Act.4 これって試練ですか?...9

 綺麗になった湯船に、お湯がドドドッて音を立てて溜まっていく。
 鏡が湯気で曇らない内に、髪をアップにして濡れないように準備。
 でも、まだ涙が止まらないんだよねぇ?
 泣いてる自分の顔を鏡で見るなんて、ちょっと情けないけど、その内に湯気で見えなくなった。
 お湯が七分目くらいに溜まったところで蛇口を閉めた。あんまり一杯にしちゃうと、入った時に溢れちゃって、後始末が大変だから。
 服を脱いで、いざ!
「あちっ、あつっ」
 熱めのお風呂が好きだけど、ちょっと熱過ぎたみたい。お湯に漬かろうとすると、爪先が痛い。
 水で少し薄めた。
「ふうー、はあ気持ちいい〜」
 お湯の中で伸びをした。家のお風呂みたいに手足を伸ばせる訳じゃないけど、それでも毎日シャワーで済ませてるから、気持ちがいい。極楽……とまではいかないけどね。
 お湯を少なめにしてるから、胸までしか漬かれないのが残念かな。首筋までお湯に漬かるのが好きだから。
 パシャン……
 意味もないのに、手を出し入れしてみる。
 何となく、今日の会社でのことが思い出された。
「何かなぁ……篁さん、なんであんなにあたしに構うんだろ? 社長さんとしてのお仕事、忙しいはずなのに。篠宮さんみたい」
 ドイツ語のメール翻訳は、今日の午後からやらなくていいって言われた。考えてみれば、篁さんはドイツ語出来るんだから、あたしがやる必要ないんだよね。
 忙しい時に清水さんが翻訳してたのは本当だったけど。国際管理部から戻ってきた後で、清水さんがそう教えてくれた。
 あたしのドイツ語が実践で使えるかどうか、試したんだって。
「社長はご存じだったけど、私は実践で知りたかったから……ごめんなさいね」
 あたしはド新人だし、他に出来ることもないから別に気にしてないのに、律儀に謝られてしまった。清水さんて、いい人なんだ。
 でも、明日から気が重いな……。

 
 

 国際管理部の人たちは、みんないい人たちだった。
 篁さんが行くと、みんな血相を変えて出迎えた。何かマズいことをしたんじゃないか……っていう顔で篁さんを見ていたけど、篁さんが笑いながら、
「昨日の件は白紙撤回されました。そう緊張しないで下さい。今日はあなた方の強力な助っ人をご紹介しに来ました」
 そんな風に言うもんだから、あたしはビックリして。うつむいちゃいけないって言われてるから、頑張って前見ていたけど、社員の人たちが期待に満ちた目をあたしに向けて来るから、もう冷や汗ダラダラだった。
 大体助っ人ってどういう意味かと思っていたら、ここの人たち英語はほぼ完璧に出来るけど、ドイツ語はカタコトで出来る人が二人だけで、ドイツ側との交渉はその人たちがやってたんだって。ギリギリのところでは、篁さんがフォローしてたって言ってたけど、殆どは社員だけでやらなきゃいけなくて、随分大変だったんだって。
 で、あたしが入ることが決まって、そのドイツ語が出来る人が一人、別のプロジェクトに回ることになって。
 山場は越えたから、少し人員を減らすんだとか。
 清水さんがメールの翻訳で実践力を試したかったのは、そういう訳だったのね。
 まだ完全にドイツ支社が稼動した訳じゃないけど、複数のプロジェクトを抱えてる人は結構いるみたい。会社も社長も凄いけど、社員もみんな凄いんだ。
 おまけに、篁さんが必ずフォローしてくれるから、みんな頑張れるんだって。
 そんな話をした後で、チームの人たちを紹介された。
 部長さんは50代の厳しそうなオジサンだけど、話すと凄く優しい感じがした。でも、篁さんもあんなに優しそうでかなり鬼だから、実体は分からないけど……。
 課長さんは、なんと30代後半だって。見た目は篁さんと同じくらいかな。スポーツマンみたいなおっきな体で、お父さんみないな人だった。
 その他に5人の人を紹介されて、最後にあたしが自己紹介して……。
 そうしたら篁さんが、「では私は仕事があるので戻ります」って言うから、やっと解放されるって喜んでいたら、あたしは残るように言われた。
「今日から島谷さんもチームの一員です。早く慣れた方がいいでしょう」
 なんて、思いっ切り笑顔で言って、さっさと帰っていっちゃった。だから鬼なのよ!
 取り残されたあたしを、国際管理部の人たちは温かく迎えてくれたけど、明日からは一人でそこに行って手伝わないといけない。
 もう……なんかもう、明日台風が来て電車が止まるとか、腹痛になって休むとか出来たらいいのに……なんて、不謹慎なことを考えてしまう。
 みんな優しくあたしに接してくれたけど……。
「ふう……なんかなぁ、働くってみんなこんな感じなの? テレビで見るOLさんとかって、凄くやりがいがあって仕事を楽しんでいる、なんて言ってる人が多かったけど……。仕事するって大変だなぁ。こんな風に思うの、あたしだけ?」
 言ったところで誰かが答えてくれる訳でもないけど、つい口に出しちゃった。
 でも、それよりも何よりも! 篁さんの前で下向いちゃいけないっていうのがもう……!
 はあ…… どんどん落ち込んじゃうから、家にいる時は、なるべく考えないようにしよう。

 
 

 あんまり入っているとのぼせちゃうから、湯船の栓を抜いた。ゴボゴボ音を立てて吸い込まれて行くお湯。本当は長風呂が好きなんだけど、のぼせやすいのよね、あたし。
 バイバイお湯。今日は洗濯する日じゃないのよ。
 お湯が完全に抜けてから、シャワーを浴びて頭と体を洗って、部屋を出た。
 パジャマに着替えて、タオルで髪の毛を拭いていると、目に付いた携帯電話。着信を知らせるライトが点滅してる。
 開けて見ると、着信履歴にズラッと並ぶのは、篠宮さんの名前。
 そういえば、さっき話の途中で切ったんだよね。あたしが聞いてちゃ、まずいだろうなって思ったから。
 こっちから掛けるにはお金がいくらあっても足りないだろうし、あたしはもうあれで言いたいことは言えたし。
「あっ」
 篠宮さんの履歴に混じって、加奈子のもあった。
 さっきのメールのことだよね。いつもはメールで返してくるのに、珍しい。留守電入ってるみたい。
 加奈子のを再生しようと思っていたのに、指が滑って先に入ってた篠宮さんのを押してしまった。
『響子! 話がある。時間見付けて電話してんだ、次に掛けた時は出ろよ。愁介様お早く。ちっ、いいな! 出ろよ』
 出たくありません……。なんでそんなにあたしに構うんですか? もう、泣きたくなってきた。
 出たくないけど、このまま出なかったら、後が怖いかも……。
 と、とりあえず、加奈子に電話しよう。
 電話帳なんか開かなくても、そらで打ち込める加奈子の携帯番号。2コール鳴っただけで加奈子が出た。
「あ、加奈子?」
『響子! あのメールはなに!?』
 開口一番、加奈子に怒られてしまった。
「なにって、書いた通りだよ。だって、会長なんてやる凄い人とデートなんて、あたしが出来る訳ないじゃない」
『バカ! そんなの関係ないわよ! 篠宮さんは篠宮さんでしょ!』
「でも……」
『でもじゃないの!』
 加奈子はそう怒鳴ってからしばらく黙った。
『響子はさ、篠宮さんが好きじゃないの?』
「好きって……そんなの分からないもん」
『嫌いじゃないでしょ?』
「…… 意地悪なところはやだ」
『プッ』
「な、なによぉ」
『そんな言い方じゃ、好きって言ってるようなもんじゃない』
「だから……嫌いじゃないけど、どうなのかはよく分らないの」
『今日、篠宮さんと電話で話してどうだったの?』
「どうって?」
『嬉しかったとか、話すの嫌だったとか』
「…………」
『ふぅーん』
「な、なによぉ」
『黙るってことは、さては電話でも声が聞けて、嬉しかったんじゃないの?』
「ちち、違うもん!」
『はいはい』
「真面目に聞いてよ! だって会長さんだよ? 庶民のあたしと釣り合う訳ないじゃない!」
『そりゃあね、響子が一方的に篠宮さんにいれ上げていたら、あたしも止めるけど、逆じゃない。篠宮さんの方からアプローチされてるんだから、受けなさいよ』
「で、でも……あたしなんかが篠宮さんに」
『あ〜あ、また出てきちゃったね』
「な、なに?」
『最近はなかったのに、響子の口癖』
「え……」
『気付いてなかったの? また、あたしなんかって言ったんだよ』
「…………」
『ねぇ、明日時間ある?』
「え? 明日も会社だよ?」
『そっか……うーん』
 加奈子が珍しく言いよどんだ。なんだろ?
「なあに?」
『うーん、まぁその内言うことになるんだから、一緒だよね』
「な、なにが?」
『響子、怒らないで聞いてね?』
 い、いきなりそんなことを言われても……。
「……なに?」
『まぁいいから、聞いてよ。あのさ、あたしと里佳ね。前に篠宮さんのこと調べたことがあるの』
 そんなの初耳! っていうか、いつ!?
「ど、どうやって!?」
『簡単だよ。ネットで篠宮さんの名前を検索したの。その時にさ、篠宮さんが篠宮グループの会長っていうの、知ったんだ』
「…………」
 なんていうか、単純にショックだった。どうして二人だけで?
「なんで、教えてくれなかったの? そうしたら」
『篠宮さんとは縁切ってた?』
「……当然じゃない……」
『でもね、その後で、あたしと里佳は篠宮さんに呼び出されたの』
 そういえば、篠宮さんそんなこと去年マスターのお店に行った時に言ってた。
『その時にね、自分のことはいずれ響子に話すから、秘密にしておけって命令されたの』
「め!? いれい?」
『そ、だからあたしも里佳も言えなかったのよ。ゴメンね』
 携帯から聞こえてくる加奈子の声は、本当に申し訳なさそうで……あたしにはもう何も言えなかった。
『響子? あの、ごめんね。怒ってる?』
 不安そうな加奈子の声。あたしは今まで疑問だったことを聞いた。
「ねぇ、加奈子も里佳も、あたしに色々言ってたじゃない? 篠宮さんとのこと。付き合わせようとしたり。それって、そのことと関係あるの?」
『ううん。篠宮さんから言われたのは、身分を秘密にすることだけだよ。たださ、せっかく好意を持たれているし、響子の性格じゃ、自分からは難しいでしょ。いいな…って思っても、眺めてるだけで満足しちゃうじゃない。こんなチャンスは滅多にないもの。だから、ちょっとわざとらしかったかもしれないけど、響子の気持ちが篠宮さんに向くといいなって思ったの』
「…………」
『ごめんネ』
 申し訳なさそうな加奈子の声。きっと携帯の向こうで、あたしに向かって手を合わせてるんだろうな。お互いに、ちょっとケンカとかしちゃった後で、謝る時みたいに……。
 加奈子は加奈子で、あたしのことを考えてくれてたんだよね。
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