His and her circumstances

 始業式から10日ほど経ったある日、学園に出勤した朔が講師室に向かうと、いつもとは違う風景が待っていた。
 講師室のドアに黒山よろしく女子生徒たちが、集まっていたのだ。その集団は廊下の半分以上まではみ出している。
 一体なんの騒ぎだ?
 訝しむ朔がそれに近づこうとすると、後ろから腕を引っ張られた。振り返ると由比だった。
「由比? なんだよ?」
「しっ、朔がいると知れると面倒だから」
「は? なんむぐっ」
 つい大きな声が出てしまい、由比の手で口を塞がれた。
「だから静かにって。こっちに来て」
 朔の口を塞いだまま、由比は自分の職務室である美術の準備室に連れていった。中には先客がいた。彰人である。
「あれ、真條?」
「おはようございます、朔。私も朝霧先生に連れてこられた口ですよ」
 長い足をゆったりと組み、余裕綽々な態度だが、表情には困惑の色が見える。
「由比? 何なんだよ」
「いいから座って。事情を説明するから」
 ブツブツ言いながらも、朔は大人しく従い、彰人の隣に座った。
「あなたたちの婚約が、生徒たちに知れちゃったのよ」
「えっ、てことは、あの黒山は」
「真相を確かめるべく集まってきた、というところでしょうか?」
 絶妙なタイミングで朔の言葉を彰人が引き継いだ。いいコンビだわね……由比は感嘆を通り越して呆れていた。
「でも何でバレたんだ? 由比、もしかして」
「理事長じゃないわ。下手なことしたら離婚するって言ってあるから」
「うへぇ、さすがだなぁ由比」
「離婚!?」
 今度は同時に口を開く。とことん息の合う婚約者同士だ。
 彰人はこれ以上開けないくらいに、目を見張っている。由比は「あっ」と声を上げて口元を押さえた。
「では朝霧先生の結婚相手というのは!」
「バレちゃいましたね。ええ、彼ですわ」
「な、なるほど、そういうわけだったんですね」
 相手があの人物なら、秘密にしているのうなずける。同時に、彼を夫にした由比に尊敬の念を抱く。彰人は疲れた様に椅子にもたれかかった。
「でもさ、どうしてバレたんだ?」
「まぁ、大体予想は付くけれど」
 右手の人差し指を立て、細い顎に当てながら、由比は思慮深い表情で言う。朔はそんな幼馴染を不思議そうに見上げた。
「どこだよ?」
「おそらく私たちの実家からでしょう」
「それ以外には考えれらませんね」
 彰人と由比は顔を見合わせ、頷き合っている。朔は蚊帳の外な気分を味わい、拗ねたように口を尖らせた。
「なんだよ、二人して」
「ちゃんと説明しますよ、朔。これまで接点のなかった真條家と篠原家が揃って動けば、世情は何事かと勘繰るでしょう。朔のご両親は早く婚姻を進めたい様ですし、そこから私たちの婚約が感付かれたのではないですか」
「良家の子女のためのような学園ですから、生徒が親たちの噂や行動を知って、更に学園内で噂になったのでしょうね」
「少々、急ぎ過ぎとも思いますが。朔のご両親は」
「仕方ありませんわ。肝心の朔がこれですもの」
 由比と彰人が再び見合い、揃って苦笑いを浮かべる。朔は更に疎外感を抱いた。
「だから、俺が何だってんだよ」
「朔はあまり自覚がないようですが、篠原グループといえば日本でも屈指の企業体なんです。お父上は政財界にも顔が利く大物なんですよ」
「真條先生の実家も、朔の家に劣らない家柄よ。そんな篠原家と真條家が親戚関係になるなんて、経済界では大事件なんだから。騒がれるのも当然でしょ」
「うげ、めんどくさっ」
 朔は気色悪そうに顔をしかめた。長女とはいえ篠原家の実業に関心のない朔は、努めて避けてきた世界のことだった。
「面倒臭くても、あなたは篠原家の長女なんだから。真條先生を選んだ以上、避けて通れるはずがないでしょ」
「…………」
 むくれた表情で、朔はそっぽを向いている。彰人はそんな婚約者の態度に苦笑した。自分も実家の事業には積極的に関わろうとしなかった。当主となった兄から頼まれ、新事業の立ち上げや交渉など何度か手伝ったことはある。だが、それ以上のことを彰人はしなかった。兄が望まなかったからである。
 互いに優秀であったが、彰人の方が能力的にはやや上回っていた。それを見た親戚連中が兄弟で派閥を作る動きが出始めたのだ。それを察知した彰人はその実情を兄に話し、教師になることで自ら退くことを意思表示したのだった。
 現在も頼まれれば兄に手を貸すこともあるが、それ以上は実家にも寄り付かず、彰人は気ままな教師生活を満喫させてもらっている。
 二人とも一線を引いた身であるのに、外野は意外にうるさいものだ。彰人は密かにため息をついた。
「何にせよ、流れてしまった噂を止めることは出来ません」
「でもさぁ、どうするんだ?」
「どうもしませんよ。堂々といつものようにしていればいいでしょう。このまま隠れている訳にもいきませんし。何か訊かれたら、婚約したことを正直に言えばいいのですよ」
「それしかありませんわね。大騒ぎになることは、変わらないでしょうけど」
 二人の話を聞きながら、その光景を思い浮かべて朔は疲れたような溜め息をついた。
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