Act.8  乗り越えるべきこと ...8

「なんか凄いねぇ。正にお妃教育って感じ」
 3月になってもう大学も卒業間近。久しぶりに大学で会った加奈子と里佳に、あたしは今の生活を伝えたら、加奈子が溜め息をつきながら言った。
「なんかもう息が詰まりそうで。会社で伊藤さんとゴチャゴチャやってる方がまだマシだよ。もう、グレたくなる」
「グレるって……響子がグレたら……プフッ」
 何を想像したのか加奈子が吹き出した。里佳もクスクス笑ってるし。
「笑い事じゃないよ。本気であのマンション出たくなっちゃった」
「お父さんは戻ってきてもいいって言ってくれてるんでしょ? ちょっと息抜きに2泊くらいしてくればいいじゃない」
「うん……でも、雪絵さんが許してくれないと思う」
 絶対、愁介様の奥様になる方が逃げ出すなど云々って、言ってくるよ。想像するだけでげんなりする。カフェテリアのテーブルに突っ伏したら、里佳が大胆なことを言った。
「家出したら?」
「え?」
「それいい考え! このままマンションに戻らずにさ、あたしのアパートに来る? 久しぶりにお菓子パーティやろうよ。スナック菓子買ってきてさ、楽しくパーッと!」
 加奈子がはしゃぐように言う。それには魅力を感じたけど……。
「ダメだよ。そんなことをしたら、雪絵さんの加奈子と里佳の印象が悪くなっちゃう。あたし、そんなの嫌だもん。二人とはずっと親友でいたい」
「……響子は我慢のし過ぎじゃない? こういう時こそ篠宮さんに会いに行くとか、何だっけ……師匠さん? のいるバーに行くとか。ストレスが溜まり過ぎてるんだよ、発散しないと疲れちゃうよ?」
 里佳の言葉が優しい。もう十分に疲れてるけど、あと3年しかないし……。
「まだ3年もあるって思わなきゃ」
「うん……」
 はぁ……泣きたい。目に涙が潤んできて、慌てて指で拭いてたら、「あっ」っていう加奈子と里佳の声が聞こえた。
「? どしたの?」
 頭を上げようとして、ポスッと誰かの手があたしの頭に乗せられた。この手の感触……まさか。
「愁介?」
「ふん、よく分かったな」
 すぐに手がどけられて慌てて顔を上げて振り向いたら、いつもとは違うラフな格好をした篠宮さんが立っていた。加奈子と里佳はポカンと口を開けて篠宮さんを見上げてる。
 よく周りを見ると、カフェにいる学生たちもみんな、篠宮さんに大注目!
 白いジャケットに、下はシャツじゃなくてざっくりしたカットソーで、ズボンも白いジーパン。靴までスニーカーだわ。総帥モードのスーツ姿はオーラみたいのが出てるけど、こういうカジュアルな格好していても、カッコよさっていうのは隠しようがないんだ。
「今日はもう大学に用はねぇだろ」
「はぁ、そうですけど?」
「じゃあ俺に付き合え」
「えっあ……」
 篠宮さんの腕が肩を抱くようにしてあたしを立たせた。加奈子と里佳は、あたしたちを見上げて笑顔で手を振ってる。
「いってらっしゃい、響子をよろしくお願いします」
 ええ!? ちょっと待ってよ。
「加奈子!」
「いいじゃん、ストレス発散してきなよ。篠宮さんなら、その雪絵って人もとやかく言わないでしょ」
「そうそう。思いっきり遊んできなさいって」
 二人の笑顔で見送られて、篠宮さんと二人でカフェテラスを出た。

 
 

 大学の構内を篠宮さんに肩を抱かれて歩くなんて、一生ないと思ってた。女の子たちの視線が痛い……。
「あの、どうしてあそこにいるって分かったんですか?」
「探したに決まってんだろ。携帯に掛けてもよかったが、驚かせてやろうと思ってな」
 また意地悪そうな顔で……。でも正直、篠宮さんが来てくれて助かった。雪絵さんの言ってたことが気になってたし、もう本当に爆発しそうだったから。今日マンションに帰って雪絵さんの顔を見たらきっと、泣いて泣いて泣き叫んで大変なことになってたかも……。
 正門の近くに、篠宮さんの黒いツードアのスポーツカータイプの車が停まってる。
 篠宮さんが助手席のドアを開けてくれて、シートに座った。なんかもう、視界が歪んでてよく見えない。隣りの運転席に篠宮さんが乗った気配があって、頭を撫で撫でされたらボタボタと涙が膝の上に落ちた。
「響子、大丈夫か?」
「う……えっ……大丈夫じゃ……ないですぅ……えっ……えっ……ひっく」
 篠宮さんの声と手が優しくて、気持ちが抑えられなくなっちゃった。あたし、ずっと泣きたかったんだって、今この状況になってやっと分かった。ずっと爆発しそうだった感情を我慢してたんだ。
「誰も見てねぇから、思い切り泣いていいぜ」
 体が引っ張られて、篠宮さんの広い胸に抱きしめられて、大泣きしちゃった。
「泣きたい時は我慢するな。雪絵もそこまで鬼じゃねぇよ」
「う……えっだって……いつも、愁介様の奥様になる人が……しちゃいけませんって……いつもいつも言うんだもん!」
「あいつは真面目だからな。響子も大概気に過ぎるが」
「え……えぐっ……だって、だって……愁介に迷惑掛けたくないもん!」
 涙ボロボロで、心もボロボロで、ずっと溜めてきたことが一気に吹き出ちゃってる感じ。自分でも何を口走ってるか、分からなかった。
「響子……」
 ギュウッて力強く抱きしめられて、その腕が温かくて、心がキューって締め付けられた。
「あたし、こんなだから……ひっく……でも、頑張ってるのにぃ……雪絵さん、いつもいつも、あたしのこと叱って……あたしもう、どうしたらいいか分からなくて……んぅ」
 唇を塞がれてビックリしたら、篠宮さんの顔がドアップで目の前にあった。キス、されてる。凄く優しいキスだった。舌が入ってるんだけど、全然やらしい感じがなくて、凄く落ち着かせてくれる感じ。
「ん……はぁ」
 篠宮さんの唇が離れた時には、高ぶってた感情はどこかに行っちゃった。泣き過ぎて痛くなった目を開けたら、篠宮さんがとても優しそうな目であたしを見ていた。
「響子……雪絵が嫌いか?」
「……分からない。でも……もっと優しくしてほしいです。あたしだって頑張ってるって……認めてほしい……」
 子供っぽいって思われちゃってもいい。ずっと……これから3年間一緒に住んでいかなきゃいけないなら、もっと気軽に話せる関係になりたい。
 そう言ったら、篠宮さんは困ったような顔を見せた。
「響子がどう考えようと、雪絵との決定的な上下関係は崩しようがねぇ。今は二人きりだが、他のメイドが加わった時、お前があいつを特別に扱えば困るのは雪絵だ。たとえその気はなくても、響子の接し方一つで雪絵の立場が微妙なものになる。だから敢えて、あいつはお前に厳しいんだよ」
「……それなら、そう言ってくれればいいのに……」
 ただ、上に立つ者の常識をわきまえてって言われても、あたしには分かんないよ。
 篠宮さんがズボンのポケットからハンカチを出して、ボロボロになったあたしの顔を拭いてくれた。
「でも、愁介、今日はどうして? お休みの日じゃないのに……」
 泣き過ぎて目が痛い。きっと瞼が凄く腫れちゃってる。どうしよう……。
「今日と明日の予定は全てキャンセルした」
「は?」
 えと……そんなことが出来るんですか? あんなにいつも忙しいのに。総帥の篠宮さんでなきゃ出来ない仕事が、たくさんあるのに……。
「どうやって?」
「滅多に使えない手だが、総帥も人間だからな。数年に一回、公然とサボタージュしてもいいことになってる。時間にしてせいぜい30時間程度だが、その間は執務を放棄しても問題ねぇ。俺は一度、療養のためとはいえ半年間不在だったからな、もう二度と使えねぇ。これが最初で最後のサボりだ」
「ど、どうして、そんなこと……」
 唖然としてるあたしに、篠宮さんは穏やかに笑った。
「今朝、雪絵が俺に連絡してきた。響子が限界だと」
「…………」
 意外過ぎて何も言えなかった。あたしがもう一緒にいるのが限界だって、雪絵さん分かってたの?
「あいつは、ちゃんと響子のことを見てんだよ。お前が限界になるまで頑張ってるのは、分かってるんだ。そういう女だから、雪絵を使った」
 篠宮さんの声が優しく響く。あたし……雪絵さんのことを、ちゃんと見てなかったんだ。マギーさんが言った通り、あたしは雪絵さんのことを信じてなかった。雪絵さんは、あたしが限界になってるって、ちゃんと分かってくれてたのに。
「ごめんなさい……あたし、我が儘ばっかり言ってました」
「雪絵は我が儘とは思ってねぇよ。お前の頑張りには、感服してる。決して優しく接して来なかったからな。憎まれても仕方ねぇと思ってるぜ」
「でも、やっぱりあたしが悪かったんです。もっとちゃんと、雪絵さんのことを信用すればよかったのに」
 篠宮さんの手があたしの頭を撫でて、髪を梳いていった。
「もう、大丈夫だな? 響子」
「はい」
 まだ目は腫れてるけど、ずっと強張ってた顔が笑えてる。嬉しかった。
「ふん、じゃ行くぜ」
「どこにですか?」
「せっかくサボったんだ。遠出するぞ」
「ええ!? まだそんなに時間経ってませんから、今から戻ればなかったこにしてもらえるんじゃ……」
 だって、最初で最後のサボりなんでしょ? これから二度と出来ないなんて、酷過ぎる。それもあたしのために、なんて。
 そんなあたしの気持ちなんてお構いなしに、篠宮さんはサボる気満々って感じで、車を発進させた。
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