Act.4 これって試練ですか?...13

 終わり……のはずだったのに、夜7時の只今、あたしは会社から程近くの居酒屋に来ています。
 あの後で国際管理部のドイツチームから、飲み会をするので出席してくれ、と頼まれた。あたしの歓迎会も兼ねているから、と言われたら断れないし、清水さんに相談したら「いいじゃないの。お酒の席は、会社とは違った話題が出るから面白いわよ」と言われて、出ることにした。
 ただ、一つだけ釘を差されたけど。
『社長秘書というのは、社員の知り得ない情報や社長の動向を一番近くで、しかも新鮮な情報を知っている立場にあるの。だから社員の中には……特に管理職は、言葉は汚いけどあなたに取り入ろうとしたり、巧みに誘導して情報を引き出そうとする人もいるわ。国際管理部の部長やドイツ支社のチームには、幸いそういう人はいないけど、他の部署には虎視眈々と狙ってる人もいるから、気を付けてね。とにかく、何かを訊かれたら、何も言わずに笑っていなさい』
 そんな風に言われちゃって、ちょっと驚いた。社員から見たら、秘書室ってそういうものなんだ……。
 ここの人たちは違うみたいだから、ちょっと安心。
「島谷さん、ビールでいい?」
 あたしの左隣りに座った新谷さんが訊いてきた。
「あ、あの……あたしビールはちょっと……」
「お酒飲めないんだ? じゃあソフトドリンクでいい?」
 そんな風に気を遣ってもらって笑顔で訊かれたら、お酒には強いです、とは言いにくい。
 新谷さんがメニューを見せてくれた。会社で飲むのは初めてだから、ソフトドリンクにしておいた方がいいかもしれない。
 そう思ってそこのメニューを見ていたら、右隣りに座った成田さんが、「アルコールが軽いカクテルだったらどう?」と勧めてくれた。成田さんは、新谷さんの2年先輩で、あたしも比較的話し易い人だった。この二人が左右に座ってくれたのは、多分あたしに気を遣ってくれたのよね。
 メニューを見てみると、ソルティ・ドッグとかバイオレットフィズとか、あたしにとってはジュースみたいなカクテルがある。これなら、飲んでも強いって思われないよね……うん。あたしはモスコミュールを頼んだ。
 そして始まった飲み会。
 乾杯の時、みんなジョッキのビールを飲んでる中で、あたしだけトールタイプのグラスって、かなり目立ってる。マズいかな……今度もし誘われることがあったら、苦手でもビールを飲むことにしよう。
 ……なんて思っていたら、斜向かいに座った倉橋課長に言われた。
「島谷、自分の飲める物を頼んでいいんだぞ。気にするな」
 ギョッとしちゃった。
「あ、あの……もしかして……顔に出てました?」
 恐る恐る訊いてみたら、
「ん? いや、何か思い詰めてそうだったからな。もしかしたらと思っただけだ」
 ひぇ〜! これからはホントに気を付けなくっちゃ! か、鏡でも見て表情を作る練習しよう!
 テーブルに並べられたお料理は、あたしが加奈子たちと飲みに行った時の物とそう変わらない。時間が時間だけに物凄くお腹が空いていて、「島谷さんも遠慮なく食べて」という成田さんの言葉に甘えることにした。
 最近はコンビニのお惣菜ばっかりだったから、サラダを多く食べさせてもらった。お酒はモスコミュール一杯だけ。飲もうと思わなければ、ご飯だけでも十分に楽しめるあたし。
 チームのみんなの話は、立ち消えになったドイツ支社拡大のことになった。
「社長から、いきなりあの話が出たのは驚いたよな」
「社長にしては無理難題と思ってたら、会長からの指示だったんだってな」
 あたしは食べていたサラダを吹き出しそうになった。
「だ、大丈夫? 島谷さん」
 隣りにいた新谷さんが、目敏く声を掛けてくれたけど、出来れば見ない振りをしてほしかった。
「あ……ゴホッ平気です」
「島谷も知ってたのか?」
「はい……初日にお話だけは聞いていました」
 倉橋さんに言われて、咄嗟に出たのはその言葉。余計なことは言わない言わない。……必死に自分に暗示をかけた。
「でも会長も横暴だよな。この時期に事業規模を2倍だぜ。なに考えてんだっての!」
「どうせ俺ら現場の下っ端のことなんか、考えてねぇんだろ」
「だよなぁ。どう考えても、ムチャクチャな指令だったもんな」
 篠宮さんって、社員の人たちからはこんな風に思われてるんだ。何だかちょっと切ない気分。
「そこ行くと社長は凄いよな。俺らにそのこと話した段階で、『出来るか出来ないかの判断はあなた方にお任せします。出来ない場合は、その理由を簡潔に教えて下さい。会長への異議申し立ては私がしますから』なんて、ビシッと言ってくれて。今更だけど、この社長に付いてけば絶対大丈夫って思ったから。あれで俺より年下なんて、信じられないよ」
 倉橋さんと同い歳の立野さんが、凄く感心したように言った。ちょっと老け顔の立野さんは、倉橋さんと同じ歳には全然見えないけど、口調は意外とぞんざいだった。
 改めて思うけど、篁さんて凄いなぁ。こういう人をカリスマ性があるって言うのかな。
「大体、会長ってまだ30前のボンボンだろ。そんな奴が出す指令なんて、こんなもんですよ」
 ドキッとした。そう言ったのが新谷さんだったから。
 篠宮さんは意地悪なところもあるし、ムチャクチャなところもあるけど、そういうことはちゃんと分かってくれてるように思う。
 あ、そっか……考えてみたら、会社のパンフレットにも篠宮さんの名前は出てないから、みんな『会長』っていっても、噂とかでしか知らないのかも。
 篠宮さんは外国で、寝る間も惜しんでお仕事してるのに……。
 そう思うと、何だか新谷さんが言ったことに反論したくなっちゃったけど、新人のあたしが余計なことを言うのはやめようと、口を噤んだ。
「新谷、口を慎め。今のは、社長秘書の前で話すことじゃないぞ」
 倉橋さんが渋い顔をして、たしなめた。
「あ、あの、あたしは……あたしのことは気にしないで下さい」
 まさかあたしのことが出るとは思ってなかったから、焦ってそう言うのが精一杯で、あたしはモスコミュールを飲み干した。
「島谷、そんなに一気に飲んで大丈夫か?」
「はい、大丈夫です!」
 なんかもうよく分からないけど、篠宮さんの話題から逸れるなら、お酒に強いと分かってもいい。篠宮さんが悪いみたいに言われるのは、聞きたくなかったから……。

 
 

 それからは倉橋さんが気を利かせてくれたのか、篠宮さんの話題は出なかった。
 飲み会は2時間で終わった。飲み代を払おうとしたら、今日はあたしの歓迎会も兼ねているから、払わなくていいって言われちゃった。
「研修期間は給料も安いだろ。社員になったら遠慮なくもらうから、今日は奢られとけ」
 倉橋さんのお言葉で、今日は甘えてしまった。
 明日も会社があるから、2次会には行かずにここでお開きにするってことで、みんなとは別れた。偶然にも、あたしのアパートの方角に帰る人は、誰もいなかった。
「島谷一人で大丈夫か? よければ送るぞ?」
 倉橋さんがそう言ってくれたけど、あたしは遠慮した。別に身の危険を感じたとかじゃなくて……。倉橋さんは奥さんも子供もいるもの。
 ただ……マスターのところで、お酒を飲みたくなっちゃったのだ。
 確かマスターのお店は、会社からそんなに離れてないはず。歩いて15分くらい? ここからだと20分くらいで着くはずだった。
 今日はちょっと寒くて、コートとマフラーをしていても吐く息が白いけど、歩けない程じゃない。
 周りには分かりやすいビルがあったから、行けば分かると思う。バーの電話番号は携帯に登録してあるし、いざとなったら電話すればいいし。

 
 

 ……ってことで、マスターのお店に向けて歩き始めたら、後ろから呼び止められた。
「島谷さん!」
 この声、新谷さんだ。みんなと一緒に帰ったんじゃなかったの?
 首を傾げながら立ち止まったところで、新谷さんが横に並んだ。トレンチ・コートを着た新谷さんは、あたしよりも頭一つ分背が高い。
「なんですか?」
 自分でも声が憮然としてるのが分かって、ちょっとうろたえてしまった。新谷さんは篠宮さんのことを知らないんだから、あんな風に言うのは、ある意味当然なのに……。
「あのさ、これから飲み直さないか?」
「…………」
 なに言ってるの? この人。
 訳が分からなくて、ポカンと見上げていたら、新谷さんは慌てたように付け足した。
「あ、えっと二人だけでさ。いい店知ってるんだ」
 そんな風に誘われたのは初めてだから、正直どう返していいのか分からない。
 でも……何となく、男の人と二人きりでっていうのは、避けた方がいいような気がした。
「あの……ごめんなさい。あたしはいいです。その……一人で飲みたいので」
 う……ここまで正直に言うことなかったかな? でも、嘘はつけないし。
 ペコッとお辞儀して、あたしは新谷さんに背を向けた。木曜日の夜だから人はまばらだけど、全くいない訳じゃないから、ちょっと注目を集めちゃってた。
 恥ずかしくなって足速に去ろうとしたら、いきなり肩を掴まれて、強引に振り向かされてしまった。
 え!? な、なに!?
 パニクるあたしの眼前に新谷さんが顔を近付けてきた。咄嗟に目を瞑った。
「君が好きだ!」
 は、はいいぃ〜!?
 い、いきなりなに言ってるの? この人!!
 ビックリして目を開けたら、新谷さんは物凄く真剣な顔であたしを見ていた。
「あ、あの……? す、好きって?」
 まるっきり頭が働かなくて、掠れた声しか出ない。
「一目惚れだよ。初めて会社で会った時から」
「ひ、一目……惚れ?」
「君の美しさには、どこの誰にも敵わない」
「へあ?」
 う、美しさって……臆面もなく言える新谷さんは凄いです。
「俺と付き合ってくれ!」
「…………」
 この時、あたしの頭の中はフリーズ状態。
 周りからの好奇の目も、冷やかす野次にも、全く気付いていなかった。
 そして、唇に感じた柔らかい感触。
 それに驚いて、あたしは思いっ切り新谷さんを突き飛ばしてしまった。
 な、なに……今の。キ、キス、された……の?
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