよ。彼なりの隆広様への気遣いじゃないですか?」
「……仕方ねぇな」
「では、コーヒーを淹れてきますね」
 俺が食卓に着くのを見届けてから、洋行はキッチンに引っ込んだ。
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