Act.1 お願い、悪い夢だと言って!...7

 あたしと隆広が並んで座って、社長さんと向かい合う格好になった。すんごい座り心地のいいソファーだよ。お金掛けてるなぁ。
「それで、一体なんの用です? アポなしなんて、あなたにしては珍しい」
 へぇ、普段はちゃんとアポ取るんだ。意外!
「社長秘書の内定者に、この前、辞退した奴がいただろ」
「ええ。……まさか、そちらの女性を?」
「ああ」
「ええ!?」
 ちょっと、いきなりその展開はなによ!?
 あたしの大声に、隆広は顔をしかめた。
「なんだよ?」
「なんだよ? じゃないわよ! あたしそんなこと聞いてない!! 社長秘書ってどういうこと!?」
「だから、今言っただろうが。こいつの秘書を蹴った女がいるって」
「だからって、なんであたし!?」
「神をも恐れぬ言動が出来るからだ」
 なに真顔でしれっと言ってんのよ!? 美形社長が唖然としてるじゃないの。あ、そうよ!!
「大体、こんな手の早い社長なんて、デンジャラスな会社はご免よ!!」
 ホントに、休憩中に秘書とあんなことする社長なんて、貞操の危機じゃないの! まぁ、あたしはもうとっくにヴァージンとはおさらばしてるけど。
 不躾なのは承知で社長を指差して訴えたら、隆広は一瞬ポカンとしてから、腹を抱えて笑いだした。
「ははははははっ! 聞いたかよ、直人。少しは反省しろよ」
「ちょっと、なにがおかしいのよ!?」
 こんなに笑われるなんて恥ずかしいじゃない!! またこいつの股間を蹴り上げたくなった。肩をイカらせて腹立たしいのを我慢していたら、前方からこれ見よがしな溜め息が聞こえた。
「詩織は恋人です。いくらなんでも、部下に手を出すようなマネはしませんよ」
「こ、恋人!?」
 拍子抜けするような言葉だった。思わず、マジマジと社長を見ちゃった。社長はニッコリ笑って言った。
「ええ、私が社長になる前から付き合っていますよ。この仕事に就くことになった時、彼女にサポートを頼んだんです」
「で、でも、だからって会社ですよ!? あんなことしていいんですか!?」
「休憩時間くらいああいうことしていないと、こんな大企業の社長なんて、やっていられませんよ」
 なんなのよ、その理屈。やっぱり隆広と同類の人間だわ!
 あたしが心中で文句を言ってる間に、社長は隆広に向けてまともなことを話し始めた。
「それで隆広、こうして連れてくるからには、彼女は内定を辞退した彼女と同等か、それ以上の人材なのでしょうね?」
「んなこと知るか。ただ咲弥子は、俺が東海林グループの会長と知ってもこんな態度だし、その上、俺の大事な股間を蹴り上げてくれた勇者だからな」
 ぎゃっ! なんてこと言うのよ!? それについては謝ったじゃないの!!
「それはそれは、中々興味深い事実ですね。一体なにをしたんです?」
 うっ、それはさすがに言われたくない!!
 すると、隆広もそれは同じだったのか、そっぽを向いて言葉を濁していた。ホッとしていると、隆広があたしに向かって手の平を見せてきた。
「なによ?」
「履歴書、予備くらい持ってんだろ」
「なに、鞄の中見たの!?」
「んなわけあるか。リクルートスーツ着てバーにやって来たんだ、面接帰りか何かだったんだろ。出せよ」
 くそぉ、何でもお見通しって訳!? いちいちムカつく!
 あたしは鞄から、白い封筒に入った履歴書を出して、直接社長の前に置いた。
「ちっ、ホント可愛くねぇぜ」
 ふん、煩いわよ! 大体、あたしの住所とか書いてるあるのに、こいつに易々と個人情報を見せてなるものか! どうせ調べられれば分かっちゃうけどさ。
 社長は「拝見しますよ」と言って、封をしてないそこから、折り畳んだ履歴書を取り出した。スラスラ読み進んでいた目が、あるところで止まった。
「ほう、秘書検定二級を持っているのですか。他に簿記検定二級と英検二級、これだけ持っていれば、どこでも引く手あまたでしたでしょう」
 そんな感心したように言われたの初めてだよ。なんか照れるな。
「それで今時分になっても就活してるって、どういうことだよ?」
 どっちに訊いてるのか分からなくて、あたしは黙っていた。あたしの方が知りたいくらいだよ。
「私に訊かないで下さい。まぁ飛び抜けて優秀という訳ではないようですから、同じ様な能力の人間と比べた時に、劣るような何かがあったのでしょう」
 さすがに分析が早いなぁ。就職で他人と競争なんて、考えもしなかった。
「おや、自活しているのですか?」
「あ、はい。学費も生活費もバイトで稼いでいます」
「今更敬語で話すのかよ」
 煩いわね! 色んなものスッ飛ばしてるけど、これってつまり社長面接じゃないの! 緊張だってするし、あんたと違うんだから、タメ口なんか利けるわけないじゃない!
 隣に座る隆広に文句を言いたい衝動に駆られて、何とか思い止まった。
 それよりあたしのバイトが何か、こいつがバラさないかとちょっと不安になった。でも、結局口は挟まれずに、社長は「なかなか根性がありますね」なんて、呟いている。ホッとしたけど、逆にこいつが何を考えているのか分からなくて、戦々恐々だよ。
「で、どうなんだ?」
「履歴書を読む限りでは、申し分ないですが」
「じゃあ、決まりだな」
 なんでそんなに嬉しそうなのよ? こいつの息の掛かったところで仕事って、なんか嫌だな。
「その前に」
 社長さんの目があたしに止まって、しばらく見つめられた。なんでこんなことするの? なんかドキドキしてきちゃうじゃん。
「泣き腫らした目をしていますね。どうしたのですか?」
 う……そんなことを訊くわけ? 言える訳ないじゃないの!!
 努めて笑顔で返したけど、頬が引きつるのを感じた。いつもバイト先でやってる営業スマイルを出せばいいのに、上手く表情が動いてくれない。
 あれだけ泣いてスッキリしたと思ってたのに、また涙が出そうになる。こいつの言葉に、結構傷付いてたんだ、あたし。懸命に涙を堪えていたのに、瞬きした拍子にポロッと零れてしまった。引き結んだ口がわなわな震えて、零れた涙を指で拭った。努めて笑顔でいようとすればするほど、泣きたくなる。
 嗚咽が漏れそうになって、慌ててうつむいた。スカートを掴む手の甲に、大粒の水滴が落ちる。
 ポスンと、大きな手が後頭部を包み込むように撫でられた。
 こいつの手がこんなに温かく感じるなんて! くそ、泣き止め、あたし!! そう自分に言い聞かせていたのに、予想外の優しい声に気持ちが崩れそうになった。
「俺が泣かしたんだ。股間蹴り上げられたのも、自業自得さ」
「あなたが失言を? また珍しいこと尽くめですね」
 結構親しげな社長さんも驚くほど、いつものこいつはまともなわけ? じゃあ、なんであたしにはあんなに意地悪なのさ!
 何とか涙を引っ込めて、鼻を啜りながら顔を上げると、社長さんがあたしの履歴書を封筒に戻していた。
「大変魅力的な資格をお持ちですが、私が雇うこともないんじゃないですか?」
「どういう意味だ?」
「男ばかりで周りを固めず、女性の秘書を雇って、少しは周囲を安心させてやりなさいと言っているんです。プライベートな関係以外の女性を近くに置くのは、そう悪いことじゃないですよ」
「ちっ、余計なお世話だ」
 なにそれ? つまりあたしにこいつの秘書をやれって? どうしてそうなるのよ!?
「そんなに睨まないで下さい。あなたにとっても、悪い話ではないと思いますよ。何しろ、東海林グループ会長の秘書ですからね」
 穏やかに苦笑されて、慌てて眉間を触りながら隣を見ると、隆広はとっても不本意そうな顔をしていた。ほら、こいつだってこんなに嫌がってるじゃない。
「私は隆広、あなたにとっても、このような女性が傍にいるのは、いいことだと思いますよ。少なくとも、彼女はあなたに媚びませんからね」
「でもよぉ、こいつに俺の秘書が務まるかぁ?」
 そんないかにもダメそうに言われると、なんかムカつく。危うく売り言葉に買い言葉で、やってやろうじゃないの! って言いそうになった。それこそ墓穴掘りってやつよね。
 貝になって様子を見ていると、二人とも黙ったままで睨み合っている。どうなっちゃうんだろ?
 あたしは、こいつの秘書なんかやりたくない。絶対こき使われるに決まっているし、東海林グループ会長の秘書なんて、そもそもあたしに務まるわけがなかった。
 社長さんの秘書だってそうだよ。こんな大一流企業の社長秘書なんて、恐れ多くてとても出来ない。あ〜あ、就活の神様は、あたしには微笑んでくれないみたい。うんにゃ、そもそもこれ自体、就活の神様の思し召しと決まったわけでもないんだし。
 そんな風に考えていたら、少し気分が晴れてきた。
 社長さんがテーブルに置いた履歴書の封筒を鞄に入れて、あたしは席を立った。
「咲弥子?」
 隆広の怪訝な声を無視して、社長さんに頭を下げた。
「今日は、貴重な休憩時間にお邪魔してしまって、すみませんでした。あたしはこれで帰ります」
「隆広の秘書の件、考えておいて下さい」
 優しそうな微笑をしていても、社長さんの目は真剣そのものだった。あたしは、曖昧に笑ってもう一度頭を下げて、一人で社長室を出た。
「おい、待てよ。咲弥子!」
 後ろから追ってくる隆広の声を無視して、来る時に乗ってきたエレベーターのボタンを押した。すぐに開く扉。あいつが走ってくるのを見て、急いで閉ボタンを押す。絶対に間に合わないと思ったのに、閉じる寸前で腕と足を割り込ませて、強引に乗ってきた。
「お前、どういうつもりだ?」
「もういいでしょ! あたしはこんなところで働く気なんかないの! あんたの秘書だってごめんよ!」
「お前、本気で就職する気あるのか!?」
 隆広が声を荒げたから、驚いて体が固まっちゃった。就職する気はあるけど、それはもっと分相応なところで……。言おうとして止めた。なんか、自分でも後ろ向きな考えだと思ったから。
「あたしの勝手でしょ! 諦めないで、地道に就活していくわよ!」
 エレベーターが地階に止まった。ドアが開くと同時に、さっさと降りて出口に向かって歩く。
 こんなことになって、こいつの車で送ってもらうのは嫌だった。そう思っていたのに、腕を掴まれて違う方向に引っ張られた。
「どこに行く? 車はこっちだ」
「ちょっと! あたし、電車で帰るわよ!」
「連れてきたのは俺だ。帰すのも俺の役目だろうが」
「でも、あっ!」
 あのメタリックブルーの車体に背中を押し付けられた。両脇を隆広の腕に挟まれて、逃げ場がなくなる。顔を上げると、覗き込んでくるこいつと目が合った。その表情は、意外に真面目だった。
「まさか、直人がお前を蹴るとはな。こんなことになるとは思わなかった。悪かったな」
「え!? あ、や、別に……あんたが謝ることじゃないでしょ」
 ビックリした。こんなに素直に謝ってくるとは、思ってもいなかった。やっぱり、変なところで紳士だ。
 面と向かっては見られなくて、視線を逸らしていたら、顔がだんだん近付いてきた。慌てて隆広の胸を押さえる。
「ちょっと、なにすんのよ」
「キスしたくなった」
「はあ!? なに言ってんの?」
 そんな恥ずかしいこと、よく口に出来るもんだわ。
「あいつらの見せ付けられたしな。お前……咲弥子も、興奮してたろ?」
 う……否定したいけど、あの二人を見ていて妙にテンション上がってたのは、確かだから。まさか、見られていたの!? 当てずっぽうだよね!?
 ぐるぐる考えていたら、顔が陰ってきた。しまったと思った時には、隆広の唇が至近距離に迫っていた。
「俺は、お前とやりたいと思った」
「そっん」
 軽く唇が触れて、すぐに深いキスになった。たっぷり2〜3分は舌を絡め合っていたと思う。こいつ、やっぱり上手い。
 ディープキスなんて、今まで付き合ってきた男たちと何度も経験してきているのに、こんなに欲情させられるのは初めてだ。解放された時には、足がガクガクになっていた。こんな風にされるなんて、やっぱりちょっと悔しい。
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