絢子が部室に入ると、相模は脱いだ制服をハンガーに掛けているところだった。几帳面な彼は、多少時間がおしていても、こういうところは横着したりせずにやる。そのため、彼のロッカーの中は常に整頓されているのだ。
ハンガーを中のつっかえ棒に掛け、彼は体育館用のバッシュを出して靴を脱いだ。バスケ部の部員は大抵普段からバスケットシューズを履いているが、外履きのまま体育館に入るわけにはいかない。
彼が靴を履き替えている間、絢子は持っていたファイルを元の場所に戻した後、所在無げに辺りをウロウロしていた。いつもの彼女ならさっさと部室を出て行くのに、今日に限ってはどうも勝手が違うらしい。
ふと、彼女の視界に相模の頭が入った。彼は部室内にあるパイプ椅子に座って、バッシュの紐を結んでいる。絢子は女子の中でもかなり身長が高い方だが、相模は彼女より20センチ近くも高い。部活中や試合中は自分の仕事で忙しいし、クラスも違う絢子は彼を見下ろす機会など滅多にないのだ。珍しい眺めに、そっと近付いて相模の頭頂部を正面から覗き込んだ。
「何だ?」
「あー、ちょっとね。珍しい眺めだなぁ、と思ってさ」
茶化した口調でいるが、絢子の鼓動はかなり激しく鳴っている。まさか二人っきりでこんなシチュエーションになるとは、思ってもいなかったのだ。
前髪が邪魔をしてあまりよく見えないが、相模の伏せた睫毛は意外に長い。柔らかそうにややウェーブ掛かった黒髪に、つむじが見えた。思わず指で突きたい衝動に駆られたが、何とか思い留まる。
靴紐を結び終わった相模がちょっと顔を上げた。目線の先はちょうど彼女の胸の辺り。Tシャツとジャージに隠されているとは言え、そこそこにふくよかである。相模はそこから少しだけ視線を外して言った。
「結城」
「ん、なに?」
「どいてくれないと立てない」
「あ、はははっ。ごめんごめん、つい見入っちゃって」
絢子は笑う声もどこかぎこちなく、彼から離れた。
相模が立ち上がると、絢子の背丈は肩くらいまでしかない。悔しいと思う反面、彼を見上げるのが実は楽しみでもある。Tシャツの襟口から鎖骨が見え、絢子は顔を赤くして目を逸らす。開けっ放しだったロッカーを閉めた相模は、そんな彼女を見て瞠目した。
「どうしたんだ? 結城。今日は何か変だぞ」
「な、何でもないよ」
「いつもなら、さっさと体育館へ行ってるだろ?」
一生懸命愛想笑いをしていた絢子は、彼のそのセリフにビシッと固まった。
『くそー、あいつが告白なんかしてくるから、いつも通り振舞えないじゃないか!』
と頭の中では頭を抱えて呻いているのだが、本人の前でそれを出せるはずもない。
『せっかく今まで馬脚を露さないようにしてたのに! 高城め、絶対に今日は走らせちゃる!!』
その振られた高城が、体育館で陰気のオーラを発生させているとは露知らず、絢子は心の中で彼を罵倒した。
怒りで興奮したためか、絢子の顔はさっきよりも更に赤くなっている。それを見た相模は眉を顰め、よせばいいのに手を出してしまった。
「おい、本当に大丈夫か? 顔が真っ赤だぞ、熱でもあるんじゃないのか?」
心配そうに言いながら、左手を伸ばして絢子の額に当てた。
ボンッ!
途端に絢子の頭から湯気が立ち、耳まで真っ赤に染まる。
「やっぱり熱が……おい!」
ふらふらとよろめいた絢子の背中がロッカーに当たり、彼女はズルズルとその場に座り込んでしまった。相模はその様子に、手を腰に当てて呆れる。
「ったく、熱があるんなら無理して部活に出ることないだろ」
「相模? 何やってんだ?」
ちょうどそこへやってきたのは、部長の氷室。彼の位置からは、ロッカー前に座り込んだ絢子の姿は見えない。
「氷室、いいとこに来てくれたぜ。結城が熱出してダウンしたんだ。保健室に連れて行ってやれよ」
「絢子が熱?」
あのハッスル娘が熱でダウンとは、珍しい現象に氷室も信じられないような表情をして、相模の後ろから覗き込んだ。そこにいたのは、耳まで真っ赤に染めて座り込んだ幼馴染の姿。
「ったく、しょうがねぇな」
前髪を掻き揚げながら一人ごちた氷室は、ふと気付いたように、不審そうな目で相模を見た。
「何だ? 氷室」
「お前さ、こいつに何か言った?」
まるで自分が悪いみたいな訊き方をされ、普段は穏和な相模もさすがにムッとした。
「別に、何も言ってねぇよ。ただ、いつもだったら用事を終えたらすぐに体育館に行くのに、いつまでも部室にいるから、どうしたんだ? って聞いただけだ」
「ふーん」
どこか釈然としていないような、氷室の相槌。腕を組んで右手を顎に当て、何か思案しているようだ。
「俺はもう行くからな。後は頼む」
「ちょっと待て」
「だっ!」
埒が明かないと思ったか、踵を返す相模の襟首を氷室が掴まえた。Tシャツの襟が首に食い込む。
「今日のこいつ、どっか変じゃなかったか?」
「先に…手を放せ……俺を殺す気か」
「あ、悪ぃ」
全然謝っていない口調と表情で、氷室が襟を放した。相当苦しかったのか、相模は激しく咳き込んで呼吸を整えている。
「で?」
「あー、変て言うか。俺が着替えてる時に結城は来たんだが、いつもなら気にもせずに入ってくるのに、今日に限って慌てて廊下に出たぞ。今日はどうしたのか? と聞いたんだが、いつもはみんながいるから、とか何とか、よく分からないことを言ってたぞ。…あぁ、それと」
「何だ?」
「バッシュの紐を結んでる時、結城が前に立って俺を上から眺めていた。何か、妙な視線を感じたぞ」
困惑した表情の相模を見て、氷室は苦笑した。
「何だよ?」
「いや。お前さ、部活は休んでいいから、絢子を保健室に連れてってやれよ」
てっきり幼馴染の彼が行くと思っていたので、相模は真剣に驚いた目をする。
「俺が? 何で? しかも部活を休めって、ど」
「いいから! 部長命令だ」
相模の言葉を遮って、氷室はムチャクチャなことを言う。呆れた相模だったが、もう聞く耳持たない、と着替えを始めることで意思表示をした氷室に盛大な溜め息をつき、彼は絢子の傍に膝を付いた。
「結城、立てるか? 保健室行くぞ」
「へあ? 相模? 保健室? …………だ、だ、だ大丈夫大丈夫!!」
ボケッとした赤い顔で見上げた絢子は、暫し相模と見つめ合った後、慌てて立ち上がった。その唐突さに、ギョッとする相模と呆れ果てる氷室。
「でも、さっきより更に顔が赤いぞ」
「だ、大丈夫だったら! わ、私もう体育館行くからさ! ほ、ほんじゃね。…………んぎゃっ!!」
あからさまに無理矢理な笑いを顔に貼り付かせ、絢子は手を振りながらテーブルを横切ろうとして、テーブルの脚に思いっ切り足を引っ掛けた。当然、床にダイブするはずだった絢子の体は、しかし咄嗟に伸ばした相模の腕に抱えられて無事だった。
「氷室、やっぱり保健室に連れて行く。これじゃ、無事に辿り着けそうもないからな。どうせお前は行かないんだろ?」
「ああ、よろしく頼むぜ」
「ほへ? 何? ええ!?」
ひょいっと軽々しく絢子を抱え上げて、相模はさっさと部室を出て行く。お姫様抱っこされた彼女は、ガチガチに固まったまま、それでも口だけは達者に動かしている。
「相模!? なんで抱っこなんか……ねぇ、ちょっと! 斎ー!?」
パタンとドアが閉まり、彼女の叫び声で煩かった部室は、急に静まり返った。
「はぁー、ったく。やっと自分の気持ちに素直になったのかよ。それが高城の告白がきっかけとはな。あいつも、結構可愛いところがあったんだなぁ」
一人残された氷室は、感心したように呟いて、中途だった着替えを再開した。