Act.3 裏切られた想い...11

 あれからどのくらい時間が経ったんだろう。隆広に抱かれながら散々泣いて、落ち着いたところで抱っこされて会長室に戻って、そこのソファに座らされてからボーっとしていた。
 隆広は外回りの仕事とかで、あの嫌な感じの春樹と一緒に出て行っちゃった。時間がないって言ってたのは、外出するからだったんだ。
 瞼が痛い。視界がちょっと陰っているから、相当腫れているんだと思う。鏡で顔を見る気力もないよ。
「藤野さん」
 名前を呼ばれて顔を上げると、陰った視界に洋行が立っているのが見えた。トレイのような物を持っていて、そこに湯気の立つマグカップがある。
「少し落ち着きましたか?」
「あ、はい。すみません、あたしみっともなく泣いちゃって」
「気にすることはありませんよ」
 そう言って、あたしの前にトレイのマグカップを置いた。
「ココアを作りました。甘い物は平気でしょう?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
 頭を下げると、向かいのソファに洋行が座った。今朝、隆広のマンションで会った時と同じスーツ姿。着替えるのは隆広だけなんだ。
「洋行さん、お仕事はいいんですか?」
「隆広様から、一緒にいるように仰せつかっているので。俺の仕事は里久がやっています。一人くらい抜けても支障が出ないように普段から仕事の分担をしていますから、心配は要りませんよ」
 そうなんだ。ここにいるのが春樹でも吉永里久でもなくて、洋行でよかった。あの二人だと、更に心が荒みそうだもん。
 洋行が淹れてくれたココアに手を伸ばす。湯気が立っているのに、カップはそんなに熱くない。チョコレート色の液体に息を吹き掛けて、コクッと一口飲んだ。甘くて美味しい。
「お口に合いましたか?」
「はい、とっても美味しいです」
 もう一口飲んで、カップを膝の上に置いた。ホッと息をつくのと同時に、溜め息も漏れた。
「ショックでしたか? 立原真奈美のこと」
「え!? あ、はい」
 たちはらまなみ。ママの本名は本当に聞きなれない名前で、それすらもあたしは教えてもらっていなかったんだと、愕然とした。もしかして、専属のホステスになっていたら、教えてくれていたのかな。
 ううん、お店のホステスなら、ママの源氏名だけ知っていればいいんだよね。だからあたしに教えてくれなかったのは当然なんだ。ママにとってあたしは、専属ホステス候補の一人だったんだから。
 あ、また涙が出てきちゃった。これ以上泣いたら、瞼がもっと痛くなって目も開けられなくなるのに。分かっていても、涙なんか止まるわけなかった。
「藤野さん」
 洋行に声を掛けられて顔を上げると、目の前に湯気が立つタオルが広げられていた。
「どうぞ、顔を拭いて下さい」
「あ、ありがとうございます」
 受け取るとホカホカして温かい。蒸しタオル、作ってくれたのかな。熱過ぎず冷過ぎてもいなくて、ちょうどいい温かさだった。それをたたんで瞼に当てると、気持ちがよかった。痛かったのが少し緩和される感じ。
 目を瞑っていると、ママと初めて会った時のことを思い出した。いきなり銀座の高級クラブに面接にきたあたしに、ママは笑いもしなかったし追い返すこともしなかったんだよね。経験もないあたしじゃ、お門違いと門前払いされてもおかしくないのに。
 その一回、会っただけで採用してくれたから、優しい人だってあたしは思って、その内に色んなことを話すようになった。父親の顔も知らないこと、お母さんは小さい頃に死んじゃったこと。奨学金の返済のことは言わなかったけど、もしかしたら何となく分かられていたのかも。他のバイトの女の子たちと比べると、ずっといいバイト代をくれていたから。それを知ったのは、2年くらい経ってからだったけど。
 あたしは自分の境遇に同情されたりするのが昔から嫌いだった。でも、ママからそう思われるのは嫌じゃなかった。お母さんみたいに思ったんだよね。男のこと以外では、何でも相談出来た。就職したいって言った時も「頑張ってね」って言ってくれたのに。
 あの時から、あたしを就職させないって決めていたのかな。だとしたら、哀し過ぎる。それとも、ママの本心が分からなかったあたしがバカだったの?
 考えるだけ、自分が惨めになってきた。ずっと裏切られていたと知っちゃったから、もうママのところには行けない。これからどうやって生活していこう。
 蒸しタオルが冷たくなってきたので顔から離すと、アイラインとマスカラが見事に付いていた。メイク落ちちゃった。後で直そう。あ、でも目の前に洋行がいるんだった。まぁいいか、今朝は裸も見られちゃったし。
 タオルをたたんでテーブルに置いて、残っていたココアを飲んだ。こっちも冷めてきてるけど、それでも美味しい。
「あの、洋行さんはママのこと、詳しく聞いていますか?」
「そうですね。隆広様が知っていることなら」
「じゃあ、さっき見たこと以外にも、ママはあたしが就職出来ないようにしていたんですよね?」
 両手でカップを包みながら顔を上げると、洋行はちょっと気の毒そうな表情であたしを見ていた。同情はされたくないけど、その顔を見てやっぱりそうなんだ、と分かったことの方がショックだった。
「ええ、あなたが就活を始めた頃から、動いていたようですよ。冬樹が調べたことですので、おそらく間違いはないでしょう。さっき見た映像より、もっとえげつないことをしていることもあったようですし」
 そんなことをしているママは知りたくない。でも、ママに対するこの未練がましい気持ちも、持っていたくなかった。無言で見つめていたら、洋行は溜め息をついて話し始めた。
「藤野さんは、あまり大きな会社は受けてこなかったでしょう。ですから、その会社の親会社や上位取引先の社長に働き掛けて、あなたの就職を阻止させていましたよ。中にはあなたの履歴書を見てほしいと思った企業もあったようですが、立原真奈美はそれを許さなかった。底冷えする程の執念深さを感じました。どんな手を使っても、小夜を手元に置いておきたかったようですね」
「……そうなんですか」
 そんなことまでやっていたなんて。ママが動かなかったら、どこかに就職出来ていたかもしれないんだ。そう思うと、今までお世話になった感謝の気持ちとかが、吹き飛んでしまいそうだった。あの優しい笑顔の裏で、あたしを気遣っているような表情の下で、実はあたしを哂っていたの?
「それから、これは冬樹が調べた立原真奈美個人の口座の動きです。藤野さんが落ち着いたら見せるよう、隆広様から指示されました」
 そう言って、スーツの胸ポケットから折りたたんだ白い紙を取り出した。銀行口座の通帳みたいな表になっていて、出入金の額とその日付がプリントされている。
「冬樹が言うには、藤野さんに関連した件で動いたお金だそうですよ。出金の日付に見覚えはありませんか?」
「え? いえ、分かりませんけど」
「藤野さんが面接に行かれる、ほぼ3日前だそうですよ」
「え!?」
 信じられない思いで表を見ていくと、いくつかはあたしが面接した日のちょっと前になっていた。全部を覚えている訳じゃないけど、ちょっと冒険して大企業を受けた日の直前には、特に大きな金額が引き出されていた。200万や300万は当たり前、500万とか1000万の時もある。こんなにお金を使っても、あたしを手放したくなかったんだ。
 背筋が凍るような感じで、ゾクッと寒気がした。
「立原真奈美の強かなところは、その放出した金額の殆どが彼女の手元に戻っているということです」
「え、どういうことですか?」
 意味が分からなくて、もう一度表をよく見てみた。すると、何回か引き出された後で、一回に500万以上のお金が入金されているところがある。
「これのことですか?」
「ええ、さっきの映像で見たでしょう。謝礼として渡した金を『椿』で使わせるんです。使う方は、ただでもらった物ですから支払いに躊躇はありません。更に言えば、どこにも計上出来ない金ですから、残すより使った方がいい。そして立原真奈美にしてみれば、その大部分が戻ってくるのですから、大盤振る舞いで渡してもそれ程の痛手にはなりません」
 洋行の話を聞きながら、このプリントをクシャクシャにしてしまいたい衝動に駆られた。何でもいいから、何かに当りたい。
 ずっと信じていた人だったのに。すごく惨めで情けなくて悔しくて。泣き叫びたいのを堪えて、そのプリントを見つめていた。ママも、あのお姉様ホステスたちと同じだったんだ。汚い。
「大丈夫ですか? 藤野さん」
「え?」
 一瞬、洋行の声が遠くから聞こえたように感じて、慌てて顔を上げた。
「少し休まれますか? 隆広様が戻られるのは午後になってからですから、それまでは体を横になさっていても構いませんよ」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
「そうですか?」
 納得してくれてなさそうだったけど、それ以上は何も言わずに窓の方に視線を向けてくれた。さっきの洋行の声がした時、一瞬だったけど意識がふうっと遠くなりそうだった。疲れているのかな。考えてみれば、昨日は隆広と遅くまでセックスしてたし、お店ではお姉様方に虐められたしね。
 そういえば、昨日お店で隆広が気になることを言ってた。あたしを巻き込まないように早めにお店を辞めろってどういうこと? 洋行なら教えてくれるかな。そう思って訊いてみると、返って来たのは溜め息だった。
「隆広様は、本当に藤野さんが大事なんですね。そこまで言ってしまわれるとは」
「あれってどういう意味なんですか?」
「言葉通りですよ。いずれにしろ、もう『椿』には行かない方がいいでしょう。ノコノコ出て行ったら、立原真奈美の思う壺です」
 もうお店に働きに行くことは出来ないし、多分洋行の言う通りなんだろうけど。黙って辞めるのもどうなの? 同僚でそういう人は随分いたけど、何だか失礼だなって思ってた。あたしって甘いのかな。
「立原真奈美に義理を果たす必要はないでしょう。『椿』に行けば、帰ることは出来ないかもしれませんよ」
 そんな誘拐みたいなことまでするとは思えなくて笑っちゃった。そうしたら、呆れた顔で「笑い事じゃありませんよ」と言われてしまった。だってそんな、犯罪みたいなこと。
「それを平気でやる女だから、隆広様も警戒しているんですよ。これ以上詳しいことは、俺の口からは言えませんが」
 でも、このままだと収入がなくなっちゃうから、生活が出来なくなっちゃう。何より奨学金の返済に困る。
「生活に不安があるなら、隆広様に任せてみては如何です?」
「どういう意味ですか?」
「ですから、隆広様の身の回りのお世話したり、秘書になるのも一つの手ですね」
 やっぱり、そういうことを薦められるよね。あいつの秘書かぁ、この期に及んでもやっぱり嫌だな。そう思ったのが顔に出たみたいで、苦笑されちゃった。
「嫌ですか?」
「まぁ、そうです。棚からボタモチな話とは思いますけど、素直に受けられないっていうか、隆広のっていうのがどうしても引っ掛かるので」
「それは藤野さんが、隆広様を男性として意識されているからではないですか?」
「…………」
 ちょっと意外な言葉で、咄嗟に返すことが出来なかった。だってそんなこと、あり得ないし。そりゃ、隆広のことを好きなのかなって今朝も考えたけど。
 まさか、でも、本当に?
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