Act.2 この俺が女に惚れた? 嘘だろ...4

 真嶋翁の案内で爺さんの後についてダイニングルームに行くと、香緒里姉貴と旦那、それに妹の多香子がテーブルに着いていた。
「お祖父様、おはようございます」
 三者三様で爺さんに挨拶すると、先ず姉貴の旦那が俺に挨拶してきた。姉貴と多香子は今気が付いたかのように、俺に顔を向ける。
「あら隆広、珍しいわね」
「お兄様! お久し振りです!」
「今日は新作デザインのお披露目ガーデンパーティがあるんだから、雨を降らせないでよ」
「やだお姉様、知っていたらあたし撮影入れなかったのに! あたしもパーティに行きたぁい! サボっちゃおうかな」
「お仕事でしょ、ちゃんと行って来なさい。今度パーティがある時は、事前に教えてあげるから」
「絶対よ、お姉様!」
 そこまで話して、ようやく多香子の口が閉じた。ただでさえこいつの声は甲高いってのに、更にけたたましく喚かれるとうるせぇ。
「隆広坊っちゃま」
 多香子とは対照的な静々とした声。背後から掛けられたこの声は、忘れるはずもねぇ、真砂子さんだ。振り返ると、小さい真砂子さんがにこやかに微笑んでいた。
 真っ白になった髪を上品に結い上げ、渋い仙斎茶に染めた紬の着物に、白い割烹着をかぶった昔からの出で立ちは懐かしい。
 遥か昔は見上げていた真砂子さんも、今じゃ見下ろすのも首が疲れるほどだ。半世紀近くも歳が離れていると、真砂子さんにとっちゃ俺は死ぬまで「坊っちゃま」だろうな。……これを咲弥子が聞いたら、間違いなく大笑いでバカにするぞ。その光景が目の前に浮かぶ。今の内に改めさせておいた方がよさそうだ。
「その呼び方はやめてくれよ、真砂子さん。俺はもう30だぜ」
「まぁ、そうでしたね。やんちゃで可愛かった坊っちゃまも、今では立派なご当主になられて。真砂子は嬉しゅうございます」
 心底嬉しそうな顔で、目を潤わせている。ダメだ、言った傍からこれじゃ、一生言われ続けるんだろうな。仕方ねぇか、70を過ぎた真砂子さんに無理強いは出来ねぇ。
「今朝は隆広坊っちゃまがいらっしゃると大旦那様からお伺いしまして、わたくしが腕に寄りを掛けてお作り致しました。お口に合いますかどうか」
「真砂子さんが作ったものが、不味いわけないだろ。久しぶりだから楽しみだぜ」
 小さな肩を軽く叩いて、俺は空いてる席に向かった。以前は親父が、その前は爺さんが座っていた席が、今日の俺の座る場所だ。今までの席で構わねぇんだがな。何つうか、居心地悪いぞ。胸中で溜め息をついてそこに座る。
 テーブルに並んでる真砂子さん作の朝食は、俺の好物ばかりだった。湯気の立つ白米にしじみの味噌汁、だし巻き玉子、納豆、焼き鮭、きんぴらごぼう、卵豆腐、梅干しに漬物。
 朝メシはやっぱり和食だな。洋行も今朝は手抜きだったが、いつもはこんな献立で作る。好き嫌いはないが、家で食べるメシってのは和食がいい。
 洋行がホットサンド一つしか食わせなかったから、さっきから腹が鳴りっ放しだ。けたたましくしゃべる多香子も、この時は静かに待っている。俺が合掌して箸を持ってから、ようやく食事が始まる。家長制度みてぇなのが、未だに根付いてる家なんだよな。堅っ苦しいことこの上ねぇぜ。
 
 

 久しぶりの真砂子さんのメシは、格別に美味かった。毎日食ってた頃から美味かったが、たまに食うとなると感動もひとしおだな。
 高校を卒業と同時に家を出たから、真砂子さんのメシを食うのは年に数回、実家に帰ってきた時だけだった。真砂子さんが引退してからは、今日が初めてだ。
 洋行の料理も美味い。俺の味ツボをよく理解しているから、不味いものが出されたことはねぇが、真砂子さんとはやっぱ違うな。
 しかし美味い真砂子さんの手料理も、多香子のマシンガントークを聞きながらってのは興ざめだぜ。ほとんど一方的なしゃべりに、付き合っているのは姉貴だ。こっちもエキサイトしてくると声が大きくなってくる。向かい合った二人はガンガンしゃべりながら、しっかりメシが減ってるのは久々に見ても不思議な現象だ。
 姉貴の旦那はその隣りで黙々とメシを食っている。銀縁メガネに今時七三分けの、ダサいインテリ男だ。姉貴より三つ年上で40歳にもなってねぇのに、国立大学の教授ってのは大したもんだが、なんでこんな男が姉貴と結婚なんてしたんだか。
 弟の俺から見ても派手な顔立ちな姉貴の好みは、もっと軽くてチャラい男だったのに、なんでこんな生真面目な男と結婚する気になったんだ? 不思議だ。
 由香里姉さんの方が、よっぽども納得出来るぜ。医療機器メーカー社長の息子と恋愛結婚して、早々に家を出て行った。姉さんが嫁いでから急激に業績が伸びたんで、政略結婚と噂されたが勿論ただのやっかみだ。本人たちはノーコメントを貫いている。
 はぁ、由香里姉さんの穏やかな笑顔が懐かしい。全く、姉貴と多香子に姉さんを見習ってほしいぜ。
 綺麗に食い終わった俺を見て、真砂子さんは安堵した表情で礼をし、奥に引っ込んでいった。
 さて、朝メシが終われば、もう実家に用はねぇな。
「お兄様、待って。お願いがあるの」
 外に待たせてある里久の元へ急ぐ俺の背中に、多香子の無駄に明るい声が掛かった。無視するともっと煩くなる。ちっ、しょうがねぇな。
「なんだ、俺はこれから仕事だぞ。お前だって撮影があるんだろ」
「あたしはお昼からだもの。そんなに時間は掛からないから」
 今は大学を卒業し、高校生から始めたモデルの仕事を今も続けている。それなりに人気はあるらしいが、今年25歳になったのに見た目も背丈も女子高生みたいな童顔で、ファッションモデルを出来るってのが俺にはよく理解出来ねぇ。
「あのね、明後日ガーレットの新作のバッグが発売されるんだけど、あたしが必ずゲット出来るように、お兄様の名前で予約してほしいの」
 相変わらず、ブランド物が好きだな。俺もその話は知っている。それまでの伝統的なデザインを一新して、大胆なイメージチェンジを図っているって話だ。更に、発売日を直前まで公開しなかったために宣伝効果は抜群、予約の受付も日本時間の今日夕方からっつう徹底振り。暇なセレブの間じゃその話題でもちきりだ。
 昨日咲弥子が『椿』に行く前にやったバッグは、そこの定番のものだ。咲弥子は目を丸くしていたな。大抵のホステスはブランドに目がないが、あいつは目的があるから慎ましく生活してるようだ。モデルの稼ぎをひたすら買い物につぎ込む、浪費癖が抜けねぇ多香子とは大違いだぜ。
「そんなの自分で予約しろよ」
「それがダメなの! お兄様くらいネームバリューがないと、絶対にゲット出来ないの!」
「お前だって、その妹じゃねぇか」
 別に俺でなくても、東海林の名前を出せば大抵の無理は利く。
 多香子は黙っちまった。それまで廊下に響いていた高い声が、急に静まる。ああ、ここはこんなに静かだったんだよな。
「あたしじゃ確実には買えないのよ! 明後日は世界で20個しか売り出されないの! ちょープレミアなの!」
「んなこた知ってる」
「知ってるなら、予約くらいしてよ! 妹のあたしが可愛くないの!?」
 ああ、うるせぇ。耳にキンキン響くぜ。お前を可愛いなんて思ったら、俺もおしまいだ。
「ああん、もう! 明後日にゲット出来なかったら意味ないの! その日の夜、モデル仲間とパーティに行くの! その時に持って行きたいの!!」
「で、自慢したいってのか?」
「悪い?」
 むくれて言うことじゃねぇだろ。
「悪かねぇが、そんなにほしいなら、自分で予約でも何でもしろよ。じゃあな」
「待ってよ! じゃあじゃあ、パリ本店にいる支配人かオーナーかデザイナーの、携帯番号教えて!」
 ったく、たかがバッグに必死だな、多香子。俺の腕にひっ掴まって、コアラよろしくぶら下がってるぜ。
「そんなものホイホイ教えられるか! 俺の信用問題に関わる。知りたきゃ自分で調べろ」
「やだぁ、そんなの無理に決まってるでしょ! お兄様クラスの人しか知らないんだから! お願いだから教えてよぉ」
 多香子が腰を落として俺の腕を引っ張った。なんか、覚えのある光景と感触だな。昨日俺のホテルで駄々をこねた咲弥子にそっくりだ。あいつの方がまだ可愛いかったが。
「多香子、我が儘を言うのはやめなさい。隆広が困っているでしょ」
「お姉様! だってぇ」
 ちょっと待て姉貴。誰が困ってるって? 急に出て来て勝手な誤解すんな!
「そんなにほしいなら、私が予約してあげるわよ。隆広ほどの人脈はないけど、私にもそれなりにコネはあるから」
「本当!? お姉様!」
「ええ、だから隆広を離してあげなさい。仕事に行けないでしょ」
「わぁい! お姉様大好き! お兄様のイケズ!!」
 お前にイケズと言われたって、痛くも痒くもねぇよ。ようやく解放されてホッとしたぜ。
 多香子は姉貴に抱き付いて、頬にキスまでしている。されてる姉貴はくすぐったそうな顔をしながら、俺に目配せした。これで姉貴への貸しが一つ減ったか。
 東海林の家のことは元々あんまり興味がなかった姉貴は、大学の経済学部に行きながら服飾の専門学校に通い、大学卒業と同時に自分で服を作ってネットで売り始めた。
 センスはあったと思うが、最初は売り上げも人気も芳しくなかったな。それがネットでクチコミが広がるようになると、じわじわと人気が出始め、8年前には自分のブティックを持つまでになった。今じゃ全国に20店舗を構える、一端のブランドに成長したな。
 その店舗の出資者が俺だ。本店となった一号店から今まで、全部の店の資金を出してやってる。もちろん東海林グループとは関係ねぇ、俺のポケットマネーってやつだ。姉貴のブティックを持ちたいって夢を知った時は、俺はまだ大学を卒業したてだったが、横浜の例のリゾートホテルを買収して収入はあったし、あの頃から財産は使い切れねぇほどあったしな。
 そういうわけで、姉貴は俺に借りがたくさんある。こういう精神的なことで、それを解消していこうってのが姉貴らしい。服を作るのに、結構金を使っているからな。
 ホントに、多香子と一緒になった時のあのかしましささえなきゃ、姉貴は由香里姉さんと同じくらい、いい女なんだがなぁ。
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