Act.7  試練、再び!? ...17

 奈良橋くんと別れてエレベーターに乗ったあたしは、医務室には向かわずに直接碧さんの出張クリニックに行った。
 29階でエレベーターを降りると、廊下の先にあるスモークガラスに『森沢心療内科・出張クリニック』って書かれた自動ドアがある。それを抜けると待合室になるんだけど、これがまた広い。「どこの大病院でしょう?」と訊きたくなっちゃうくらいで、前に一度だけ来た時にフロアの半分を使わせてもらってるって教えてくれた。
 丸いテーブルに椅子が4つずつあって、それが待合室全体に配置されてる。壁際にはコーヒーサーバーやお茶用のポット、飲み物の自販機まであって、雰囲気は待合室というより談話室みたいな感じ。
 お昼休みの時間帯は、かなりの混み具合って聞いてるけど、さすがに4時を回ったると人もまばら。
 ここに来る人たち全員が碧さんに診てもらう訳ではなくて、ここでお茶するだけで気分が楽になったり、違う部署の人と話をするだけで持ち場に戻る人も多いって聞いてる。あんまり人が多い時には碧さんが診察室から出てきて、ここで雑談したりもするんだって。
 あたしは待合室の奥にある、診察室のドアを見た。誰かを診てる時には札が掛かるけど、今は何もない。よかった、すぐに碧さんに会える。ホッとしてそのドアをノックした。背後でヒソヒソ話す声が聞こえたのは、多分あたしの腫れた頬を見たから。でも気にしないようにした。お昼休みにラウンジでお姉さんたちの話を聞いた時から、会社ではああいうのは普通なんだって思ったから。きっと気にしたら負けちゃうんだ。
「どうぞ、入って」
 ドアの向こうから碧さんの声が聞こえて、あたしはノブを回した。
 診察室に入るのは二度目。碧さんに書類を届けるよう、篁さんに頼まれて来たのが最初。「森沢先生にこの書類を届けて下さい」なんて言われたから、初めは誰だか分からなかった。碧さんも「篁社長」なんて呼んでいるから、お二人が恋人だなんてきっと誰も気付かないと思う。
 診察室には碧さんのデスクの他に、四角いテーブルに椅子が二脚、向かい合わせで置いてあって、壁にはカルテと薬の瓶が入ってる棚、それに簡易キッチンと、意外に広くて開放感がある。壁の色は明るいベージュで、ほわっとした雰囲気。どの部署にも使われていない色で、なるべく『会社』という雰囲気を出さないようにしているんだって。
 カルテも手書きで、仕事に疲れた人の中にはパソコンのキーを打つ音に過剰反応しちゃうこともあるから、なるべくそういう物は使わないんだって、前に教えてくれた。

 
 

「あらあら、響子さん。久しぶりね……どうしたの? その顔」
 開口一番、笑顔で挨拶してくれた碧さんは、あたしの顔を見て絶句した。白衣を着てるのがすごく新鮮に見える。
「その、同期の人とちょっと……」
「ふふ、伊藤美華さんでしょ」
 ああ……やっぱりご存知なんですね。思わず溜め息をついたら手招きされて、診察用の椅子に座る。碧さんはデスク脇の冷蔵庫から小さめのアイスノンを取り出して、タオルに包んで渡してくれた。
「はい、これで冷やしてなさい」
「ありがとうございます」
 さっきよりずっとジンジンしている左頬に当てたら、物凄く痛かった。
「初めは痛いでしょうけど、しばらく当てていると痛みは落ち着いて来るから、我慢して」
「はい……はぁ」
 また溜め息。奈良橋くんは「明日になったら平穏になる」なんて言ってたけど、あの伊藤さんがそうそう大人しくなるとは思えない。
 碧さんが苦笑して言った。
「伊藤さんの噂は、私のところにも届いているわよ。洸史も厄介な子を入れたものね」
 篠宮さんと同じことを言ってる。でも、碧さんは気にならないのかな。
「あの……伊藤さんが篁さんの奥さんになりたいって思っているのは……」
「うふふ、もちろん知っているわよ。洸史はねぇ……あんな歪んだ性格してるから、彼女みたいな人でも平気で傍に置いちゃうのよ」
 碧さんの椅子に座って腕を組んでる姿は、本当にお医者さんて感じ。本当は白衣は必要ないって碧さんは言うけど、診てもらう側から見たら、白衣を着てくれた方が安心出来ると思う。
「歪んで……ますか? 篁さん」
「歪んでるでしょう。他人が自分に向ける好意を利用して、仕事の効率を上げさせているんだから。私たちが恋人同士だって公表したら、そういう社員たちの仕事熱が冷めると思っているのよ。全く、このままじゃいつまで経っても結婚出来ないわ」
 呆れたような言い方だけど顔は笑っているから、本当はあまり拘っていないのかも。
「そうそう、響子さんはよく気付いたわね、洸史の腹黒い性格。昨日彼から聞いたわよ、バレたのは愁介さんと二人目だって、妙に楽しそうに言ってたわ。普通は慌てたり悔しがったりするでしょうに、その辺が歪んでるのよ」
 あの篁さんが楽しそうに……想像出来ちゃう自分が怖い。
「それは、あの……昨日伊藤さんとお昼ご飯を食べてる時に……」
 その時のことを説明したら、碧さんは大きな溜め息をついて首を横に振った。
「全くあの男は! 人の心を弄ぶことに関しては天才的なんだから」
「弄んで……いるんですか? やっぱり」
「そうよ。ただし、相手にそれを悟らせないところも芸術的だわね。まぁ、あんな男に惚れちゃった私も私だけど」
 そんな風に碧さんが悔しそうに話すのは意外に思った。
「でも、篠宮さんは碧さんでなかったら付き合えないって言ってましたよ?」
「そりゃそうよ。そういうことを分かっていて待っていられる女なんて、そうそういると思う? 愁介さんからは私も洸史と同類と思われてるわよ」
「あたしは、篁さんと篠宮さんは類ともと思ってます」
「あらあら、うふふ、響子さんも言うようになってきたわね」
 そんな嬉しそうに言われるとちょっと複雑で、あたしは首をすくめた。
「それで、その頬はどういう経緯で? 良かったら話してくれないかしら?」
「あ、はい。あたしも伊藤さんの件で相談に来たので」
「いいわよ。その前にちょっと待っててね」
 碧さんは立ち上がって、簡易キッチンでお茶を淹れ始めた。紅茶みたいな缶からティーポットに葉を入れてお湯を注いでいく。
 ずっと見ていたあたしにまた手招きして、四角いテーブルに移動した。椅子に座って2〜3分待っていたら、あたしの前に高価そうな陶器のティーカップが置かれた。淡い色のお茶が入ってる。
「え……碧さん?」
 顔を上げると、あたしの向かいに座った碧さんの席にも、同じカップがあった。
「私がブレンドしたハーブティよ。カウンセリングをする時は、必ず淹れているの。患者の分と私の分。気持ちが落ち着くから、飲んでみて」
「あ、はい。じゃあいただきます」
 頬に当てていたタオルとアイスノンをテーブルに置いた。ずっと冷やしていたせいか、触ってもあまり痛くなかった。カップを持ち上げた時からとてもいい香りがして、それに誘われるように一口飲んだ。
「あ、美味しいです」
「うふふ、でしょう」
 碧さんの優しい微笑みとハーブティの香りに誘われて、一杯飲み干しちゃった。
「それじゃあ、伊藤さんとのことを詳しく教えてもらえる?」
 そんなに早く飲んでいないのに、碧さんは飲み終わるのをちゃんと待ってくれてたんだ。凄く安らかな気分になって、今までのことを全部話した。

 
 

「まぁ……聞きしに勝る、だわね。その伊藤美華さん」
 話している間ずっと呆気に取られてた碧さんは、今日あった会議の後での事を聞いて、はぁーと息を吐いた。
「あたしはもう、一生仲良くは出来ないと思うんですけど、それはもう諦めてるので、出来ればもう煩わされないようにしたいっていうか……」
「そうね、その気持ちはよく分かるわ。でも、伊藤さんも今日のことで発憤出来たみたいだし、意外と明日からは変わってくるかもしれないわよ」
 ニコッと笑って言ってくれた碧さんのセリフに、聞き覚えがあった。奈良橋くんのそんなこと言ってたけど……。
「でも研修の身でもう社員並みの衝突をしているなんて、頼もしいわね」
「そ、そうですか?」
 あたしは、もうちょっと仕事に慣れてからの方がよかった……。
「それにしても響子さん、去年ホテルで会った時とは別人みたいよ。高嶺の花にはなれていないようだけど、少しは自信が付いてきたようね。いい経験を積んでる証拠だわ」
「え……あ、あたしは、そんな……」
 そんな風に言われても実感出来ないし、はっきり言って変わってないと思う。正直にそう言ったら碧さんは、しょうがないって顔で微笑んだ。
「響子さんは理想が高いのよ。こうでなきゃいけないと思う自分を、とても高く設定してしまっているの。それは悪いことではないけれど、一つ間違えると自滅してしまうわ。もっと自分を甘やかしてあげなきゃ。そのスーツは愁介さんから?」
 急に話題が変わって、ちょっと呆然としちゃった。
「え、あ、はい。これからは俺が用意したもの以外着るなって言われちゃいました」
「相変わらず強引だわね。でも、響子さんには愁介さんくらい俺様な男がいいわよ。どんどん引っ張っていってくれるから。だからね、愁介さんにどんどん甘えなさい。そうしたらビックリするくらい変わっていくわよ」
 笑っていう碧さんの言葉にあたしは仰け反った。
「あ、あ、甘えって……で、出来ません! そんなこと!」
「なにを想像したか何となく分かるけど、私が言ったのは、愁介さんから言われる通りのことをしてみなさいってことよ」
 呆れられちゃった。でもそれってつまり、今朝言われたことを全てやっていかなきゃいけないってことですよね……。
「分かった?」
「う……は、はい」
 観念してうなずいたら、碧さんは満足そうに笑った。
「そんなに深刻に考えなくても、今でも十分に変身しているわ。自分では気付いていないようだけど、その内いやでも気付かされるから、今は騙されたと思って愁介さんの言うことを聞いておきなさい、ね?」
「……は、はい」
 あたし、色んな人から同じこと言われちゃってる。篠宮さんの言う通りに、やってみるのがいいのかな……。
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