Act.8  乗り越えるべきこと ...7

 その日の内に、お母さんとお父さんに引っ越ししたことを伝えた。
 お母さんは「まぁまぁ、家政婦さん付きなんて、まるでお妃教育ね」なんて、にこやかに言ってた。電話で話しただけだから表情までは分からないけど、声がウキウキしてるのはよく分かった。
 お父さんは「無理をせずに、ダメだと思ったら帰って来い」なんて言ってくれて。……まぁ、それから何度も「帰りたい」って思ったことはあったんだけど、何とか逃げずにいる。
 あたしにとっての新しい生活は、とにかく大変だった。
 先ず、会社とか大学に行くのに必ず車で送り迎えされて、それがクリスさんだったり。
 毎週金曜日の夜は、有名ブランドのエステを受けさせられて、しかもそれが毎回違うブランドだったり。
 出勤や通学に限らず出掛ける時は、どんなに朝が早くてもマンションに美容師さんが来て、髪をセットしてメイクまでしてくれたり。
 お陰で、さすがのあたしでも認めなくちゃいけないくらい、どんどこ綺麗になっていって。でも、こうしてやってもらえるから碧さんよりも綺麗って思えるけど、自分でやったら絶対そうは思えない!
 そして極めつけが雪絵さん。……基本的には優しい人だし家の中のことは何でも出来る人で、家政婦さんとしてはエキスパートなんだろうけど、細かいところで結構厳しい。
 例えば、外から帰ってきて玄関のクローゼットに自分でコートを掛けようとしたら、「愁介様の奥様になる方が、そのような些事を自分でやってはいけません」とか。
 ちょっとお腹空いたなぁと思って簡単なご飯を作ろうとしたら、「愁介様の奥様になる方が、お勝手仕事を自分でやってはいけません」とか。
 朝、目覚まし時計を掛けておいて自分で起きてシャワーを浴びようとしたら、「愁介様の奥様になる方が、目覚まし時計で起きてはいけません」とか。
 ええええ!? と思うことがいっぱいあって、さすがにそこまで管理されるのはちょっと……と思った。
「朝くらいは自分で起きますから、雪絵さんは他のお仕事していていいですよ」
 なんて言ったら、別のことで叱られちゃうし。
「わたくしのことは呼び捨てにして下さいと、何度も申しました! 何故そのような簡単なことが実践出来ないのですか!」
「でも、あたしより年上の方を呼び捨てにするなんて……」
「愁介様の奥様になる方が、一家政婦を呼び捨てに出来なくてどうします!」
 あたしはもう絶句。また呼び捨てにしなきゃいけない人が増えちゃった。愁介、クリス、レオン、マギー、雪絵、愁介、クリス、レオン、マギー、雪絵…… はぁ、一人でいる時に口に出して練習してはいるけど、いざ本人を目の前にするとどもっちゃう。みんなは時間を掛けて慣れればいいって言ってくれてるけど、雪絵さんだけは容赦なく叱ってくる。
「それから何度も申しておりますが、わたくし共はご主人様にお仕えしてこその存在です。ご自分で何でもする生活は改めて頂きませんと、愁介様が恥をかくことになります」
 なんて言われちゃうと、何も言えなくなっちゃうのよね。それが雪絵さんのお仕事だって分かっているけど……仕えてもらうのが当たり前なんて、そんなことはとても受け入れられない。
 どうしたらいいのか悩んで、会社に行った時に碧さんに相談してみた。

 
 

「相変わらず、響子さんは真面目に考え過ぎるのね」
 苦笑いでそう言ってから、「マーガレット・フォスターに相談してみたら?」ってアドバイスされた。
「生まれた時からお嬢様として傅かれていた彼女なら、何か指針になるようなことを言ってくれるかもよ。私も人に傅かれたことなんてないから、正直どう対処していいかは分からないの」
 申し訳なさそうにそう言われて、碧さんにも分からないことがあるんだって分かって、ちょっと安心したところもあった。
 月曜と水曜の夜にある英語レッスンの内、月曜日がマギーさんの授業。クリスさんは何ともおぼつかない英語で、この人本当にアメリカ人なのかな? なんて思うこともしばしば。レオンさんはそういうところを容赦なくビシバシ指摘してくるのに、マギーさんは大笑いしてからかってる。アメとムチじゃなくて、ムチとムチって感じでこの時ばかりはクリスさんが気の毒になっちゃう。
 ある時、マギーさんのレッスンが終わってから、雪絵さんのことを相談してみた。最初、あたしの訴えることがよく伝わってなかったみたいだけど、一生懸命説明していたら「ああ、そういうことか」って分かってくれた。
「別に、仕えてもらうのが当たり前、なんて思わなくてもいいんじゃないか? あたしだって、メイドはあたしに仕えるべきだ、なんて思ったことはないぜ。メイドにはメイドの仕事があるんだ。それを響子様がきちんと把握して、メイドのすること、響子様がすること、って互いにテリトリーを線引きすれば済むことだろ」
 そう言ってはくれたけど、雪絵さんにそれを伝えるのは至難の業なんじゃないかって思った。だって雪絵さんは、あたしが言うことすることに、いちいち目くじら立ててくるんだもん。
「それは、響子様が雪絵って奴を信用してないってことだろ」
「え……」
 マギーさんのその言葉は、石で頭を殴られたみたいなショックだった。
「そ、ですか?」
「あたしにはそう思えるな。雪絵って奴がどんな奴かは知らねぇけど、少なくとも愁介様が傍に置いてたなら悪い奴じゃないぜ。まぁ、話からすると頑固な奴とは思うけどな」
 頑固……そういえば研修が始まった頃、あたしも篁さんから頑固だって言われたことがあったっけ。それを言ったら、マギーさんは「だろうな」って笑った。
「頑固者同士が睨み合ってちゃ、火花散らすのは当然だろ。今度試しに、とことん引いて相手してみたらいいぜ」
 その日、マンションに帰ってからマギーさんに教えてもらった通り、雪絵さんから言われたことを何でも「はい、はい」って受けてみることにした。たまにムカッと来ることもあったけど、その日はいつもみたいに険悪な雰囲気にはならずに、雪絵さんからもいつもの「愁介様の奥様になる方が……」って決まり文句は出て来なかった。
 今日なら、マギーさんが言ってた「仕事のテリトリーを決める」って出来るかもしれない。
 夜のご飯を食べ終えてテーブルでお茶を飲んでいると、ダイニングルームの片隅に雪絵さんが立っているから、あたしの前に座ってもらうように頼んだ。雪絵さんは何だか青褪めた顔で傍に寄って来るから、何事かと思っちゃった。
「え……雪絵っどうしたの?」
 ついつい『さん』て付けそうになって、慌てて名前で止めた。すると、雪絵さんは恐縮したように身体を縮めて言った。
「わ、わたくしがなにか至らぬことをしてしまいましたかと……」
 いつもあたしに「愁介様の奥様になる方が云々」って叱ってくる雪絵さんが、こんな風になっちゃうなんて初めて見た。ビックリした。
「え、でも、いつもはあたしをビシバシ叱ってるじゃないですか?」
「あれは、愁介様から響子様の教育を任されております故、心を鬼にして言っているのでございます」
 えっと……お母さんの言う「お妃教育」ってやつ? 何だかすごい大げさ。思わず笑っちゃった。
「そんなに大げさなに考えなくてもいいんじゃないですか?」
「いいえ! それでは響子様と愁介様が恥をかかれることになります。それはこの雪絵、我慢がなりません」
 えっと……そんなにムキになってまで、あたしの「教育」ってしなきゃいけないの?
「でも、し、愁介だって言葉遣いとか結構ガサツじゃないですか?」
「それは響子様の前だからです」
 えっと……そうなの? そういえば、総帥としてお仕事してる篠宮さんて、見たことがないかも。
「あの、ちょっと聞きたいことがあるから、ここに座ってくれますか?」
 いつまでもこのままじゃ埒が明かないから、あたしの前の席を指差したのに、雪絵さんは蒼い顔で首を振るだけ。
「わたくしはこのままで。響子様には、上に立つ者の常識をわきまえて頂きませんと」
「え……でも」
「いけません」
 もしかして篠宮さんと結婚したら、雪絵さんみたいな人たちに囲まれて生活することになるの? 篠宮さんが言ってた「人に傅かれることに慣れておけ」ってそういうことなの? あたしには無理のような気がする……。
 雪絵さんは何回お願いしても座ってくれないから、仕方なくそのまま話すことにした。
「えと……雪絵っ」
 もう、つい『さん』て付けたくなる。慣れなきゃいけないとはいえ、ストレスが溜まりそう。
「毎日あたしのこと、色々してくれるでしょう? その中で、あたしにも出来ることって何かないですか?」
「ありません」
 うう……取り付くしまもないってこういうこと?
「響子様はそこにいらっしゃるだけでよろしいのです。日常の些末なことに、煩わされる必要はございません」
「いるだけって……それじゃあ、あたしは何もするなってこと?」
 考えてみたら、雪絵さんとこんな風に長く話すのは初めてのことだわ。あたしやっぱり、マギーさんの言う通り雪絵さんのことを信用してなかったのかな……。
 雪絵さんは困ったような顔をして言った。
「響子様には響子様の、やらなければならないことがありますでしょう?」
「え……な、なに?」
「愁介様の奥様になるお方として、常に美しくいることです。貧相なお顔やお体をされていては、愁介様が恥をかかれます」
 またその言葉かぁ……。なんかがっかり。
「美しくいることが、そんなにお嫌ですか?」
「嫌っていうか……雪絵っにばかり色んなことをされちゃったら、あたしのやることがなくなっちゃうなって思って……」
「響子様は、愁介様の奥様になるというのがどういうことか、お分かりになっていらっしゃらないのです」
 そんな風に言われて、ちょっとムッとした。
「どういうことですか?」
「愁介様の奥様ということは、常に愁介様のお傍にいるということです。それは、愁介様と共に様々な人々から常に見られるということなのですよ」
 そう言われても、ピンと来ない。眉をひそめて首を傾げていたら、雪絵さんが続けた。
「響子様はテレビでニュースを見られますね?」
「そりゃあ、まぁ」
「ある国の国王王妃両陛下が来日されたとします。それをテレビで放送されている場面を想像してみて下さい」
「はぁ……」
 言われた通りに想像してみる。これが何だろう?
「空港で到着した両陛下は、タラップからお姿を現します。テレビカメラはその様子を余すところ無く映し撮ります」
「はい、はい」
 それなら分かる。そういうところはニュースでもやるもの。
「国王陛下は常に笑顔で手を振っております」
「そうですね」
「では、王妃陛下はいかがです?」
「え!?」
 うーんうーん…… 思い出してみる。
「一緒に手を振ってます。笑顔で」
「そうですね。では、その王妃が一瞬ですが、表情を曇らせたら、どう思いますか?」
「はい!? そんなこと、ありましたっけ?」
 今まで色んな国の偉い人たちが来日した場面をテレビニュースで見たことがあるけど、そんなシーンは見たことないと思う。
「例えば、の話です。それにたとえあったとしても、テレビでは放送されません。ですから想像してみて下さい」
「……うーん、体の具合が悪いのかな、って思うかもしれません」
「日本が気に入らないと思われている、とはお思いになりませんか?」
「あ……そうですね。もしつまらなそうな顔をしていたら、そう思うかもしれません」
 その指摘にポンと手を打って言ったら、雪絵さんはコクッとうなずいた。
「響子様が愁介様のお傍にいて、もしそのような振る舞いをされた時は、見ている方々はそう思われるのです」
「……え」
 雪絵さんの言葉は、あたしにとってショックだった。そんなこと、考えたこともなかったから。
「響子様は愁介様の奥様として、常に他人から見られる立場にあるのです。そのような方が、他の些事に気を取られることがあってはならないのですよ。常に美しく、というのはそういうことです。分かりますか?」
「……あ…… はい。でも……あたしが?」
「その指輪は、ただの飾りではないと雪絵はお見受けしております。3年という猶予は、愁介様の優しさでございましょう。庶民の女性が上流階級に嫁がれることはよくありますが、大抵の場合は大した準備期間もなくこの世界に入られてご苦労なさいます。響子様はとても恵まれておいでなのです。それを噛みしめて、日々お過ごしになって下さいませ」
 そう言って雪絵さんは深々と頭を下げて、また壁に寄って行っちゃった。
 なんか、寂しいなぁ。もっとこう……何でも話せて何でも気軽に教えてもらって、あたしにも至らない所はあるから、たまに叱られるかもしれないけど、もっと楽しく過ごせると思っていたのに。
 それに、いつでも他人の目を気にしていなきゃいけないなんて……。篠宮さんて、ずっとそういう生活をしてきたの? マギーさんもそうだったのかな……。
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