Act.1 お願い、悪い夢だと言って!...8

 散々いじられて、足の先から頭の天辺まで快感が突き抜けて行った。車の中なのに、悲鳴のような嬌声を上げちゃったよ。周りは大丈夫だったのかね。
 っていうか、自分からキスして弄んで煽っておいて、最後までしないってどういうこと!? まるであたしが淫乱みたいじゃないの!
 くやしくて、情けなくて、涙が出てきた。就職したいのに釣られて、のこのこついて行って、その結果がこれなんだから。なんであたし、こんな奴と一緒にいるわけ?
 倒れていたシートを戻して、運転している隆広の横顔を見た。散々あたしを泣かせて弄んだくせに、機嫌悪そうな顔をしている。失礼しちゃうわ!!
 窓の外を見ると、遠くの方にベイブリッジが見えた。え!? なに? まさかホテルに舞い戻ってるの!?
「ちょっと、どこに行くのよ!?」
「ホテルに戻る。『椿』に出勤するにも、準備ってのが必要だろう」
「そんなものいらない!! あたしのアパートに行って!!」
「場所を教える気はあるのか?」
 うっ……教える気なんかない。近くまで送らせて、そこから歩こうと思っていた。全部、見透かされているんだ。くそぉ、ムカつくムカつくムカつく!!
 心の中で何十回とこいつを罵倒している内に、ホテルの地下駐車場に着いてしまった。
 車が停車したところで、さっさと降りて出口に向かう。追い付かれない様にと思って走ったのに、男の足に勝てるはずもなく、途中で掴まった。
「やだ! 離してよ!! こんなところに用なんかないんだから!!」
「あと数時間で泣き腫らした顔を治せるのか!? いいから、黙って大人しく来い!」
「いぃやぁだああぁ!!」
 両腕を掴まれながら頑として歩かないでいると、力一杯引っ張られた。どんなに腰を落としても、引っ張られる度に数歩歩かされる。
 さっきとは違って、ホテルのお客らしきセレブっぽい人たちが何人かいて、当たり前だけどこっちに注目していた。もうこうなったら人目に付こうが騒がれようが、反抗するしかない。どうせ、噂が立つのはこいつの方なんだから。
「やだやだやだ! 変態! 人攫い! アホ! バカ! オタンコナス! わぁ!!」
 思いつく限りの悪口を言っていたら、突然体が浮いて、肩に担がれていた。
「煩ぇ、大人しくしてろ! ったく、もう少しボキャブラリーを増やせよ」
「あんたに関係ないでしょ! 降ろしてよ!!」
 くそぉ、荷物みたいに担がれて、恥ずかしいったらありゃしない。
「あんまり暴れるな。スカートん中が見えてるぞ」
 その言葉に、ハッとして足をバタつかせるのを止めた。その間に、さっさとエレベーターに乗り込まれた。くそぉ。
 口惜しがっている間に、泊まっていた部屋に連れて行かれて、ベッドに転がされた。上質なスプリングに体が跳ね返って、柔らかい布団にポスンと受け止められる。咄嗟に枕を掴んで投げ付けたら、それは顔に当たる寸前で受け止められた。
「なんなのよ! 昨夜の報復なら、もう十分でしょ!! 勝手に盛って、煽ってもてあそんで、さぞかし楽しかったでしょ!! 最低野郎!! 出てけぇっ!!」
 怒鳴りながら、涙が溢れてきた。こいつの前でなんか、もう泣かないと思っていたのに。くやしい、情けない、恥ずかしい、色んな感情が心の中で渦巻いて、もう一つあった枕でベッドを叩きまくった。
 みっともなく号泣して、気が付くと枕の中に入っていたらしい白い羽が、ベッドの上に散乱していた。右手には、ボロボロの布切れに変貌した枕の残骸。
 泣き過ぎて目が痛い。さっきよりも、もっと瞼が腫れてるよ。もう今日はバイトに行けないかも。そう考えたら、また涙がこぼれてきた。
 あたし、なにしてんだろう。面接帰りにバーに入って泥酔して、あんな最低野郎に振り回されて、子供みたいに泣きまくって、気に入らないからって就職のチャンスも潰しちゃった。
 バカだ、あたし。
「う……くっ……えっ」
「ったく、少しは落ち着いたかと思えば、また泣くのか。いい加減にしろよ」
 ハッと顔を上げると、壁に寄り掛かって腕を組んでいる隆広がいた。さっきとは違うストライプのシャツを着て、下はノリの利いた黒っぽいスラックスをはいている。髪が濡れているから、お風呂にでも入ったのか。あたしが泣いてる間に、なんて奴だ。
「なによぉ、元はといえば、あんたのせいじゃない」
「俺の? バカ言うな。昨夜のバーでは俺が一人で飲んでるところに、お前が絡んで来たんだ。止めるのも聞かずに、記憶を失くすまで飲んだのはお前だろう。泥酔して俺を誘ったのもお前だ。直人の秘書の件は、採用されると踏んだのは俺の勇み足だったが、ついて来ることを選んだのはお前、咲弥子だぞ」
「…………」
 全部こいつの言う通りで、文句一つ言えなかった。唇を噛んで、睨み付けるしか出来ない。更に追い討ちを掛ける様に、呆れた口調で付け加えられた。
「さっきのことを言ってんなら、セックス出来なかった原因はお前にある」
「なんでよ?」
「忘れたのか? お前が俺の股間を蹴り上げたんだぞ。お陰で、今日明日はまともにセックスは出来ねぇな」
「え…… そんなに?」
 すっかり忘れていました。っていうか、そんなにおおごとになっているなんて、思いもしなかった。アソコって男にとっては、本当に急所なんだ。
「しょうがねぇから、お前を泣かせることにしたが、それがなかったら俺だってお前に突っ込んで、愉しみたかったさ」
「つっこ……! だから、言葉を選びなさいよ!!」
 言ってることは尤もなのに、なんでいちいちデリカシーに欠けているのよ!? せっかく、悪いと思っていたのに。でも、それだから車の中でした時、あんなに苦しそうな顔をしていたのか。色っぽいなんて思っちゃったよ!
「ふん、まぁいい。お前の言う通り、突っ込めなくなったのは、俺が就職をダシにしたのが悪かったんだからな」
「あの……ごめんなさい」
 全部、こいつの言う通りだけど、一時的とはいえセックス出来なくなったのは、あたしの責任よね。それは悪いと思ってペコッと頭を下げたら、溜め息をつかれた。
「そうやって、いつも素直になってろよ。その方が数倍可愛く見えるぜ。『椿』には何時に出るんだ?」
 急に話題が変わったから、ちょっと答えるのに時間が掛かった。
「6時30分にお店に着けば大丈夫だけど……」
「あと3時間半てとこか。そのままでいいから、9階に行ってこい」
「え? なんで?」
「行きゃ分かる。俺の名前を出せよ。でなきゃ、時間に間に合わねぇぞ」
 よく分からないけど、とりあえず行ってみることにした。手ぶらでいいって言われたけど、なんなのよ?
 エレベーターで9階に降りてみると、明らかに客室とは違う解放感溢れるフロアが広がってた。……といって、ラウンジでもない。床がフカフカの絨毯なのは、上層階の高い客室フロアと変わらないけど。
 壁にある指示板に従って歩いていくと、お洒落なカウンターがあった。
「え!? エステサロン!?」
 つい声を上げちゃって、カウンターにいた女性がこっちを見た。ホテルのコンシェルジュとは、服装が違う。巷のエステサロンで見掛ける、淡いピンクのワンピースを着ていた。
 え、どういうこと!? 遅刻せずにお店に行くには、どんなに遅くてもここを30分前に出ないといけないでしょ。準備の時間も考えたら、あと2時間しかないのにエステしてこいってこと? あいつ、エステがどんなものか分かっているわけ!?
 あたしがその場に突っ立っていると、カウンターにいた女性がわざわざこっちにやってきた。
「いらっしゃいませ、お客様。ご予約はされていらっしゃいますでしょうか?」
 接客のお手本みたいな笑顔だわ。さすがに、教育されてるね。そういや、あいつの名前を言えって言ってたっけ。信じるしかないか。
「東海林隆広に言われて来たんですけど」
「はい、承っております! どうぞこちらへ!」
 あいつの名前を口にした途端、女性の表情と姿勢が変わった。別にさっきも悪かなかったのに、急にピッと背筋が伸びて、緊張した面持ちになったよ。あいつがオーナーだからなのか、東海林グループの会長だからなのか、どっちにしても名前だけでこうなるってのは凄いな。中身はともかくとして。
 急かされるように、カウンターの奥にある入口を通されて、あれよという間に、ガウンに着替えさせられた。寝心地のいいエステ用のベッドに寝かされて、すごい美人のおばさんがあたしの隣で深々と頭を下げる。
「オーナーからお話は伺っております。手短に、かつ丁寧にさせて頂きますね」
「はあ、あの、よろしく」
 言うが早いか、腫れて痛かった目蓋に冷たい布が当てられた。
 あ、そっか。エステっつっても、この目の腫れを治すために予約入れてくれたのか。デリカシーがないくせに、こういうところは気が利くんだな。変な奴!

 
 

 それからキッチリ90分間、蒸気エステとか顔をマッサージされた。普通なら一晩は掛かりそうな泣き腫らした目蓋が、ものの見事に治ってるよ。さすがにプロだね。
 来たときの服に着替えて、鏡の前に立つあたしに、担当してくれた美人おばさんがやってきた。
「如何でごさいましょうか?」
「はい、ありがとうございます。綺麗にしてもらって、助かりました」
「それはよろしゅうございました。どうぞ東海林様によろしくお伝え下さい」
 それはごくごく普通の挨拶であるはずなのに、あたしに向かって頭を下げたその美人おばさんの目に一瞬、ほんの一瞬の間、媚びるような色が見えてしまった。この人はあたしじゃなく、あたしを通して、その後ろにいる隆広に向かって挨拶していたのか。
 あたしは全然そういうつもりはなくても、向こうはそういう風に見るわけだ。あたしのこと、変な風に誤解してなきゃいいんだけど……。
 部屋に戻ると、何だか美味しい匂いが漂っていた。
 リビングのソファーに隆広がふんぞり返っていて、プラズマテレビが付いている。何見てんだろ? あたしの位置からは、光の加減で見えなかった。スピーカーから聞こえてくるのは、英語だ。
「よお、戻ったな。ふん、やっぱりその道のプロってな、違うな」
「あ、うん。その、予約してくれてありがとう」
 それより、あたしは漂ってくる匂いの方が気になった。お腹が鳴っちゃって、お昼御飯を食べていなかったことを思い出した。テーブルの上に、見たことのある赤と白の箱と、ウーロン茶のペットボトルが置いてある。
「あ、ケンタッキー!」
「ああ、昼飯食ってなかったろ。腹減ったから、買ってきた」
「え、あんたが?」
「なんだ、悪いか? 車で行きゃ、往復でも30分は掛からねぇぜ」
「そうじゃなくて!」
 ケンタッキーって、要するにファストフードじゃない。東海林グループの会長が食べるもんじゃないと思うよ。それに、こいつがわざわざ自分で買いに行くなんて、お店は大騒ぎだったろうな。絶対目立つもん。
 そう言ってやったら、ちょっと苦笑された。
「秘書の連中にも、よく言われる。マクドとか、安いし手軽でいいじゃねぇか。なのに庶民の食い物を奪うなとか、天下の東海林グループ会長が自分で買いに行くなとか、煩ぇんだ。何を食おうと俺の勝手だろうが」
 本人はそんな風に怒っているけど、あたしは秘書たちに同感。セレブはセレブらしく、お高い物を食べていてほしいわ。
 それにしても、こいつの秘書たちって、上司相手に凄いこと言うね。
 あっ……くそ、社長さんの話、思い出しちゃったよ。こいつの秘書にならないかってやつ。男ばっかりなんでしょ? なんかやだな。それにこいつの秘書をするっていうのも、ぶっちゃけやりたくない。そりゃ棚ボタなのは、分かっているけどさ。
 お腹の虫が鳴って、考えを中断した。今はとにかく、空腹を満たすことが先決だよ。
 ケンタの箱を開けると、フライドチキンが3つ残っていた。他にコールスローとポテトの小さいの。
「俺はもう食ったから、好きなだけ食べていいぜ」
「あ、ありがと」
 って言われても、チキン3つは多いよ。ちょっと迷って、チキン2つとコールスローをテーブルに出した。ウーロン茶のキャップを開けて、喉を潤す。これも、こいつが買ってきたんだよね? コンビニでペットボトルを買う東海林グループの会長……やっぱり目立ちそうだわ。
 うう、美味しそう。みっともなくならないように注意して、フライドチキンにかぶりついた。
 んんん〜〜、美味しい!!
 夢中になってパクパク食べていると、何となく視線を感じた。それとなく顔を向けたら、隆広が興味津々にこっちを見てる。思わず鶏肉を噴き出しそうになっちゃったよ。
「な、なによ?」
「いや、美味そうに食うもんだと思ってな」
 だって、ケンタッキー好きだもん。値段がちょっと高いから、月に一回食べるくらいだけどさ。この衣の食感と独特の味付けと皮の感じが、最高なのよね。
 しかし、フライドチキンにかぶりついてるのを見られるのって、何だか緊張するな。特にこいつが相手だと。
 でも隆広を見たら、もうプラズマテレビに集中していた。今の内に食べちゃおう。
 幸い、食べ終わるまで隆広と目線が合うことはなく、お陰で心置きなくお腹を満たすことが出来た。
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