Act.4 これが男のエゴって奴か?...8

 高嶺美菜と咲弥子が部屋を出て行ってから、目の前の爺さんはしばらくの間、黙って目を瞑っていた。何を考えているのか分からねぇが、俺は口を出さずに話し始めるのを待つ。
 時間にして2分間はそのままでいたか、高嶺会長はようやく瞼を上げた。孫娘に対する疑惑と信じたい気持ちが、ない交ぜになった目だ。
「隆広くん」
「何でしょう?」
「美菜が男を連れ込んでいるというのは、本当かね」
「現場を見たことはありません。が、美菜さん本人は認めています」
 俺はパーティーでのこと、帰りの車でのこと、そしてマンションに着いた後に起こったことを、全て包み隠さず話した。当然、高嶺美菜が子供を産むつもりはなく、俺を父親として中絶する気でいることも伝えた。
 話を聞きながら高嶺会長は力なく項垂れ、何度も首を左右に振っていた。
「全く、何ということじゃ……」
「まさかと思いますが、ご存知なかったのですか?」
「疑ってもせなんだ。君の口から聞いても、未だに信じられん」
「ですが美菜さんの腹の子が、俺の子でないことは確かです。お疑いなら、DNA鑑定してもいいんですよ。先に言っておきますが、血液型を調べるのは無意味な行為です。美菜さんの話では、俺とその子の父親は血液型が同じだそうですから」
 俺がきっぱり言い放ってやると、一層溜め息が深くなる。あんなバカ娘に育てたのが間違いだ。同情する余地はねぇな。
「これでお分かり頂けますね、高嶺会長。俺と美菜さんの婚約は、取り消してもらいます」
「いや、それとこれとは別の話じゃぞ。わしは、君と美菜を結婚させる。康三郎殿も乗り気でおるのだ」
 マジかよ、面倒臭ぇな。あんなに失意の底に沈んでいたのが、一気に浮上してきたぞ。
「美菜さんの腹の子はどうするんです?」
「下ろさせるしかあるまい。君に、他の男の子供を育てろとは言わんよ」
「俺には藤野咲弥子がいるのですが?」
「なに、結婚と恋愛は別物じゃ。美菜を娶ってさえくれれば、君が誰を好こうとわしは何も言わん。先程の女性は愛人にでもすればよい」
 前時代の遺物みたいな爺さんだな。ウチの爺さんとは、えらい違いだぜ。まぁ、高嶺美菜に関しては、爺さんも同じことを言いそうだが。第一、咲弥子がそれで納得する訳ねぇだろう。俺だってやりたかねぇ。
「さっきの美菜さんの剣幕を忘れたのですか? そんなことをすれば、修羅場は免れないでしょう」
「美菜も、高嶺の娘だ。その程度の分別は、時間が経てば自ずと分かるものじゃ」
 けっ、あのバカ女にそんな分別がある訳ねぇだろう。孫娘が一番って考えは、結局変わらねぇのか。情けねぇな。
「会長がどうお感じになろうと、俺には関係ありませんよ。美菜さんとは婚約もしなければ、婚姻もしません。よって、俺が美菜さんを妻に娶るという妄想は、会長の中だけに留めて頂きましょう」
 妄想を考える分には、俺には何の災いも降り掛からねぇからな。これ以上の譲歩はねぇはずだ。だが、高嶺会長は豪快に笑い飛ばした。
「はっはっはっ、隆広くんはまだまだ若いな。東海林家の当主となったからには、それに見合った相応の女性と婚姻を結ぶのが義務であろう」
「それが美菜さんだと言うのですか?」
「その通りだ。ホステス上がりの女性がなれるものではあるまい。何か不満があるかね?」
 高嶺美菜もそうだったが、ここの一族はどうしてこうも、根拠のない自信に満ち溢れているのかね。
 背後にいる里久がソワソワしているのが感じられる。爺さんの言葉の端々から、東海林を下に見ているのが分かるんだろう。ついでに言えば、俺のこともただの若造にしか見てねぇ。40も年下が相手じゃそれが当然だろうが、里久には気に入らねぇんだな。
 俺も茶番に付き合うのは、ここまでにさせてもらおう。
「会長にお聞きします」
「なにかね?」
「高嶺家は、東海林と同等に扱われるべきだと、思っておられますか?」
 急に黙りこくって俺の目を見つめたのは、今の問いの意味を探っているのか。深い意味はねぇ。ただ、これでこの爺さんの真意が測れるってだけのことだ。
 俺は今まで顔に貼り付かせていた微笑を、更に深いものにさせて高嶺会長を見た。爺さんは何を感じたのか、鼻の穴を膨らませて胸を張った。
「勿論じゃとも。我が高嶺建設は、康三郎殿も認めた業界トップの企業じゃ。今後は異業種にも進出を考えておる。東海林家と手を組めれば、更に将来は安泰となろう」
「そうですか。では、一つお耳に入れたい重要な話があります」
「ほう、なにかね」
 爺さんが身を乗り出してきたところで、俺は逆にソファに背中を寄り掛からせた。こうすると僅かだが、爺さんを見下ろすような形になる。
「高嶺建設は過去25年間に渡って粉飾決算を行ってきましたね。会長は勿論ご承知でしょう」
 ズバリ直球で投げ付けてやった。相手がどういう反応を示すのか興味があったんだが。さすがに四半世紀も国税局をだまくらかしてきただけあって、この程度じゃ馬脚も露さねぇか。
「いったい何のことかね、隆広くん」
「とぼけるのがお上手ですね、会長。ご不安になられたことはないのですか? もしこれが外部に漏れたらどうなるか」
「不安になるも何も、そんな事実はありはせん。訳の分からんことを言っとると、わしと我が社に対する侮辱と捉えるぞ。重要な話というから何かと思えば、東海林グループの会長ともあろう者がそのような戯言、情けないとは思わんかね」
 強気だな。よっぽどあれが外に漏れる心配はねぇっていう自信があるってことか。さて、どうやって切り崩す?
「始まりは25年前でしたね」
「ほう? 今度は何かね?」
「たった数百万の赤字、それが3年も続けば相当な額です。会社を存続させるためには、その赤字を埋める必要があった。しかしそれだけの利益は見込めない。だから、手を染めたんですね。おそらくは一回きりのつもりで」
「…………」
「何とかその年は持ち堪えられた。しかし翌年も思うような利益は上がらない。そこで、前の年と同じことをやったんです。黒字までは出せなくとも、赤字さえ出さなければ経営は存続出来る。ひたすらその思いだけだったんでしょう、最初の数年は」
 話しながらも、俺は高嶺の爺さんから目を離さなかった。ほんの些細な表情の動きでも、突く隙は生まれるからな。
 最初の強気な態度こそなくなったが、表情を消して俺を睨んでいる。眼光鋭いその視線に怯える奴もいるんだろうが、俺には通用しねぇ。
「運良く国税局の目をすり抜けられた、その数年で止めておけばよかったんですよ。だが、味を占めたあなたはそれを続けることによって、会社を大きくしようと企んだ。専門の会計監査人を雇い、本格的に不正経理の道に入っていった」
 爺さんは微動だにせず、俺の話を聞いている。口を挟まねぇところを見ると、全部図星か。
「最も粉飾決算の額が多かったのは15年前、高嶺建設が業界最大手に名乗りを上げた頃ですね。そこまでしてトップに立ちたかったのかと、俺から見れば不思議なものですが」
 こんな不正経理をしてトップに躍り出たところで、俺はちっとも嬉しくねぇぞ。目の前にいる爺さんは、それで嬉しかったのかね。
 挑発しても、全く乗ってこねぇ。下手に対応するとボロが出るからか? こっちは二重帳簿っつう動かぬ証拠を持っているんだ。足掻いたところでどうにもならねぇんだがな。
「その後は利益が伸びるにつれて、粉飾決算の額も減ってきましたね。その必要がなくなったからなのでしょうが、今でもそれを続けていますね。それは何故ですか?」
 今度ははっきりと疑問を投げ付けてやった。今の高嶺建設には、十分な利益がある。それでも続ける意味が、俺には分からねぇ。
 高嶺の爺さんは、長い溜め息をついてソファにもたれかかった。無表情だったその顔には、明らかに嘲りの笑みが浮かんでいる。
「君は虚言症でも患っているのかね。その想像力には感服するぞ」
「想像、ですか。あくまでも事実ではないと、おっしゃるんですね」
「そもそも、そんな事実はありはせん。それこそ君の妄想であろう」
 ふん、揚げ足を取るだけの気力もあるのか。さて、どうやって落とすかな。
 しばらく黙って思考する俺を、高嶺の爺さんは愉快そうに眺めていた。この厚顔無恥な爺さんを黙らせるには、正攻法が一番か。
「高嶺建設は、今や一般人にもその名が浸透している、大企業です」
「その通りだ、わしがここまで大きくした。そのわしの力を、君は不正で得たと侮辱しとるのだぞ。君はわしの孫になる男だ。今なら寛大に君を許すことが出来る。今の話の非礼を詫びるならの」
「非礼を詫びる、ですか。それはあなた方がするべきだと思いますが?」
「なんだと!? 君にか!?」
 ここで、俺に詫び、なんて発想するようじゃ、この爺さんも高が知れてるな。
「俺にではありません。高嶺建設が一流企業だと信じている世間一般の人々、そして高嶺建設の社員にです」
「何故わしが詫びを入れねばならん! 社を大きくしたのはわしじゃぞ。どの社員もみな、高嶺建設で働くことを喜びとしとる。それは我が社が業界トップの企業だからだ。そのわしが詫びるだと? 冗談は止めたまえ。冗談でないなら、君こそわしに詫びるべきだろう」
「会長は思い違いをしておられる。それが卑怯なことだとは思わないんですか?」
「わしが卑怯じゃと!? 若造が偉そうな口を利くでない! 東海林グループ会長だと思えばこそ、非礼を見逃そうと思ったが、もう我慢ならん! 帰ってもらおう! このことは康三郎殿に報告するぞ!」
 この爺さんは、どうしようもねぇな。この世界、年の差じゃなく実力の差だってことを、分からせなきゃいけねぇか。古希も過ぎた爺さんに、若造の俺が教えなきゃならねぇとは、世も末だぜ。
「誰が行っていいと言った? そこに座れ、ジジイ」
 憤然と立ち上がった高嶺の爺さんは、俺の口からそんな言葉が出たことが信じられなかったらしい。唖然と俺を見下ろしてから、ユデダコよろしく顔を真っ赤に染めた。
「なっ、わしをジジイじゃと? 口に利き方がなっとらんようじゃな。康三郎殿がこんな教育を君にしておったとは、東海林も地に落ちたものじゃな」
「ジジイはジジイだろ。いいから座れ。話はまだ終わってねぇ」
 さっきまで爺さんが座っていたソファを指差す。わなわなと震えていた爺さんは、俺と目が合うと屈辱に塗れた表情で、そこに腰を下ろした。高嶺と東海林の力関係でいけば、本来はこうなるのが当たり前なんだがな。
「思い上がるなよ、ジジイ。高嶺をここまで大きく出来たのは、社員があくせく働いてくれたからだろうが。あんたは何をした? 粉飾決算で黒字決算を生ませただけだ」
「さっきから言っとるではないか! そんな事実はありはせん!」
「なら、国税局に調べてもらうぜ」
「なに!?」
「やましいことがないなら、査察が入っても問題はねぇだろ。まぁ、国税局は立ってもいねぇ煙りを、さもくすぶっていたように見せることが出来る連中だがな」
「…………」
 ようやく黙ったか、このジジイは。
「里久、すぐこの場で告発してやれ。高嶺建設が粉飾決算してるってな」
「承知しました」
 俺の背後で、里久が携帯を取り出したらしい。爺さんはそれを止めようとしているのか、青褪めた顔で右手を伸ばしている。
「ああ、ついでに証拠は俺が持っていることを伝えてやれ」
「重ねて、承知しました」
「隆広くん、やめさせろ!」
「不正経理の事実はないんだろ。だったら告発した俺の勘違いってことで、収められるじゃねぇか」
「そういう問題ではない! こ、こんなことが許されると思っておるのか!? わしへの非礼の数々を康三郎殿が知れば、君はただでは済まんぞ!」
「心配は要らねぇ、うちの爺様には真実を話す。ついでに証拠も見せてやるさ」
「やめんか、小僧!」
 頭に血が上った人間てのは、普段からは想像も出来ねぇことをやっちまうんだな。
 高嶺の爺さんはテーブルにあったクリスタルの灰皿を、携帯を持つ里久に向けて投げ付けた。軽く殴っただけで人を殺せるだろう、宙を飛んだ分厚い灰皿が壁に当って砕け散る。
「里久」
「僕は大丈夫です、避けましたから。それに、まだ電話はしていません」
 そう言って、俺の目の前に携帯を差し出してくる。そこに表示されていたのは、俺の携帯番号だった。
「僕は国税局の電話番号なんて、知りませんよ」
 それは高嶺の爺さんに向かって言ったセリフだろう。爺さんは、投げ付けたモーションのまま、肩で息をしていた。憤怒の表情ってのは、こういう顔のことを言うんだな。
 爺さんは激しく呼吸をしながら、よれよれとソファに座った。
「わしは……わしは、ただ会社を存続させたかった、それだけじゃ」
「言い訳は俺じゃなく、役人に言うんだな。俺が知りてぇのは、現在でも粉飾決算を行っている理由だ」
 唇を噛んで、苦々しい表情を隠しもしねぇ。70年生きてきて、こんな屈辱を受けたのは初めてなのか、この爺さんは。
「言いたくなけりゃいいさ。俺の推測じゃ、慣習でそうなっただけだろ。ずっと続けてきたからこそ、途中で止めるのが怖くなる。そんなところじゃねぇか」
「…………」
「黙っているのも結構だが、役人相手にはそうはいかねぇぜ。今の内に、社員と世間に詫びる言葉を考えておくんだな。止める機会はいつでもあったはずだ。その時にやめちまえばよかったのに、25年も続けてきた罰だぜ」
 吐き捨てるように言ってやると、爺さんは顔を上げた。こんな情けねぇ泣き顔は、人に見せるもんじゃねぇな。
「君の言う通りだ。止めれば、会社の成長が途絶えてしまう。そんな恐怖に駆られておった。それに、今更発表出来ることでもあるまい。そんなことをすれば高嶺建設の名は地に落ちてしまう」
「そんなことは、あんた一人でドロを被ればいい話だ。それをしなかったから、あんたは卑怯なんだよ。25年間にも渡って社員と世間を欺いてきた背任行為は、許されることじゃねぇ。一度に2億もの粉飾決算を行う前に、不正を公表して世間に詫びていれば、今頃は中堅どころの会社としてそこそこ名を売っていただろうが」
「そこそこでは意味がないのだ! トップに立たなければ!」
「なら、今の社長に託せばいい。自分の代でなんて、欲をかかなけりゃ叶えられたことだったんだ。あんたは従業員6000人を裏切ってきたんだよ。それを自覚しやがれ」
 ガクリと首を落として、爺さんは頭を抱えた。
「それよりも、自分の代で詫びを入れられることを、感謝したらどうだ?」
「なんだと?」
「自分が仕出かしたことの尻拭いを、息子や孫に押し付けることなく済ませられるんだぜ。こんないいことはねぇだろ。だが、あんたは老い先短い。今後、あんたの息子と可愛い孫娘は、世間から後ろ指を差されながら生きていくんだ」
「何とか出来んかね……美菜が、あまりにも可哀相じゃ。あの子は」
「したくもないね、自業自得だろうが。孫娘が可愛いなら、自分で責任を取れ。その孫娘との婚約だって、あんたらが勝手に夢見たことだからな」
 俺の言葉は、最後通牒のように聞こえたらしい。人目も憚らず、爺さんは嗚咽をもらした。そんなに孫が可愛いなら、とっとと自分の不正を公表してりゃよかったんだ。
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