Act.8  乗り越えるべきこと ...4

 敷島さんに見送られてお店を出てから、車まで戻った。もう9時近いとはいえ、六本木だしバレンタインデーだし、カップルの姿はまだたくさんいた。行きと同じく周囲から視線がバシバシ来るけど、何だかもう気にならなくなった。何でだろ? 指輪の効果?
 車に乗ると篠宮さんはすぐに発進させて、それから煙草を吸った。
「お店では吸ってなかったですよね?」
「TPOってのがあるだろ。あの店じゃ吸わないことにしてる」
 そうなんだ。
 あ、篠宮さんの煙草の煙りって、ちょっと独特の香りがする。煙草自体はあまり好きじゃないけど、篠宮さんの煙草は大丈夫かな。
「あ、そういえば、このドレスはいつ返しに行ったらいいですか?」
「なんだ? 何を言ってる」
 篠宮さん、眉間に皺を寄せてる。そんなにおかしなこと訊いたかな。
「え、だってこのドレス……」
「俺からのプレゼントに決まってんだろ」
「ええ!? だってバレンタインですよ!?」
「だからだろうが」
 えと……よく分かりません。タイミングよく信号で車が止まって、篠宮さんは溜め息をついてあたしを見た。
「女から男にチョコレートを渡すってのは、日本の菓子会社が勝手に作ったイベントだ。最近じゃ、自分への褒美に高いチョコレートを買うって女もいるようだがな。男から女にプレゼントを渡すのが、本来の……っつうか世界基準のバレンタインだぜ」
「そ、そうなんですか!? あ、でも、これ凄く高いじゃないですか!? さっきだってお食事ご馳走になっちゃいましたし!」
「前に師匠の店で言ったろ。今後俺との食事の時は響子は出す必要ねぇって」
「で、でも……」
「お前には、エスコートされる立場ってのに慣れてもらわなきゃいけねぇんだ。黙って言うこと聞け」
「うう……わ、分かりました」
 でも、さっき敷島さんに渡してたカード、黒かった。あれが世に言う「ブラックカード」っていう奴なのね。今日のご飯、一体いくらしたんだろう? ご馳走になったとはいえ、ちゃんと訊いておいた方がいいよね?
「あの、いくら」
「訊くだけ無駄だ。俺は答えねぇ」
 うう……意地悪な篠宮さんが復活しちゃった。
「すみません。今日はご馳走様でした。あと、ドレスもありがとうございます」
「ふん、分かりゃいい」
 はぁ、篠宮さんの恋人になるって大変だわ。でも、選んだのはあたしだし、慣れていかなきゃね。
 そっか、昔聞いた『男の子にチョコを渡すのは、チョコレート会社の陰謀』っていう話は、本当だったんだ。何だかちょっとショック。
 うん? あれ? なにか忘れてるような…… あ! あたし、まだチョコ渡してない! そういえばルイヴィトンのバッグに入れっ放し! あのバッグ今ここにないよ!?
 ワタワタしていたら、篠宮さんが運転したまま怪訝な顔で訊いてきた。
「なんだ、どうした?」
「いえ、あの、あたしのバッグ」
「心配すんな。これから行くところにある」
 あ、そうなんだ。ホッとして窓の外を見たら、全然知らない道を走ってる。夜でちょっと分かりにくいけど、あたしのアパートに向かっているのでも、会社に向かっているのでもないのは分かった。
「あの……どこに行くんですか?」
「今日の仕上げだ。もうすぐそこだぞ」
 仕上げって何!? また試練とか!?
 
 

**********

 
 
 篠宮さんの言葉通り、それから5分くらいで車は地下の駐車場に入った。広い駐車場の奥まったところに停めて、またさっきと同じ様に先に下りた篠宮さんが助手席のドアを開けて、降りるのを手伝ってくれた。
 よくよく考えたら、ドレスは裾が長いし靴もヒールがかなり高めだから、乗るのも降りるのも一人じゃ大変。こういうドレスを着慣れている人がエスコート慣れしてるのは当然なのかも。
「ここ、どこですか?」
「ついて来りゃ分かる」
 そう言ってまたあたしの腰に手を回して、一緒にエレベーターに乗った。押した数字は20のボタン。最上階。
 エレベーターを降りると、広い空間があって、大きな扉が一つだけあった。
「あの、もしかしてマンションとかですか? ここ」
「ふん、よく分かったじゃねぇか」
 だってこういう場所は、セレブが住む超高級高層マンションとかいうので、テレビで見たことがあるもの。
「コート」
「え?」
「もういらねぇだろ。脱いどけ」
 ええ!? でもドレスは肩が丸出しですけど……そう思ったけど、篠宮さんもコートを脱いだからあたしも倣ってみた。
 あ、全然寒くない。もしかして部屋だけじゃなくて建物の中も、暖房が効いてるの? 凄い!
 篠宮さんがジャケットの内ポケットから、銀色のカードを取り出した。それをドアの横に付いた、銀行のキャッシュカードを入れる所みたいな物に入れると、ガシャンと音を立てて鍵が開いた。
 さすがに超高級高層マンション、カードが鍵になってるんだ。
 篠宮さんがドアを開けると、中はちゃんと灯りが付いてる。すっごく広い玄関……でいいのよね? 靴を脱ぐところがないけど、きっとそのままで入れるんだ。
 誰もいないと思っていたら、奥の方から女の人が出てきた。一瞬ギョッとしたけど、その人はあたしたちの前まで来て丁寧にお辞儀をした。黒いワンピースを着て白いエプロンをしてる。こういう人、なんて言うんだっけ……あ、家政婦さん?
「愁介様、お待ちしておりました」
 うわー、本物の家政婦さんだ。初めて見た! 碧さんよりちょっと年上かな? 優しいお姉さんって感じの人。
「し、愁介、あの……この人は?」
「ああ、こいつは昔の俺の専属メイドだったんだ。これからここに住み込みの家政婦として働いてもらう」
 うわぁ、専属のメイドさんなんて、さすがに篠宮さん! あれ? でも、そうしたらクリスさんはどうなるの? 一端の外国人になるって言ってたっていうから、そっちに専念するのかな?
 篠宮さんがあたしの腕の中から毛皮のコートを取って、自分のと一緒に家政婦さんに渡してしまった。二人分のコートは重そうなのに大丈夫かなって思っていたら、その人は壁の扉を開けて中のハンガーに掛けた。大きな扉だなぁって思っていたら、すごい数のコートが中に掛かってました。玄関にクローゼットなんてあるの!? 凄い!
 それからあたしに向かってニコッと笑って丁寧にお辞儀をした。
「初めてお目に掛かります、響子様。麻生雪絵と申します。どうぞよろしくお願い致します」
「あ、島谷響子です。ご丁寧にありがとうございます。えと……こちらこそ、よろしくお願いします。雪絵さん、でいいですか?」
 あたしもペコッと頭を下げたら、雪絵さんはちょっと怖い目付きになった。
「わたくしのことはどうぞ、雪絵と呼び捨てにして下さいませ。愁介様の奥方様になるお方が、家政婦にさんを付けるなど、まして頭を下げるなどしてはいけません」
「え……」
 絶句しちゃったあたしに、雪絵さんは今度は深々と頭を下げた。
「未来の奥様にご無礼を申し上げたこと、誠に申し訳ございません。しかし、わたくしは心を鬼にして言わせて頂きます、これからも」
「は、はぁ……」
 えと……雪絵さんて凄く真面目な人なのかな。篠宮さんを見たら苦笑してるし。っていうか、未来の奥様って……あたしってそう見られちゃうってこと!?
「ふん、自己紹介としちゃ十分だろ。こういう奴だが、よろしく頼む」
「え、あの」
「かしこまりました」
 あたしと雪絵さんが同時にしゃべって、篠宮さんがおかしそうに笑ってる。
「気が合うじゃねぇか。これなら心配いらねぇな」
「え?」
「来いよ、中を案内してやる」
「あ……」
 篠宮さんの手がまたあたしの腰に回ってきて、引き寄せられた。か、体が密着してるよ! 何回されても全然慣れそうになくて、あたしの心臓はドキドキ。雪絵さんは何故か嬉しそうに微笑んで言った。
「愁介様、お似合いでございますよ。今宵はお泊りになられるのでございましょう? すぐにアルコールとおつまみをご用意致しますので、ごゆっくりお見回り下さいませ」
 また深々と頭を下げて、雪絵さんは廊下の奥に入っていった。篠宮さんに対してあんなに低姿勢なんて、雪絵さんにとっては凄く大事な人なんだ。
「し、愁介は今日はここに泊まるんですか?」
「先に言っとくが、お前もだぞ」
「う……わ、分かりました」
 明日がお休みの日でよかった。あ、だからあたしのバッグもここに置いてあるんだ。エステしてから行方不明になってのは、あそこの人たちがここに運んでくれたのかな?
感想・誤字報告を兼ねた拍手ボタン ←感想や誤字報告などありましたら、こちらをご利用下さい。