Act.1 お願い、悪い夢だと言って!...12

 昼間乗ったランボルギーニとかいうのとは、明らかに違う。妙に内装が豪華で、一度だけお客様のお供で乗ったリムジンのようだわ。
「どうしたのよ? この車」
「さっき『椿』でブランデー飲んだだろうが。飲酒運転になっちまう」
「…………」
「なんだ? 驚くようなことか?」
「つうか、あんたなら捕まるなんて、あり得ないんじゃないの?」
 東海林グループの会長が、どんだけの権力を持っているのか知らないけど、世間様に黒を白と言っちゃってまかり通るくらいしてるかと思った。特にこいつの場合。
 正直にそう言ったら、不本意そうに返されたよ。
「お前は、俺を何だと思ってるんだ?」
「だって、そのくらいの権力はありそうじゃん」
「まぁ、あると言えばあるがな。だからって、ゴシップ好きの連中を喜ばすようなことを、進んでやる訳ねぇだろ」
 言われてみれば、確かにそうよね。こいつなら特に!
 そういえば、送るって言われたけど、あたしアパートの場所教えてないよ。まさか、ホテルにまた戻るとか? そんなの嫌だ。
「新宿方面に行って」
「なに?」
「あたしのアパートがそっちにあるの。もう家に帰りたいから、新宿方面に行って」
「知ってる。初台だろ」
「は!?」
 なんでこいつが、そんなこと知ってんのよ!? まさか、たった2時間程度で調べたとか!?
 信じられない思いで隆広を見たら、ニヤッと笑われた。
「もう忘れたのか? 履歴書は俺が持ってんだぞ。そこに書いてあるだろうが」
「あっ!」
 くそぉ、騙されるところだった! あんな短時間で調べられるなんて、こいつの権限は本当に凄いんだ、なんて思っちゃうところだったよ!
「くっくっくっ、そういう抜けたところも、お前はいいぜ」
 どういう意味よ!?
 笑われたのが悔しくて、ぷいっと窓の外を見た。夜の銀座もネオンは結構派手。でも、歌舞伎町の方がやっぱりちょっと下品かな。外は明るい銀座の風景とは変わって、灯りの無いビルが多くなった。銀座を抜けると、深夜の都心てこんなもんよね。
 あたしが見つめる窓には、隣に座る隆広の顔が映り込んでいる。何という訳でもなく、その顔を見た。
 口は悪いし、手は早いし、デリカシーはないし。でも、こうしている分には、まともなイケメンだ。三つ揃いのスーツなんか着ていると、そこらの30歳の男なんか太刀打ち出来そうにないほど、威圧感がある。
 お店のフロアには大企業の社長さんも来ていたのに、そんな人までもが、VIPルームに向かうこいつに圧倒されていたもんね。伊達に東海林グループの会長なんか、やってないってことか。
 でも、だったらどうして、あたしなんかに構うのさ?
 30分も経たずに、あたしのアパートの前で車が停まった。こんなことなら、どんな条件付けられても履歴書返してもらうんだった。
「送ってくれてありがと。でも、これでもう本当にあたしの前に、現れないでよ」
 言い捨てるようにしてドアのロックに手を掛けたところで、勝手にドアが開いた。自動ドアかと思っちゃうくらい、タイミングはバッチリだった。
 外で吉永里久が、あたしを見下ろして立っている。いつの間に降りていたのよ?
 とりあえずお礼を言って車を降りると、何故か隆広も付いてきた。
「ちょっと、なによ?」
「部屋まで送る」
「はあ!? 必要ないって」
「話があるんだよ。ここで待ってろ」
「…………」
 吉永里久も、黙って会釈なんてしてんじゃないわよ! 全くもう、秘書のくせに何だか隆広と同類に見えてきた。
「話ならここで十分でしょ」
「お前の部屋を見てぇんだよ。さっさと案内しろ」
 くそぉ、どこまでも俺様め!!
 本当にこんな奴を部屋に入れたくないけど、このまま外で立っていたら、確実に風邪を引いちゃう。仕方なく、こいつを伴って3階の角部屋まで来た。
 家賃8万円の1DK賃貸アパートなんて、東海林グループ会長が来る場所じゃないよ。
 開錠して玄関に入ると、少し寒さが和らいだ。用心のために、玄関の灯りはいつも点けている。でも、ホッとする間もなくガッチリ肩を掴まれて、鉄製のドアに背中を押し付けられた。
「ちょっと、なにすんのよ!?」
「そりゃお前、一人暮らしの女の部屋に招き入れられたら、やることは一つだろう」
「なっ!? あんたが話しがあるってんぅ」
 こういう展開ってあり!? 抗議の言葉は、こいつの唇に遮られた。絶対、絶対舌を入れられるもんか!!
 目を瞑って口を引き結んでいたら、強引なキスはされずに、ゆっくりはむように優しく口付けされた。それが凄く意外で、本当に優しくて、張り詰めていた気が緩んでいってしまう。
 自然に開いた唇を割って、隆広の舌が入ってきた。あたしも舌を出すと、ゆっくりと絡み合う。こいつとディープキスをするのは、今日でもう4回目。でも一番優しくて、深いディープキスだった。
 優しい舌遣いに、こいつに反抗していた気持ちが和らいでしまう。スーツの上からも分かるくらい逞しい肩に両手を置くと、彼の両腕が背中に回って抱きしめられた。
 今日の仕事は本当に針のムシロだった。アパートに帰ってきても、慰めてくれる人はいない。就活を始めてから彼氏とは別れた。もし別れていなかったら、昨日はあんなに泥酔することはなかったのかも。
 あたし、ずっと誰かに慰めてほしかったんだ。それがこいつなんて……なんだか嫌だ。
 そう思った途端、キスしている自分が許せなくなって、隆広の胸を押した。あっさりと唇は解放されたけど、背中に回った腕はそのままだった。お互いの息が感じるほどの距離で見詰め合う。
「一つ言っておく」
「な、なによ?」
 こんな至近距離で見詰め合っても、全く気にもならなかったのに、自分の発した声が上ずっているのを知って、急に恥ずかしくなった。こいつとキスして欲情したなんて、知られたくない。
「あの『椿』のママには、気を許すなよ」
「は? なに言ってんの?」
「お前が考えてるよりずっと、強かな女だぜ、あれは」
 最初は何を言われているのか分からなかった。それが、あたしの中のママを貶める言葉だと理解して、本気でムカついた。
「やめてよ! ママはいい人よ! ママのこと、何も知らないくせに!」
「お前は知ってるのか?」
「し、知ってるもん! ママはいつもあたしのことを考えてくれてる、優しい人なんだから!」
 あたしの中のママを汚されたせいで、ムカついてそう叫んだけど、ママのプライベートまでは知らなかったことを、今、気が付いた。
「まさか、あんたと出来てるとか?」
「冗談言うな。あんな女と誰が寝るか!」
「ね、寝るって……ママのこと汚さないで!! あんただってママのこと、知らないんじゃない。変なこと言ってないで、さっさと離して!」
 ただでさえ距離が近いのに、こいつは更に顔を近付けて来た。思わず目を瞑る。不意打ちで耳たぶを舐められた。
「やだ、やめって……ひゃっ」
 濡れた舌が耳たぶをしゃぶるように舐めてる。やだ、背筋がゾクゾクしちゃう。
「イヤリング、付けさせるのを忘れていたな」
「やっ、やめて……お願っ」
「ふん、お前の弱点は耳か」
 こいつが声を出す度に、吐息が耳孔に入ってくる。やだっ、これ以上やられたら、骨抜きにされちゃう。本当に、耳はヤバイんだって。
「お、お願い、も、やめてっ!」
 自分でも喘いでいるとしか思えないような声で、身を捩りながら訴えた。ドレスのスリットの間から、大きな手が内腿を撫でる。
「昼間言ったことは、冗談なんかじゃねぇぞ」
 ひ、昼間? なに? やっ! そんな、音を立てて耳を舐めないでよ!
「咲弥子、俺はお前がほしい。忘れるなよ」
 最後にフッと息を吹き掛けられて、体から力が抜けた。慌てて隆広の肩にしがみつく。足がガクガクで、自分で立つことが出来なかった。
「こんなの、最低……」
「そうか? あんなにいい声を出しておいて、言うセリフかよ」
「…………」
 悔しいけど、反論出来ない。こいつ相手は嫌だと思っていたのに、慰めてほしいと思ってしまった。あたし、こんなに弱い人間だったんだ。
「ふっ……えっ……」
 嗚咽が漏れちゃったところに、顎を下からすくい上げられるようにして、上向かされた。涙でぼやける視界に、こいつのやけに真剣な顔があたしを覗き込んでいた。
「なによぉ」
「可愛いぜ、咲弥子」
「あんたなんかに言われたって、嬉しくない! 出てけ!」
 泣きながら訴えたら、体から隆広の温もりが消えて、ゆっくりと玄関にぺたんと座らされた。
 静まり返った部屋に、あたしのすすり泣く声だけが響く。いつの間にか、隆広はいなくなっていた。舐められた耳を手で押さえた。まだ、あの感触が残っている。吹き掛けられた息と、あいつの声。
「忘れるなって……こんなの、忘れられるわけ、ないじゃない」
 最後の最後で、こんなの残していくなんて。ほんと、最低!
 誰か、お願いだから……こんなの悪い夢だって言ってよ。
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