Act.1 お願い、悪い夢だと言って!...9

 それから、バスルームで軽くシャワーを浴び、歯磨きやメイクの下地を済ませてリビングに戻ると、隆広に寝室に行くように言われた。
 今度はなによ?
 行ってみるとそこにあったのは、ゴォ〜ジャスな桜色のイブニングドレス。スカートの部分にビーズのような光る石が散りばめられて、スリットも大きく入っていて、何じゃこりゃ!? まさか、これを着てバイト先に行けと!? 冗談でしょ!?
 あたしが寝室の入口で固まっていると、背後に立った隆広に「それやるから着て行け」と言われた。
「こんなドレスいらないわよ。今着てるので十分だって」
 これも十分ゴージャスなんだから! アパートに帰れないなら、これでお店に出ようと思ってたよ。さっき車の中で散々暴れたから、ちょっとシワになっちゃいるけど、物がいいから全然気にならない。
 それに、なんかさっきはなかったものが、デンッと鎮座しているよ? 三面鏡が乗った、引き出し付きのドレッサー。上には所狭しとメイク道具が並んでる。
「ねぇ、あれどうしたのよ?」
「ここの美容サロンから運ばせた。必要だろう?」
 いや、まあ、必要と言えば要るものだけどさあ。やることがいちいちド外れてるよね。さすが東海林グループの会長だわ。
「お前がどんな風に化けるのか、楽しみだな」
 いかにも楽しそうに言われて、ムカついた。ふん、あんたがビックリするくらい、化けてやるわい!
 一人寝室に残されて、ドレスを見に行った。ちゃんと同系色の、ストラップ付きのピンヒールも揃えてある。そのヒールの横にはブランドのロゴが入った袋。中には当然のように、Tバックのショーツとストッキングが入っていた。本当に、抜かりが無いわ。
 ドレスの生地を触ってみると、やっぱりシルクっぽい。ハイネックの首周りはレースになっていて、スカート部分のキラキラは多分スワロフスキー。ダイヤかと思うくらい繊細で煌びやかだよ。裾はそんなに広がっていないけど、大胆にスリットが入っていて、これでお店に出たら絶対一悶着起こりそうだわ。
 つか、あたしのバイト代で買える代物じゃないよ。ママにも変な誤解を与えちゃう。絶対に着ていけない! 今着てるこのワンピースだって、十分物議を醸しそうなのに……。
 ドレスは置いておいて、先にメイクをすることにした。
 スキンケアやメイクコスメは、普段からそれなりに良いものを使っていて、用意されていたものもそんなに違いはなかった。ただアイシャドウとかチークに関しては、贅沢と言えるほど専用パレットに色が豊富に揃えてあって、思わずほしくなっちゃったよ。
 クリームファンデにルーセントパウダーとチーク、ハイライトで陶器のような肌を作る。それから、くっきりアイラインとグラデーションの効いたアイシャドウでメリハリのある目元を作り、仕上げに付け睫。
 よしよし。
 最後に髪をアップにセットして終了。ヘアアイロンで毛先をクルクルに巻くのも、最初は苦労したけど、今じゃもうお手の物。
 鏡の中のあたしは、いつもお店に出ている時の顔になっていた。このスタイルになると、自然に営業スマイルが出来るんだから、不思議なもんよね。
 今日の出来に満足していると、ドアがノックされた。
「うわ、はいはいはい」
 ドアを開けると、隆広と知らない男性が立っていた。隆広はちょっと呆気に取られたような顔をしてる。
「なによ?」
「……いや、意外に化けるもんだと思ってな」
 ふふん、そうでしょうとも! こいつにそう言わせられたのは、ちょっと鼻高々だわね。
「で、なによ?」
「ヘアメイクを命じられまして……」
 一緒にいた男性が、ヘラッと笑って言った。そういえば、いつも行くサロンの美容師が持ってるようなバッグを、腰に下げている。
 やっぱりこいつ、変なところで気が利くわ。いや、変なところっつうより、女に関することでは、だわね。全く、どんだけ女馴れしてんのさ!! つか、なんであたしがこいつのことでモヤモヤしてんのよ!
 そんな自分にイラッときて、隆広をギッと睨み付けちゃった。
「で、ですが、必要ないみたいですね」
 あたしの睨みを変に誤解したらしい美容師が、へっぴり腰で答えた。別にあんたを睨んだ訳じゃないんだけど……。
「呼び出して悪かったな」
「い、いえ、では僕はこれで」
「ああ」
 くわあ、悪かったとか言いながら、ちっとも悪びれてないこの態度! 俺様め!
 美容師は何度も頭を下げながら、部屋を退出して行った。
「お前、なんでドレスを着ねぇ?」
「あんなの着ていける訳ないでしょ! 女馴れしてんなら、あたしの立場ってのも考えなさいよ!」
「立場もなにも、ホステスだろうが」
 ……ああ、ダメだ。東海林グループ会長と言っても、やっぱりこいつはお坊ちゃんだわ。
「分かってないねぇ」
 あからさまに溜め息をついて、両腕を広げて呆れてやった。当然の如く、こいつは面白くなさそうに渋い表情をしている。顔に「不本意」って書いてあるよ。
「なにがだ? 俺がプレゼントしてやってんだぞ。嬉しくねぇのか?」
「当たり前でしょ! あたしなんかが買える代物じゃないじゃない」
「お前に買える物贈ったって、意味ねぇだろうが!」
「あんたバカ?」
「バカとはなんだ!!」
「じゃあアホ」
「…………」
 あたしの容赦ない罵倒に、またしても絶句してる。まぁ、天下の東海林隆広にこんなこと言う奴は、こいつの周りにはいないよね。あたしは懇切丁寧に教えてやった。
「こんなの着てお店に出たら、パトロンが付いただの、どんな金持ちを落としただの、痛くもない腹を探られるだけでしょ! 下手したらこの世界から抜けられなくなるじゃない! あたしは就職したいの!」
 しかも贈り主がこいつと知れたら、もうジェラスの嵐よ! 絶対、修羅場になる! そんなつまんないことに、巻き込まれたくはないわ!!
 隆広は納得いかないような顔してる。分からなけりゃいいのよ、無理に分かってもらおうなんて、思っちゃいないから。
「ま、このワンピースドレスだって、十分物議をかもしそうな代物だからね。これ以上なにか起こってほしくないのよ!」
「お前な……」
「なによ?」
「俺にそんな口利いたら、他の奴は無事じゃすまねぇぞ」
「あらそう。じゃあ、あたしにもそいつらと同じ様にしてみなさいよ!」
 つい勢いで言い切っちゃったけど、こいつってば東海林グループで一番偉いのよね。こいつの権限ってどんだけデカいんだろ?
 しまったなぁと思っていたら、鼻で笑われた。
「後悔してんだろう」
「し、してないわよ!」
 くそぉ、どもっちゃったのが悔しい!
「ふん、お望みならやってやるよ」
「やらなくていいってば!」
「そうだな。あのドレスを着たら、さっきの暴言は聞かなかったことにしてやるぜ」
 ぐっ……ムキになっちゃった自分が憎い!
 今ので立ち直ったのか、ニヤニヤ笑いながら見下ろしてくるのがムカつく!
「どうする?」
「くっ……ちなみに、着なかったらどうなるの?」
「ふむ……お前のバイト先を潰してやろう。で、路頭に迷った咲弥子を、俺の女にしてやるよ」
 絶っっっ対やだ!!
「……着れば、潰さないのね?」
「ああ、そうだな」
 気に入らないけど、しょうがない。路頭に迷いたくはないし、大好きなママと尊敬している社長さんのお店を潰されたくはなかった。
「分かったわよ! 着ればいいんでしょ!! この最低男!!」
 叩き付けるように閉めたドアに背中を押し付けて、込み上げる涙を堪えた。バッチリお化粧したこの顔で、泣く訳にはいかない。
 スンッと鼻をすすって、ドレスの元に行く。頭部と手足のないマネキンに着せられたドレスは、とっても綺麗。こんな状況じゃなかったら、あたしだってこういうドレスを着てみたいよ。
「はぁー」
 抗えないつらさを溜め息で吐き出して、ドレスに着替えた。脱いだ下着は、さっきの袋に入れた。
 予想通り、サイズはぴったり。悔しいけど、あたしによく似合っていた。裾はヒールを覆うほどに長いのに、歩くのに邪魔になる程じゃない。鏡に映るあたしは、今までお店に出ていたあたしとは全然違って、スーパーモデルみたいに見えた。着る服だけで、こんなに見た目が変わっちゃうなんて。
 打ちひしがれた気分でリビングに出ると、隆広が満足そうな顔でこっちを見ていた。
「ふん、似合うじゃねぇか」
「…………」
 何も答えたくない。無言で目を逸らして宙を睨んでいたら、隆広があたしの前に来て、車のキーをクルクル回していた。
「なに、してるの?」
「『椿』に出るんだろ? 送るぜ」
「いらっ……」
 いらないと言おうとしたら、顎を掴まれてキスされた。ちょっと触れるくらいの軽いキス。それでも平手を食らわせようと振り上げた右手は、あっさりと受け止められた。
「その格好で、電車に乗る気か? 止めとけよ」
「くっ……変なこと、しないでよね!」
「当然だ、そこまで節操なしじゃねぇよ」
 ふん、どうだか!
「ほら」
 渡されたのは、白っぽいバッグ。こんなのあたし持っていなかった!
「ちょっと、あたしの鞄は!?」
「そのドレスにゃ合わねぇだろ」
「なっ!? こんなのいらないわよ!」
 だってこれ、あの有名なガーレットのバッグよ!? パリで老舗のブランドよ!? この特徴ある革生地とロゴは、知らない人がいないくらい有名よ!? しかもこれすっごく高くて、100万近くするのよ!? ドレスといいこのバッグといい、どうしてこんなたっかいブランドばっかりなのよ!!
 って、こんなこと東海林グループの会長に言っても無駄か。そういうもんしか、持ったことないわよね、きっと。
「あたしの鞄は、どうなるのよ?」
「さっきのワンピースと、似合わねぇリクルートスーツと一緒に、自宅に送ってやるよ。財布や携帯は入れ替えてある」
 言われて白いバッグの中身を見て、殆どそのまま入っているのを確認した。ただ一つ、無い物があった。
「あたしの履歴書は?」
「俺が預かってる」
「なんでよ!?」
「直人の言うことも、検討してみようと思ってな。俺の秘書たちがお前をどう思うか、興味もあるしな。だから、持って行く」
「あたしは、あんたの秘書になるなんて、一言も言ってない!」
「だが、就職はしたいんだろ」
 また、足元を見られたような気分になってムカついた。でも、もう6時を回っている。遅刻するとバイト代を減らされちゃうから、あと30分で着かないと……。もう、無理かな。
 諦め気分でいると、隆広の右手が背中を押すように、回された。
「ちょっと!?」
「エスコートは必要だろう。早くしねぇと、遅刻するぞ」
 遅刻なんて言葉を知っていることに、ちょっとした驚きを感じつつ、さっきは一人で泣いて降りたエレベーターを、こいつと一緒に乗った。
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