Act.5  熱情の抱擁 ...8

 そう思ったのがちょっと恨めしくなって、あたしは上目遣いに篠宮さんを見た。今言ったことは忘れたように、書類を読むことに没頭している……ように見える。
 そんな篠宮さんに、ちょっとだけムッとしていたら、聞き慣れた言葉が聞こえてきた。
≪響子様。愁介様は拗ねているだけなのです。どうか、響子様はお気になさらず≫
 あ、ドイツ語。しかもすっごく丁寧で綺麗な発音。日本語だけじゃなくて、ドイツ語まで堪能なんだ。レオンさんて凄い!
≪あの、でも……拗ねているって、篠宮さんがですか?≫
 それは、ちょっと信じられない。でもレオンさんは、しれっとした顔で言った。
≪こんな愁介様は滅多に見れるものではありませんので、なかなか貴重ですよ≫
 クリスさんもレオンさんも、時々すごく慇懃無礼になることがあるのね。
≪響子様の前だからこそ、こんな一面が出てくるのですよ≫
≪はあ……その、本当ですか?≫
≪もちろんです ≫
「おい、二人でなに話してんだ!! 俺にも分かる言葉で話せ! つかレオン! 俺を差し置いて響子と親しげに話してんじゃねぇよ!」
 とってもご機嫌斜めな篠宮さんの声と言葉と表情。でも、今の会話が篠宮さんに筒抜けっていうのも、すごく怖い!
 あ、だからドイツ語で話し掛けてきたの?
 そう思ってレオンさんを見たら、何故か『我が意を得たり』というようにニコッと笑った。
≪如何です? 他人が分からない言葉でしゃべるというのは、なかなか気分の良いものでしょう?≫
 そんなこと……ドイツ語が分からないからって、篠宮さんの前で笑いながらなんて言えません!
 血の気が引く思いで心の中でそう叫んでから、ハッと気付いた。以前に篠宮さんが言ってたこと。……ドイツ語を出来ることが、あたしの能力で即戦力になるって。
 レオンさんは「気分がいい」って言ったけど、そういうことじゃなくて……会社で篠宮さんからの電話を受けた時、篠宮さんとヒューズさんは英語で話してた。その時のあたしは、篠宮さんがスペインにいるってことしか、会話からは分からなかった。
 今まであまり気付かなかったし、そう考えたこともなかったけど、他の人が分からない言葉で話したり書いたり出来るのって、単に語学が出来るとかそういうことだけじゃなくて、こういう……人に聞かれたくないことを大っぴらに人前で話したりとか、そういうことに利用出来るってことなんだ。
 何だか、目からウロコが落ちたような感じ。今までドイツ語が出来ることを、そんな風に思ったことなんかなかったから。
 そう考えてレオンさんを見たら、さっきとは違う、とても優しそうな笑顔であたしを見ていた。
≪どうやら、吹っ切れたようですね≫
≪まさか、そのために今ドイツ語で?≫
≪実際に体験しないと見えないことは、いくらでもありますからね。能力のある者がくすぶっているのを見るのは、私の性格から言ってあまり好きではないのです。私の勝手で余計な差し出口をしてしまい、申し訳ございません≫
 深々とあたしに向かって頭を下げるレオンさんを、篠宮さんは怪訝な顔で見上げている。つまり…… こういうことなんだ。でも頭を下げられるなんて、あたしには恐れ多いよ!
≪い、いえ、そんなこと! あたしは今までこんな風に考えたことはなかったので、ビックリしました。でも、ありがとうございます≫
≪響子様から礼など、私には勿体無いことですよ。恐縮で≫
 言葉の途中で、篠宮さんが読んでいた書類をバサッとレオンさんの口元にぶつけた。
「ああ、読んで頂けましたか。愁介様」
「お前と響子の訳分からん会話を聞きながらな。ったく、上司の前でその恋人と内緒話たぁ、いい度胸じゃねぇか」
 ひえ! 篠宮さんの視線が怖い。あたしのためにレオンさんが怒られちゃうなんて、どうしよう! ……とは思っても、あたしのことだからいい考えなんて、浮かぶはずもない。……っていうか、あたしのこと『恋人』って言ってますけど、今日の今日でいいんですか!?
 そんなことが、またも頭の中でグルグルしていて、あたしはやっぱりあたしなんだって、妙に納得しちゃった。
「お咎めは、オフタイムに仕事を持ってきた時点で、覚悟はしていますよ」
「ふん、俺がそこまで狭量だと思うか? 響子の顔を見りゃ分かる。お前、何かやったな」
「え!?」
 思わず声を上げたあたしを、篠宮さんは意地悪そうな顔で見た。う、この顔は……。
「相変わらず、百面相しているな響子。いい加減、ポーカーフェースを身に付けねぇと洸史の秘書なんか、夢のまた夢だぞ」
「こ、こ、これからちゃんと鏡見て訓練します! あ、明日から!」
「ふん、楽しみだな」
 うう……いつか、この意地悪な篠宮さんをギャフンと言わせてやるんだ!
 そんなあたしらしくない……でも、そういえば子供の頃は負けず嫌いだったかな、と思い出したあたしの前で、レオンさんと篠宮さんはお仕事の話を始めた。
「それで、如何しましょう」
「アホらしい。この程度のことが処理出来ねぇで、エインズワースの支部長が務まるか! 自分でやれ、と伝えろ」
 そんな鬼みたいなことを言う篠宮さんに、レオンさんは困った顔をしてる。
「私も、愁介様なら必ずそう言うだろうと先方に伝えたのですが、頑として聞き入れないもので」
「ったく、日頃俺を軽視してるくせに、何かあると泣き付いてくるってのは、どういう了見だ!?」
「お気持ちはお察しします。私も同意見ですが、向こうは全く聞く耳を持ちません」
「仕方ねぇな。響子、悪いがしばらく待ってろ」
 呆れ顔で盛大な溜め息をついて、篠宮さんは腰を上げた。
「あ、あたしのことは気にしないで下さい。全然平気です!」
 今日は完全オフだって言ってたのに、それでもこうやってお仕事が入るのは、大変なことだよね。いつもオフの日はこうなのかな? 篠宮さん、ちゃんと体休めているといいけど……。
「申し訳ございません響子様。一時、愁介様をお借りします」
 深々とお辞儀をして、レオンさんは篠宮さんの後に付いて部屋を出て行った。
 一人残ったあたしは、ちょっと周りを見回してから、席を立って窓から外を見た。なんか、ここに来てからまだ何時間かしか経ってないのに、物凄く色んな経験した感じ。
「はあ……」
 つい出ちゃった溜め息。
 両手をガラスに置いて、ゴチッと額を窓ガラスに当てた。そのまま下を見てみる。
 この下で、今日も篁さんや清水さんたちがお仕事してるんだ……。
 篁さんは清水さんの気持ち、知ってるのかな……。
 新谷さん、今日も会社に来てるのかな……。
 ついそんなことを考えて、昨日新谷さんに告白されてキスされたことを思い出しちゃった。ブンブン頭を振ってその光景を追い出した。
「レオンさんまで、あんな風に気を遣ってくれて。あたし……変われるのかなぁ」
 もう一度額をガラスに当てて、目を閉じた。

 
 

 ふいに背中に圧迫感がして、ハッと目を開けたら篠宮さんに後ろから抱き締められた。
「篠宮さっひゃっ!」
 胸……胸に篠宮さんの手の平が!
「や……」
 耳、耳、耳たぶ舐めないで〜!
「食事も終わったしな、さっきの続きやろうぜ」
 ひぃ〜、舐めながら囁かないで下さい! 息が耳の中に届いてゾクゾク寒気がっ。
 体を硬くして寒気を堪えていたら、急に顎をグイッと上向かされた。ついでに首もグキッと右側後方に持っていかれる。
 何事〜!? と思って目を開けたら、ホントの目の前に篠宮さんの顔がっ!! と分かった瞬間、またキスされてしまった。
 息する隙間もないくらい唇が塞がれて、でも凄く気持ち良くて、思わず篠宮さんのシャツにしがみついちゃった。それから窓ガラスに背中を押し付けられて、それでもキスは止まなくて、何だか朦朧としてる。
 その内に抱き抱えられて、それからさっきのベッドに寝かせられた。
 天井の前に篠宮さんが覆い被さる様に来て、優しくキスしてくれて……。何がどうなるのか全然分からないけれど、自然と腕を伸ばして篠宮さんにしがみつく様に抱き付いた。
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