Act.7  試練、再び!? ...16

「あの……ちゃんと説明してもらってもいい? あたしは伊藤さんと何も勝負してないし、あたしは伊藤さんは凄いと本気で思ってるよ? あたしには出来ない外国語を2つも出来て、文書を作るのも色んな作業するのも素早くて、秘書って感じするもの」
 まぁ……さっきのラウンジで話してたお姉さんたちみたいに、嫌っている人もいるみたいだけど。
 伊藤さんは顔を上げてから額に右手を当てて、はぁーっと大きな溜め息をついた。
「あんた、自分がどれだけ凄いことしたか、本気で分かってないのね」
「あたしが?」
 つい聞き返しちゃったら、キッと睨まれて、左手を腰に当てて右の人差し指で指差された。
「私はね、韓国語と中国語の読み書き会話は出来るけど、こんな会議の席での通訳なんて出来ないわよ!」
「なんで? だって、電話で凄い流暢に話してじゃない」
「あのねぇ……ただ会話するのは、自分が理解してればそれでいいのよ! でも通訳ってのは、自分以外に理解させなきゃいけない相手がいるでしょうが! 相手の言うことを上司に伝えて、上司の言うことを相手に伝えて。自分で会話した方がどんなに気が楽で労力もいらないか!」
「あ、それは分かる。だからもう、今日はずっと緊張しっ放しだったよ。終わってホントに気が楽になった」
「…………」
 伊藤さんが口を開けたままあたしを見てる。それから盛大に溜め息をついた。
「あの……あたし、変なことを言った?」
「もういいわ。あんたには何を言っても通じないってことが、よく分かったから」
「むっ……なんで?」
 そんな呆れられるようなことは言ってないのに。伊藤さんは唇を噛んであたしを睨み付けた。
「自分の出来ることが他人にも出来ると思ったら、大間違いなのよ! まったく、会議が始まってからあんたが平然と通訳してるのを見て、私がどんなに衝撃を受けたか、分からないでしょ!!」
「え……」
 伊藤さんがあたしに衝撃を受けるなんて……そっちの方があたしには驚きだった。
「で、でも、会話することが出来るなら、通訳も出来るんじゃない?」
「そうやって当然のように言うのが、腹が立つのよ! 外国語を話せるだけで通訳が出来るなら、今頃そんな仕事をしてる人がゴロゴロいるわよ!! 特にこんな会議の場でなんて、どれだけ努力が必要か!!」
 その言い方は、あたしが努力してないみたいに聞こえて、カチンときた。
「あ、あたしだって、凄い大変で毎日ドイツ語の勉強してたもん! あたしだって頑張ったんだから!」
「知ってるわよ! さっき倉橋課長からあんたのノートを見せてもらったわ。あれだけやってるなら、出来て当たり前よ!」
「そ、それだったら、伊藤さんもやればいいじゃない」
「そんなこと分かってるわよ、このバカ!!」
 褒められてるのか貶されてるか分からなくて、ムッとして言ったら頬を叩かれた。バシンッて凄い音が鼓膜に響いて、頬がヒリヒリする。ビックリして叩かれたところを手で押さえたら、ジンジンしてきた。凄く痛くて、涙が浮かんだ。
 なんで? どうしてあたしがこんな目に遭わなきゃいけないの!?
 体の中から怒りが湧いてきて、伊藤さんを見た。……でも、何も言えなかった。伊藤さんが、両手で顔を覆って泣いていたから。
「え……伊藤さん?」
「何なのよ! あんた、私に恨みでもあるの!? お金持ちと結婚するのが夢だったのに、子供の頃からの夢だったから、いい会社の社長秘書になるのが一番近道だと思って、人がやらないような韓国語と中国語を必死に勉強してきて、秘書検定だって準1級取って、ここの社長が独身だって知って、面接で合格出来るように必死にやってきたのに、入ったらあんたみたいのが先にいるなんて……私に恨みがないなら、なんであんたがここにいるのよぉ!!」
 あの伊藤さんが、泣きながら叫んでる。それに驚いて、呆然と口を開けて見ちゃった。だって、いつも理不尽な言い掛かりを言ってきた伊藤さんが、泣き崩れるなんて……。
 どうしよう、なんて声を掛けたらいいの?
 伊藤さんの傍にそっと近付いて膝を付いたら睨まれた。
「それに今日のスーツは何なのよ! あんたお嬢様じゃないって言ったじゃない! なのに、なんでシャネルの新作オートクチュールを着てんのよ!? おかしいじゃない!!」
 伊藤さん、ブランドに凄い詳しいんだ。でも、そう言われても、あたしだって着たくて着てるわけじゃないし……。
「あの、これは、別にあたしが選んだわけでも買ったわけでもなくて、まぁ、なんというかこれしか着るものが出てなくて……」
 実際出てたのは、この服しかなかったし。
「なによそれ! まるで強制的に着せられたみたいじゃない!」
「だって、本当にそうだし……」
「昨日あんたが往来でイケメンと抱き合ってるの見て、ショックで一晩泣いたってのに! ふざけんじゃないわよ!!」
「そ、それは見られたあたしもショックだったけど……え、泣いたって……伊藤さんが?」
 あ、朝見た時に目が腫れぼったかったのって、泣いたからだったんだ。でも、あの伊藤さんが一晩泣いたの? 本当に!?
「そうよ!! 泣いて悪い!? あんたがいけないんでしょ! 往来でイケメンと抱き合うから! しかもあんな金持ちがあんたについてるなんて……私は、一生懸命社長の目に留まるように必死にやってんのに、あんたなんかにあんな男がっ既に、いるなんて……不公平よ!!」
 伊藤さん、今度は床にペタッと座っちゃって号泣してる。こんなに泣き喚く伊藤さんなんて、信じられない。何だか調子狂っちゃうよ。
「あの……伊藤さん」
「なんでまだいるのよ! 人が泣いてるの見て面白い!? さっさと出て行きなさいよ!!」
 やっぱり伊藤さんは理不尽だ。話があるっていうから残ったのに、一方的に怒鳴られるだけなんて……。溜め息をついて腕時計を見たら、もう20分経ってた。
「分かった。ここ4時までしか使えないって言ってたから、あと 30分したら出た方がいいよ」
「とっとと出て行きなさいよ!」
 これ以上は何も言えずに、大泣きしてる伊藤さんを残して会議室を出た。

 
 

 秘書室に戻る前に50階のトイレに寄って鏡で顔を見た。叩かれたところが見事に腫れ上がっちゃって、このまま戻ったら何があったか絶対に訊かれちゃう。でも、何も言わずにいることも出来ないし、会議の報告もしないで碧さんのところには行けないから、戻るしかないか。
 トイレを出て秘書室に戻る途中、廊下の窓際に寄って外を見た。
「はぁー……なんか、あたしは好きな人と一緒にいたいだけだし、一生懸命勉強していつの間にか通訳なんかも出来るようになってただけなのに、なんでこんな風に言われなきゃいけないんだろ……」
 篠宮さんだったら、こんな時なんて言ってくれるだろう? 「んなもん気にすんじゃねぇ」の一言で終わらされそう。
「そんなの気にすることないだろ」
 え!? 背後から声を掛けられて、飛び上がるくらいビックリした。だって、あたしが想像した篠宮さんのセリフと同じだったから。
 慌てて振り向くと、奈良橋くんがいた。
「あ、奈良橋くん。ど、どうして?」
「とっくに会議は終わってるのに、二人とも戻ってこないから様子を見に行こうと思って。そうしたら島谷がいたからさ」
 ズボンのポケットに手を入れて立ってる姿は、ピッタリはまっててカッコよく見える。スーツ姿が妙にはまっているのは、落ち着いた雰囲気のせいかも。都賀山くんもカッコイイ部類に入ると思うけど、ちょっと騒がしい性格だから、同い歳でも彼の方が大人びて見える。
 奈良橋くんはあたしの顔を見て、眉をひそめた。
「伊藤がやったのか? それ」
「あ……うん、ちょっと……怒らせちゃったみたいで」
 あははって笑って誤魔化したら、ポンって頭を撫でられた。その手がちょっと篠宮さんに似ていて、ついボロッと涙がこぼれちゃった。さっき泣けなかったら……。
「はぁ、予想通りになったな。派手な喧嘩になるんじゃないかと思ったんだ」
「う……えっ……朝来た時にあたしを見て溜め息ついてたのは、それ?」
「ああ。島谷、昨日凄いいい男と抱き合ってたろ。あれを見た時の伊藤がさ、卒倒するんじゃないかってくらいわなわな震えてて、こりゃ今日血を見るかもなって思ってたんだ」
「……なんで、伊藤さんはあたしにだけ、あんな風になるの? 他の人には、あんなに可愛いのに」
 それがあたしには、どうしても理解出来ない。だって、どんなに外面をよくしても、さっきのお姉さんたちみたいに、分かる人には分かっちゃうのに。
 奈良橋くんは、大きく息を吐いた。
「前にも言ったろ、伊藤ってさ大学でもあんな感じで、勝手にライバルを見付けて勝手に勝負を挑んでたんだ。傍から見たらアホみたいだけど、伊藤はそうしないと自分は高みに行けないって思い込んでんだよ。実際、子供の頃からそうやって上に這い上がってきたみたいだぜ」
「そんなの、勝手にライバルにされた方は、いい迷惑だよ」
 また涙がこぼれた。どうしよう、止まらなくなりそう。
「まぁな、大学時代はそれで泣かされた女子も結構いたよ。でも、あんなに敵愾心をむき出しにしてるのは、俺も初めて見るぜ。島谷は凄いよ、そうなっても伊藤から逃げ出さないもんな」
「そ、そうかな……結構泣いてるけどね」
 伊藤さんと初めて会った日は、アパートで泣いたなぁ。今はだいぶ慣れたし、あたしを勝手にライバルにしていた理由も分かったから、そうでもないけど。
「なぁ、島谷」
「ん、なに?」
 呼ばれて奈良橋くんを見たら、ちょっと深刻な顔をしてあたしを見下ろしていたから、ちょっと驚いた。
「さっき言った昨日抱き合ってた男って、島谷の恋人?」
「う、うん……み、見られちゃってたんだよね……」
 うわぁ、こうして改めて訊かれると、は、恥ずかしい。
「あいつってさ、もしかして内線の奴?」
「うえ!? う、うん、まぁ……」
 あいつとか奴とかって奈良橋くん、言葉が汚いよ?
「ねぇ、あの人、奈良橋くんが内線に出た時、なんて言ったの?」
「もう凄い上から目線だったよ。『俺だ、島谷響子はいるか』って」
 ひえぇー、篠宮さんそれじゃあ、いつもの電話と同じです! やっぱりそういう、「俺」で通じちゃうことが多い人なんだよね。奈良橋くんの眉間に皺が寄って渋い顔をしてるのが、何とも分かりやすいというか、想像出来ちゃうというか……。
「ご、ごめんね。気分悪かったでしょ」
「別に、島谷が謝ることじゃないだろ。偉そうな人って俺も言ったじゃん。まぁ、そういう人なんだろうけど」
「うん、まぁ……」
 ズバリ当たってるよ、奈良橋くん。あたしたち同期の中では、一番出来るんじゃないかなって思う。
 しばらく下を向いていたら、奈良橋くんがまた溜め息をつくのが聞こえた。
「俺さ、伊藤が早く島谷には敵わないって気付いてくれればいいって思ってたんだけど、結局今日まで分からなかったんだな」
「奈良橋くん? あたしには敵わないって、そんな大げさだよ。だって、伊藤さんの方がよっぽど出来るじゃない」
 努めて笑うように言ったのに、奈良橋くんは首を横に振った。
「島谷って、本当に自分のことが分かってないんだな」
「え……」
「前に言ったじゃん、俺はロシア語は出来るけど同時通訳までは出来ないって。自分だけで会話してる分には、自分だけ理解してれば済むけど、通訳の仕事ってそうじゃないだろ。それを1月の段階でやってた島谷は、凄いと思ったね。伊藤も、そういうのが分かっちゃえば、突っ掛かることもなくなると思う。たぶん、明日からは平穏になると思うよ」
「そうかな……そうだといいけど」
 ビックリした。伊藤さんと同じ事を奈良橋くんも言うんだもん。通訳なんて、会話が出来れば誰でも出来るって思ってた。そんなに凄いことなんだ。篠宮さんが言ってた「即戦力」ってこういうことだったの?
「島谷、顔が凄いことになってるよ」
 唐突に顔のことを言われて、ハッとなった。
「凄い? ホントに?」
「痛くないのか? 真っ赤に腫れ上がってる。医務室に行って冷やしてもらった方がいいぜ」
「うん……でも、これ戻しておかなきゃ。報告もしなきゃいけないし」
 持ってたノートと辞書を見せて言うと、奈良橋くんが手を出した。
「それ、俺が持ってっとくよ。机に置いておけばいいだろ。会議の報告なら、倉橋課長がさっき秘書室に来て清水さんに話してたよ」
「え!? あ、そ、そうなんだ。じゃあ、お言葉に甘えちゃっていい?」
「もちろん」
 あたしはノートと辞書を奈良橋くんに渡して「お願いします」と頭を下げた。
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