新谷さんも驚いたような、よく分からない表情であたしを見てる。
「あ、の……」
声を出した途端、涙がボロッと落ちた。哀しいとか嫌だとか、そんな感情が湧き上がる前に、あたしは泣いていた。
なんで?
「なんで……急に、こんな?」
「あ、その……ごめん。君を見ていたら、つい……」
つい、でキスなんかするの!?
「まさか、初めてだった?」
なんでそんな嬉しそうに訊くんですか!?
あたしはギュッと目を瞑って、首を横に振った。篠宮さんの顔が脳裏に浮かぶ。あの時はビックリしたけど、嫌な感じはしなかった。でも、今は……自分でも驚くくらい、嫌悪感がいっぱいで。
キスされた唇を、急いで拭った。
「あ、あたし……出来ません!」
なんだか色んな言葉を端折っちゃったような、そんな気がしないでもないけど、あたしの今の頭で分かるはずもなかった。
とにかく、何とかそれだけ言うと、今度こそ新谷さんから離れようと踵を返した。
でも、またしても腕を掴まれてしまって。
「新谷さん……離して下さい」
「いきなりキスしたことは謝るよ。でも、答えてくれないか? 俺と付き合ってほしい」
新谷さんの手を振りほどこうとしても、全く歯が立たない。却って掴む力が強くなる。
「あ、あたし……」
ふいに思い浮かぶ篠宮さんの顔。思わずその篠宮さんに、助けてって言おうとした。実際にここにいる訳じゃないのに。
さっき新谷さんにキスされた唇が、凄く気持ち悪く感じた。こんなこと思ったら新谷さんに悪いけど、でも、篠宮さんにキスされた時は、こんな風に感じなかったのに……。
「あたし……お付き合い出来ません」
新谷さんの顔は見れなかった。下を向いて、さっきは端折っちゃった言葉も、ハッキリと言えた。
キスされた状況は篠宮さんとそんなに変わらないのに、なんでこんなにあたしの気持ちは違うんだろう?
『篠宮さんのこと、好きじゃないの?』
加奈子の言葉が頭に浮かぶ。
好き……なんだ。多分、きっと、あたしは篠宮さんが好きなんだ。
だから、篠宮さんがスペイン国王と会食するくらい偉い立場の人だって知った時、あんなに涙が出てたんだ。ショックだったから……自分とは、身分の違う篠宮さんの立場が。
『篠宮さんのこと、嫌いじゃないんでしょ?』
好きだよ、加奈子。あたし、篠宮さんのことが好き。
まだ3回、2年前を入れても4回しか会ってないけど、あたし篠宮さんのことが好き!
「誰かと付き合ってるのか?」
ふいに聞こえた新谷さんの声。
付き合ってない。あたしと篠宮さんは、まだそんな関係じゃない。でも、自分の気持ちに気付いちゃったら、篠宮さん以外の男の人に触られるのが嫌になった。篠宮さんだけに触れてほしい。
「あたし……好きな人がいるんです。その人じゃなきゃ、嫌なんです……」
自然に出て来た最後の言葉。あたしの声は嗚咽にまみれていた。涙は涸れることなく溢れ出て来る。
早くその手を離して。篠宮さんに触れられたいのに……。
「は…離して……下さい」
力のない声で懇願したら、やっと腕を開放してくれた。
「ごめん、強く掴み過ぎた。君の好きな人って誰だ?」
……そんなの言える訳ない。だってその人は、さっき新谷さんがボンボンと言った人。
「あの……新谷さんは知らない人です。でもあたし……その人でないと……」
「そうなのか……」
「…… ごめんなさい」
「いや……俺もごめん。自分の気持ちにばかり、目がいってた。島谷さんの気持ちも考えずに突っ走って。恥ずかしいよ……」
自嘲しているような新谷さんの顔。あたしはペコッとお辞儀して、新谷さんに背を向けた。
すぐに駆け足になって、泣きながら闇雲に走った。人にぶつからないように気を付けて。でも、視界は涙でぼやけてる。
マスターのお店に行きたい! こんな状態のまま、一人で部屋に帰りたくない。帰っても一人なんてやだ……。
あたしは勘で走り回って、気が付くと、左腕の時計は10時を回っていた。
周囲を見ると、知ってる景色だった。そして、すぐに見付かったマスターさんのお店。
あたしは顔を拭くのも忘れてバーの扉を開けた。
**********
いきなり入って来たあたしの顔を見て、マスターは驚いていたけど、すぐにカウンターの奥に引っ込むと、蒸した熱いタオルを差し出してくれた。
「これを使って。綺麗な顔が台無しだよ。そのままだと目が腫れて、明日が辛くなるよ」
「そ、そんなにひどい顔してますか?」
自分では分からないけど……。マスターは苦笑いで答えてくれた。
「それはそれで可愛いけどね。化粧も落ちてしまうが、もう今日は誰かと会うこともないだろう?」
か、可愛いって……。言葉の内容はともかく、あたしはマスターに感謝してスツールに腰掛け、蒸しタオルを受け取った。
程よい熱さのタオルが目に心地いい。店内に流れている軽快な音楽も、耳にうるさくなくて、逆に気持ちを落ち着けてくれる。
グチャグチャな顔で来ちゃったのに、マスターは何も訊かずに、しばらくの間あたしを一人にしてくれた。
ふと下を見ると、カウンターにショットグラスが置かれていた。マスター、いつのまに……。
あたしの好きなウォッカだと思うけど、ちょっと琥珀っぽい色がついている。多分ズブロッカね。
冷めてしまったタオルをたたんで置いて、あたしはショットグラスをくいっと呷った。
葦の独特のくさみのある香りが鼻孔に広がって、ウォッカの強めのアルコールが喉をキュッと通過する。ストリチナヤのような甘さはあまりないけど、今日みたいな嫌なことがあった時には、こういう味が凄くいい。
…… 嫌なこと? ……あたしにとって嫌なことって?
キスされたのが、嫌なことだったのかな……。うん、それもあると思う。でも、それだけじゃないような気がする。
告白されたこと? ……でもないみたい。じゃあ何だろう?
……あ、そうか。新谷さんが篠宮さんのことを『ボンボン』て言ったから。篠宮さんは、本当はそういう人じゃないのに……多分って付くけど。
でも、その認識を訂正してもらうようにお願いすることなんて出来ない。だって……篠宮さんが会社の会長さんだってことは、内緒なんでしょ? パンフレットにも載ってないし、先輩社員も知らないなら、あたしが言っていいことじゃないもん!
それに、あたしがどうして会長さんを、篠宮さんを知ってるのかも話さなきゃいけなくなる……。
それはやっぱりしたくない。
「はあ……」
空になったショットグラスを見ていたら、そこにズブロッカが注がれた。
「今日はどうしたんだい? あんな顔で」
「マスター……」
会社に行くようになってからは、忙しくて来れなかったけど、去年篠宮さんに連れてきてもらってから、2回だけここに一人で飲みに来た。その時に、カウンターに座ってマスターと話していたからか、今はマスターから敬語が消えて、親しみやすい口調で話してくれる。
言おうか言わないでおくか悩んだけど、今日のことが、このままあたしの中だけで処理出来ると思えなかった。
「あのね……今日会社の人から告白されて、その時にキスされたんです」
マスターは、ちょっと驚いたように目を見開いて、それからフッと微笑んだ。
「ショックだったのかい?」
コクンと頭を下げたら、頭にポンポンと手を乗せられた。その手の温かさに、また涙がポロッと出てしまった。
「初めてだったの?」
ポロポロ落ちる涙を拭きながら、首を横に振った。
「篠宮さんが……」
ファーストキスの相手は篠宮さんってことを言おうとしたけど、涙声で上手く伝わったかな……。
そうしたら、マスターは何故かホッとしたような声で言った。
「そうか……まぁ告白されたことはともかく、キスされたことは、愁介には黙っていた方がいいよ」
「言えません……でも、あたしじゃ、絶対なにかあったって分かっちゃいますよ……」
「まあそうだろうけどね」
苦笑で言うことじゃないです、マスター。
でも、ちょっとだけ気持ちが楽になった。マスターは絶対、篠宮さんには言わないでくれるだろうから、安心……かな?