Secret darling

 新年度が始まる4月の始業式。講師といえども教員、ということで朔に由衣、彰人も始業式に出るため学園に来ていた。
 式の始まる前に朔と彰人は理事長に呼び出しをされ、揃って理事長室にやって来たところである。
「呼び出しなんて、高校生以来だぜ。何だろうな?」
「さあ? いずれにせよ、あまりいい話ではないでしょうね。なんと言ってもあの、理事長ですから」
 あの、を妙に強調して言う彰人に、朔も嫌そうな顔で応える。
「だよなあ……」
 とはいえ理事長の呼び出しをすっぽかす訳にもいかず、彰人が扉をノックするのを朔は盛大な溜め息と共に眺めた。
 ノックの後、すぐに入室を促す声がして彰人が扉を開けた。
 室内に入ると、立派なデスクに陣取って若い理事長が書類の決裁に勤しんでいた。今年二十歳になる、理事長としては若過ぎるほどだが、学生時代から世界でも指折りの財閥である実家をまとめているその実力から、高校を卒業してすぐに理事長に就任させられてしまったのである。
 本人は大学に行きたかったのだが、こうして理事長室にいても本来の仕事に忙殺されている。もし大学生になったとしても、結局は仕事から逃れることは出来ないため、本人ももう諦めているようだ。
 二人が揃ってデスクの前に立っても、集中しているのか顔すら上げない。彰人がさり気なく咳払いをして、ようやく彼は顔を上げた。
「やあ、おはよう」
「おはようございます、我々に何のご用ですか?」
 挨拶もそこそこに尋ねる彰人に、理事長から苦笑が漏れる。
「せっかちだなぁ」
「あなたの呼び出しは、大抵ろくでもないことが多いですからね」
「酷いね、今回は結構まともなことなんだけど?」
 ろくでもない、というところにも突っ込まず理事長は腕を組んで椅子に寄り掛かり、二人を楽しそうに見上げた。
「今日の始業式の時に、二人の婚約発表をするからね。一応教えとこうと思って」
「何故です?」
「おめでたいから」
「…………」
 語尾にハートマークでも付いてそうな理事長の言葉に、朔も彰人も絶句した。
「理由をお訊かせ願えますか?」
 彰人が、歯痛を堪えるような表情でこめかみを押さえつつ尋ねる。
「講師が婚約したんだから、学園を揚げて祝うのは当然じゃん?」
 不思議そうな顔で問い返す理事長を、彰人はひたすら迷惑そうに見ている。
「それにほら、二人が婚約したと知ったら、色んな意味でショックを受ける女性職員や女子生徒がいっぱいいそうでしょ。きっと面白い始業式になるよ」
 朔の目には、にこやかに話す理事長の顔が一瞬タヌキに見えた。たぶん目の錯覚だろう。そう思い込むことにして、朔は遠い目をした。隣りにいる彰人は、疲れたような溜め息をついた。
「理事長、本気ですか」
「あのね、真條。俺が今まで本気じゃなかったことがあった?」
 気分を害したらしい、理事長の眉間に皺が寄る。
「常人には冗談に聞こえることは、度々ありましたよ。あなたが学生の頃から」
「それじゃ、俺が変人みたいじゃん。真條先生」
 『先生』を殊更強調する理事長の言葉は、彰人の長身をぐらつかせるに十分な効力があったようだ。一昨年まで教え子の一人であったのだから、『先生』と呼ばれてもおかしくはないのだが。
「全くあなたは……学生の頃から変わりがなくて、結構なことです」
 嫌味のつもりで言ったのだが、理事長は大層朗らかな笑顔で、嬉しそうに相槌を打つ。
「世の中が平和な証拠だよ。俺がこんなだから、深刻な戦争も起きない」
「確かにそれはあるでしょうが、私たちは自分たちの生活圏くらい、穏やかな日常がほしいですよ。別に殊更発表する必要はないでしょう」
「それはダメ。学園と実家の仕事で俺は忙しいの! 少しくらいこういう娯楽があってもいいじゃん」
 愛想の良い笑顔でのたまっているが、彰人の目には彼の背中に黒い悪魔の尻尾がヒラヒラ動いているのが見える。
「お言葉ですが、あなたの娯楽に付き合う義理は、私たちにはありません」
「ずっと秘密になんかしておけないよ?」
「それは当然です。で す が、始業式にあなたから発表する必要はないでしょう」
「むう……だったら、真條と篠原で発表すれば?」
 あくまでもこの理事長は、今日の始業式で公表することにこだわっているようだ。朔は二人のやり取りをやや距離を置いて聞いていたが、彰人の眉間に皺が寄るのを見て、ようやく声を掛けた。
「理事長はなんでそんなに、俺たちの婚約発表に拘るんですか?」
「え? だって、年度始めだよ。つまらない学園長の話とか俺の話とか聞いてるより、そっちの方がずっと面白いじゃん。生徒に娯楽を提供するのも教師の勤めじゃない?」
 人差し指を立てて愉快そうに話す理事長が言い終えた途端、プチッと何かの切れる音がした。
「そういう理屈はあなたしか通用しません! とにかく、やるなら自分たちでやります。あなたの手は煩わせません!」
「そう、じゃあ始業式はよろしくね」
 理事長がにっこり笑ってのたまったのを見て、彰人は墓穴を掘ったことに気が付いた。今度こそ眩暈を起こしたようにふらつきながら、ムンクの叫びよろしく頭を抱えて理事長室を出て行く。
「あ、真條! 失礼します」
 放心したような彰人を追って、朔はおざなりな礼で理事長室を出た。
 廊下をフラフラしながら歩く婚約者の後ろ姿を見ながら、朔は携帯を取り出し、ある人物に連絡を取った。あの理事長を止められる、唯一の人物に。

 
 

 幼馴染から連絡を受けた朝霧由比は、溜め息と共に携帯をしまい、理事長室へとやってきた。
 扉をノックすると、どこか楽しげな入室を促す声。
「理事長、朝からウキウキ気分ですね」
 飽きれ顔で入ってきた彼女を見るなり、若すぎる理事長の顔が複雑な表情に変わった。
「随分、失礼な顔をされていますね」
「そう? 俺にこんな顔をさせられる人間なんて、そうそういないよ」
「私がその数少ない人間の一人と認識されているのは、光栄なことでしょうか?」
「なんでそんな他人行儀な物言いなのさ?」
 胡乱気な表情の理事長に、ツカツカと彼のデスクの前に歩み寄ってきた由比は、両手を腰に当て理事長をビシッと指差した。
「あの二人に何か無理難題を押し付けたでしょう?」
「無理難題かなぁ。婚約報告を始業式でやってもらうだけだよ」
 やっぱり、という顔の由比。理事長はデスクに向かって書類を読み始めた。
「理事長、顔を上げて頂けますか?」
「悪いけど、仕事中」
「真絛先生と篠原先生の婚約報告は、本人たちに任せるべきです。子供じゃないんですから」
「でもさぁ、二人に任せたらいつまで経っても言いそうにないじゃん。特に篠原先生なんて、誤解している女子生徒とか多いじゃない。絶対面白い展開になると思うんだよねぇ」
 いかにも楽しそうにのたまいながら、書類にサインを書き込んでいる。そんな理事長を見て、由比は首に掛かった結婚指輪を右手で弄った。
「時々ね、思うのよ」
「うん?」
「是非にと望まれてプロポーズを受けて、雅樹も産んだし、結婚もしたけど……」
 そこでようやく理事長が顔を上げた。どこか不安げである。
「なに?」
「選択を誤ったかなぁって」
「ちょっ、今更そういうこと言うわけ!?」
 血相を変えて立ち上がる理事長を見て、由比はニッコリ笑った。
「冗談よ」
「勘弁してよ。リコンの危機かと思った」
 ヘロヘロっとデスクに突っ伏す理事長。その姿からは、世界を牛耳る大財閥の総帥とはとても思えない。
「ふふ、そうやって私の冗談に、騙されてくれた振りをするところが好きよ」
「まぁ、俺にそういう冗談を言ってくれるのは、由比くらいだからね。でも、今のは本気にしちゃったよ。俺だって伊達や酔狂で、中坊でプロポーズした訳じゃないんだからさ」
「分かっています」
 こういう時は若者らしく口を尖らせる夫に、由比は艶然と微笑んだ。そしてデスクを回って彼の傍に寄ると、背伸びをしながら唇にそっとキスをした。された方は苦笑している。
「こういうことされたら、普通の男は一発濃厚なのを返すんだろうけど」
「あなたが淡白なのは百も承知よ。今日日二十歳の男なら、むしゃぶりついてくるでしょうけど」
「悪かったね、淡白で」
「代わりに中学生の頃は凄かったわよ」
 クスクス笑う妻に、理事長は口をへの字に引き結んだ。
「あの時は必死だったんだ。放っといたら、俺が成人する前に誰かに奪われるのは、目に見えていたからさ」
「まぁ、朔がいてくれたお陰で、そうそう変な虫に引っ付かれることはなかったけどね。プロポーズしてくれた時のあなたは、そりゃあカッコよかったわよ。遊びじゃないと分かったから、中学生のプロポーズを受けたの」
「まさか、あの後すぐに子供が出来るとは、思っちゃいなかったけどな」
 自分の手の早さを後悔しているのか、理事長は溜め息交じりにこめかみをカリカリかいた。
「お陰であなたが本気だと、お祖父様に示せたじゃないの」
「でも、由比は心無いこと随分言われたろ、あのクソジジイに」
 言葉はともかくとして、気遣ってくれる年下の夫に、由比は苦笑を浮かべた。
「仕方ないわよ。身分は違うし、妻になる方が八つも歳上となれば」
「このご時世に身分違いを引き合いに出すなんてな。時代錯誤も甚だしいぜ」
 ケッと吐き捨てるように言う理事長は、彼の祖父とは仲が大変よろしくない。息子を早くに亡くし、自分の血筋を跡継ぎにするため、まだ中学生だった孫を強引に当主に据えたのだ。いずれ継ぐものと覚悟はしていたが、10代の青春を丸々潰された彼にしてみれば、恨みも相当なものだろう。
「俺、もっと権力ほしいな」
 切実に響く呟きを聞いて、由比は目を剥いた。世界を動かせる大財閥の当主が、何を言っているのか。
「それ以上権力持って、どうするのよ? おかしなかことを言うのね」
「そうすりゃジジイを黙らせられるじゃん」
「…………」
 思ってもいなかった夫の言葉に、由比は唖然とした。そしてはにかむように微笑む。
「もう、どうしてあなたはそんなこと……そう思ってくれるだけで、十分よ。私は幸せなんだから。そんなことを言っちゃダメよ」
「由比は甘過ぎるんだよ。あの因業ジジイが由比を殺そうとしたの、忘れたのかよ」
「それは未遂に終わったでしょ。あなたの執事のお陰よ」
「俺のジジイだからって、由比に手を出していいことないだろ。絶対にまた狙ってくるぜ。俺を当主にしたのは、あのジジイだからな。俺にその権力持たせたこと、後悔するくらい思い知らせてやらないと」
 本気で言っているのは、彼の目を見れば分かる。由比は溜め息をついた。
「それでどうするつもりよ? お祖父様を陥れて、ついでに世界も恐怖に陥れるつもり? バカなことを考えるのはやめなさい。言ったでしょ、あなたがいて雅樹がいることで、私は十分に幸せなんだから」
 憮然とした表情を崩さない理事長に、由比は最後の釘を刺すことにした。
「変なことしたら、離婚しますからね」
「う……わ、分かったよ」
 世界を掌握出来るほどの大財閥の当主が、こんなのでいいのだろうか? 由比は甚だ心配になった。
「それと、朔と真絛先生の婚約の件も、本人たちに任せなさい。あなたの娯楽のために、婚約するんじゃないのだから」
「分かったよ」
 ついでとばかりにこちらの釘も刺され、理事長は渋々デスクについた。由比は芝居がかった態度で「うん、それでよろしい」と言い、愛する夫に再度キスをした。

 
 

 その日の始業式は、いつも通り平穏無事に終わった。あの理事長が動かなかったことに、彰人はしきりに首をかしげ、幼馴染みの結婚相手を知っている朔は、ひたすら由比に感謝の念を送ったのだった。
 しかし、二人の婚約の件は、思わぬところから発覚することになる。
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