Act.2 この俺が女に惚れた? 嘘だろ...9

 咲弥子を連れて地下駐車場に降りていくと、機嫌の悪い里久が待っていた。
「なんて顔してんだ、里久」
「元からこういう顔です。そもそも、隆広様がこのお」
 この女と言い掛けた里久を、何も言わずに見据えた。俺は他人を黙らせるのに、よくこんな目をする。こいつには滅多に見せねぇからか、途中で口を噤んだ。普段は無口なこいつが、こんな反応を示すってのはやっぱり珍しいな。
 咲弥子も里久に負けねぇくらい仏頂面だ。流されて誘った自分に腹を立ててんのか、セックスが好きなら素直でいいじゃねぇか。俺は素直に喘いでる咲弥子が好きだぞ。言ったらまた煩く喚くだろうが。
 先に咲弥子を車に乗せ、トランクを開けさせる。抱えていたドレスの箱をそこに入れた。怒るというより拗ねてるような表情で、里久は無言で従う。
「お前、咲弥子が嫌いなのは、自分と同じ匂いがするからか?」
「そっ、別に、そういう訳じゃ」
 俺の問いは不意打ちだったようだ。綺麗な顔に戸惑いの表情を乗せた。
「僕と同じって、藤野咲弥子は施設育ちなんですか?」
「なんだ、気付いていて同属嫌悪かと思ってたぜ」
「どういう意味ですか。あの女が隆広様を淫らに誘ったりするから……。隆広様も僕の車の中では、絶対にあんなことしなかったじゃないですか」
 要するに、初対面が里久にとって最悪だったのか。意外に高潔だな。それにしても耳の痛ぇ話だぜ。あの時は俺も、酒の勢いと爺さんへの腹立ちと咲弥子への興味で、普通じゃなかったしな。
「冬樹の調べじゃ、お前とほぼ同じ境遇だな。咲弥子はお前と違って、随分可愛がられたようだが」
「僕は行った先々で酷い目に遭いましたからね、ろくでもない大人ばっかりでしたよ。だから、こんなろくでもない人間になったんです」
「お前はろくでもなくねぇぞ。春樹の言うことなんか、気にするな」
「そう言って下さるのは、隆広様だけです」
 冬樹や洋行もそう思ってるがな。二人とも口に出しても里久が信じねぇもんだから、もう言わなくなっちまった。聞く耳持たなくても、言い続けてやるもんだと俺は思っているが。
「その佐藤春樹が、煩いんじゃないですか? 僕と同じだと」
「予備情報は与えておいたし、もう冬樹が教えているさ。春樹だっていい大人だ、そこまで子供じゃねぇだろ。なんだ、孤児だと分かったら態度が変わったな」
「からかわないで下さい。彼女の境遇がどうだったのか知りませんけど、親がいないって結構つらいですよ。僕の場合は、親がいても同じでしたが」
 そんなことを自嘲しながら言うところは、まだ自分の過去ときっちり折り合いがついてねぇんだな。
 こいつは実の親から、精神的・肉体的に虐待されて育った。10歳で保護されるまで、学校に行ったこともなければ、戸籍すらなかったんだ。
 最初に保護された施設で、そこの所長の養子になったって話だが、すぐに別の施設に移っている。原因は、施設での虐待と虐め。字も読めなけりゃ、人とまともにしゃべったこともねぇ。そんな奴が共同生活なんて土台無理な話だろうし、ストレスが溜まっている奴らから見れば、格好の発散対象だろう。
 10箇所は施設を転々としていたこいつは、結局どこにも馴染めずにホームレスになった。俺が里久を拾ったのはこいつが15歳頃、推定という冠詞がつくが。何しろいつ産まれたのか、本人も分かりゃしねぇんだからな。便宜上15歳にして、俺が公式に保護することにした。
 その後3年間みっちり勉強して、自力で大学に入っちまった時は、さすがにたまげたぜ。まぁ、頭が良くなけりゃ、子供が独りでホームレス生活なんか出来るはずもねぇからな。
「咲弥子は母子家庭だったが、小学校へ上がる前に母親と死に別れて、高校を卒業するまで施設で育ったらしい。高校の学費は奨学金で賄ったんだそうだ。『椿』での稼ぎの殆どは、その返済に充てている。他のバイトより給料が多いと言っても、それと学費を差し引けば意外とギリギリかもな」
 ってのが、今日までに冬樹の調べた咲弥子の過去だ。漏れはねぇっつうから、不明の父親がどこぞの議員か会長なんてこともねぇだろう。
「それなら、心配するほどの境遇じゃないですよ。僕に比べれば、かなりまともです。隆広様が僕と同じ匂いを感じたっていうのが、ちょっと信じられませんね」
「親がいなくて施設にいたってのは、共通項だろ。お前と比べてまともでも、俺や東海林を貶めたい連中にとっちゃ、いいネタだろうな」
 行動が早い連中は、もうその情報を仕入れているはずだ。今日の夕方には咲弥子の過去に関しての情報を、全て冬樹が隔離してネット上に流出しないよう手は打った。今後探られる心配はないというが、それ以前に情報を見付けられていたら、何をしても無駄だという。ついでに言えば、里久の情報もとっくの昔にシャットアウトしてある。
「それでも、藤野咲弥子とは別れないんですか?」
「言ったろ、咲弥子以外はいらねぇって。たとえお前と同じように親に虐待されていても、気持ちは変わらねぇよ」
「そんなことを言ったら、また春樹が煩いですよ。それこそ僕の親と同じ匂いを感じます。あいつは絶対ドSで、人を人とも思わなくて、とても嫌な奴です」
 そういやあいつ、里久を縛り付けて笑い倒したんだっけか。昨日、密かに洋行から聞いたが、軽く拷問だったらしいな。女に逃げられて、ストレス溜まってんじゃねぇのか?
「どんなに有能な奴でも、僕はあいつが嫌いです。まだ藤野咲弥子の方がいい」
 こんな風にポロッと本音を言う里久は、初めて見たぜ。こいつにとって咲弥子がそばにいるのは、いいことなのかもしれねぇな。
「ふぅん、お前がその気になったんなら、咲弥子について反対する奴はもういねぇな」
「彼女が、隆広様とイチャイチャするのを見せ付けなければ、別に僕は」
 いちゃいちゃ……こいつの口から出ると、スンゲェ違和感のある言葉だな。そうか、こいつに女がいねぇのは、この綺麗過ぎる顔のせいなのかもな。一緒に歩きてぇとは思わねぇだろ。整い過ぎてるってのも考えものだな。
「ちょっと、なにさっきから話してんの!? あたしが就職出来ない理由を教えてくれるんでしょ! さっさとしてよ!」
 急に咲弥子が座席をドアを開けて顔を出した。すぐに引っ込んじまったのは、まだ機嫌が直らねぇらしい。
「何というか、彼女が入ってきたら、秘書室がけたたましくなりそうですね」
「それはそれで、賑やかになっていいんじゃねぇのか」
「他人事だと思って、勝手なことを言わないで下さい」
「ふん、マンションに帰るぞ」
「はい……え、あの、まさか、藤野咲弥子を連れて行くんですか?」
「そうだ。俺の本気具合が分かったかよ」
「…………」
 不敵に笑いながら言ってやると、里久は押し黙った俺を見返してきた。
「本当に、彼女がいいんですね」
「だから、何度もそう言ってる」
「分かりました」
 納得した顔で呟いて、自分の仕事をするべく咲弥子とは反対側のドアを開けた。



 俺が隣りに乗り込み、里久が車を出すと、咲弥子はむくれた顔を突き出してきた。
「さっきから何か深刻な顔してくっちゃべっててさぁ、あたしのこと忘れてたでしょ」
「ああ」
「…………」
 下手に釈明するよりいいだろうと思って素直に認めてやったのに、咲弥子は大口開けている。
「なんだよ、けったいな顔しやがって」
「けったい……やっぱりあんた男として最低。女の子にそんな言い方、ないでしょ!」
「分かった、悪かったな」
「なんか、そうやって素直なのも気持ち悪い」
「じゃあ黙ってろ。お前に惚れちゃいるが、だからってご機嫌取りをしようとは思わねぇぞ」
「あ、あたしだって、あんたにご機嫌取ってもらおうなんて、思ってないわよ! っていうか、肝心なこと忘れてるでしょ!」
 だよな。『椿』を辞めねぇと就職出来ねぇ理由を、教えてやる約束だった。まぁ、教えたところで信じねぇだろうが。
 隣りに座る咲弥子を改めて見る。俺に食って掛かる女なんて妹の多香子くれぇだったから、新鮮に感じたんだよな。東海林の名前を聞いて、驚きはしても媚びたりしなかった。むしろ逆ギレしてたもんな。ホステスになるために初っ端から『椿』の門を叩く辺りは、度胸の塊りみてぇだし。
「な、なによ?」
 俺がじっと見てるのが気になるのか、咲弥子はちょっと身を引く。うっすら頬を赤く染めてんのは、照れてるのか?
 冬樹の調べは、過去の男の情報にまで及んでいた。予想通り、ろくでもねぇ男と付き合ってきて、その度に泣きを見ていたのは咲弥子の方だった。あんな過去がありゃ、俺みてぇなのとは縁もなかっただろうが、それにしても悪い男に引っ掛かりまくりだ。ここらで終わりにしてもいいだろう。
 問題は、ここで『椿』を辞める理由を話せば、確実に咲弥子は帰ると言い張るだろうことだ。出来れば、マンションに連れ帰ってヤリてぇんだがな。
 だからって、その理由を話すことを条件に咲弥子とセックスするってのも、プライドが許さねぇ。
「お前の就職を妨害してんのは、『椿』のママだ」
「は? なに言ってんの?」
 案の定、不審そうな顔で……つかバカにしたような顔で、俺を見返した。4年間も面倒見てもらってりゃ、俺よりあの女の方を信用するだろうが、それにしてもその顔は傷付くぞ。
「お前をこのまま『椿』の専属ホステスにしてぇんだよ。そう、誘われてんだろ」
「そりゃあ、でもあたしはちゃんと断っているわよ! ママだってしょうがないわねって言いながら、分かってくれてたもん!」
「そりゃそう言うさ。だが、それで諦めねぇのがあの女なんだよ。お前が履歴書を出した会社、面接に行く会社、全てにお前を採用しないよう、働き掛けていたんだ」
「嘘よ! ママがそんなことするはずないわよ!」
「どうしてそう言い切れる?」
「だって、ママはいい人だもん。他のバイトのホステスよりもシフトの面で融通してくれたし、あたしのことをいつも気に掛けてくれてるし。就活してる今だって……」
 そこまで淀みなかった咲弥子の口調が、就活の話になった途端に止まった。なにか、気付いたようだな。
「どうした、言ってみろよ」
「な、なんでもない!」
「当ててやろうか。お前が面接する会社を、いちいち理由を付けちゃ、聞き出していたんだろう」
「…………」
「黙ってんのは、肯定してる証拠だぞ」
「は、話してただけだもん」
「ふん、本気でそう思ってんのか? お前だって、おかしいってさっき思ったんだろうが」
「違うったら!」
 怒鳴って顔を背けるのも肯定してるもんだが、それを指摘すると更にへそを曲げられそうだな。
「あの女はお前を『椿』のナンバーワンホステスにしてぇんだよ。本心じゃ、お前に就職してほしくねぇんだ。だが、お前の信頼を失いたくはねぇ。だから分からねぇように妨害してんのさ」
「そんなの嘘よ、あんたの作り話でしょ! あんたこそあたしを秘書にしたくて、でまかせ言ってんじゃないの!? あたしは絶対信じないんだから!」
「まぁ、今は信じろって方が無理な話だろうがな」
「今じゃなくたって、ずっとそうよ!!」
 窓の方を向いている咲弥子が、涙声で怒鳴る。暗い窓に映るその顔には、大粒の涙が零れていた。さっきもそうだったが、惚れた女の涙ってのは効くな。まさかこの俺が、女の涙で心を動かされるようになるとはな。
 しばらく車内に、咲弥子の微かな嗚咽が響いていた。その車が静かに停車する。俺のマンションの地下駐車場だった。
 今夜のセックスはお預けだな。こんな状態の咲弥子を泣かせても、白けちまうだけだ。
 里久が運転席から体ごと捻ってこっちを見る。
「隆広様、どうしますか?」
「俺はこのまま部屋に帰る。里久、お前は咲弥子をアパートに送って来い」
「ちょっと、あたし電車で帰るわよ!」
 ハンカチで顔を拭いた咲弥子が食って掛かってきたが、拭いた傍から涙がボロボロ零れてるぞ。
「そんな顔で、しかもこんな深夜に女一人で帰らせられるか!」
「泣いたのはあんたのせいじゃない!!」
 叫んだ咲弥子が右手を振り上げたのが見えた。
「隆広様!」
 里久の声と同時に、左頬が引っ叩かれる。痛ってぇな、手加減なしでやりやがって。
「……な、なんで?」
 自分で引っ叩いたくせに、なんで驚いた顔してんだよ。里久が車を降りようとするのを、右手を上げて止めた。
「ふん、これで気が済んだかよ?」
「ば、バカにしないでよ! なんで避けないのよ!」
「お前が引っ叩きたくなる気持ちも、分からないでもねぇからな」
「な、なに言って」
 俺は唖然と口を開けている里久を一瞥して、自分から車を降りた。運転席の車窓を叩いて、パワーウィンドウを下げさせる。
「隆広様、なにを考えているんですか!」
「言ったろ、あいつの気持ちを考えりゃ、これくらいはしょうがねぇ。それよりもトランクのドレス、ちゃんと咲弥子の部屋に届けろよ」
「分かりました。その頬、すぐに氷で冷やして下さい。明日、大変なことになりますから」
「ああ、分かった。ありがとよ」
 ジンジン痛む左頬を堪えて、窓を閉めた里久に手を振る。今度は、咲弥子がなにか喚きながら後部座席の窓を開けた。
「ちょっと! なに笑顔で手を振ってんのよ!」
「痛ぇんだよ! 笑ってなきゃやってらんねぇ!」
「ぅぐっ……ご、ごめん」
「ふん、謝るくれぇなら、人を殴るんじゃねぇよ。さっきのお前には、俺を引っ叩く資格はあった」
「すぐに冷やしなさいよ!」
「ああ」
 里久が車をバックさせた。俺は少し退いて、走り去るのを見送る。里久のアウディが完全に見えなくなってから、熱くなった左頬を左手で押さえた。
 くそっ、いってぇ!! 自慢じゃねぇが親にも他人にも、引っ叩かれたり殴られたりした経験はねぇんだ。女の平手がこんなに痛ぇとはなぁ。
 咲弥子が、ずっとこっちを見ていたな。これで少しは俺に心を開いてくれりゃ、いいんだが。
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