Act.2 この俺が女に惚れた? 嘘だろ...7

 翌夜、退社する直人を地下駐車場でとっ捕まえて、マスターの店に連れて行った。こいつのことだから、ばっくれるだろうと予想して、駐車場で張っていたのが正解だったな。そのために俺は今日一日、休憩返上で業務を終わらせた。今夜は夢ん中でも書類と睨めっこしそうだぜ。
 渋る直人を里久のアウディに蹴り入れる。いつもは里久がドアを閉めてから運転席に座るが、今回はそんな隙を作ったら、こいつに逃げられるのがオチだ。俺が直人の隣りに乗り込むのを見て、待機していた里久がすぐに車を出す。
 俺と里久の前では繕う必要がねぇからか、いつもの微笑は引っ込めて、渋面を隠しもしねぇ。
「こんな扱いをされるいわれは、私にはありませんが?」
「お前の機嫌を直してくれと、洋行が社員から泣き付かれたんだよ。荷物扱いされたくなかったら、笑顔で黒いオーラを撒き散らすんじゃねぇ」
「それの原因を作ったのは、あなたですよ?」
「休憩中にセックスしなけりゃ、どうということもねぇだろ」
「私はストレスが溜まっていたんです。あなただって、久し振りに出来る機会を潰されたら、怒るでしょう?」
「だったら溜めなけりゃいいだろうが。つべこべ言わずに大人しくしてろ」
「私はあなたほど、人間が出来ていないんです!」
 34歳の男がむくれてそっぽを向く……美形のこいつじゃなかったら、気色悪い光景だな。
「人間が出来てねぇんなら、出来る努力をしろよ。恋人を秘書に雇っていつも一緒にいられんだから、それだけでいいじゃねぇか」
「あなただってそうすればいいんですよ。一昨日の藤野さんはどうしたんです?」
「言われなくてもそうす、だっ!」
 突然車が急停止して、咄嗟に両腕でガードした。危うく助手席に正面衝突するところだったぜ。
「里久! いきなり何しやがる!」
「……なんでもありません、以後気を付けます」
 そんなガチで殺気をバリバリ放って、なんでもねぇはねぇだろうが。ったく、とことん咲弥子が嫌いらしい。しかも赤信号とは、なんつうタイミングだ。
 直人は涼しい顔で呆れた視線をくれている。顔が綺麗な分、そういう目付きがいちいち突き刺さるんだよ。
「隆広、今時は後部座席でもシートベルトが常識ですよ」
「うるせぇ。俺は里久の運転技術を信用してんだよ」
「それは結構なことですが……まぁ、装甲車並みに改造してあるこの車なら、事故っても破損することはないでしょうが」
 直人が、ドアの内側を手の甲で叩いた。見た目からは分からねぇが、同じ型のアウディと比べると、この車は300kg近く重い。その車体重量で最高時速は300キロを軽く超えるからな。里久と冬樹で改造の指示をしたって聞いてるが、どんだけ馬力のあるエンジンを積んでんだか。
 普通に買っても1000万はする車が、改造費で更に倍近くかかった。驚くというより呆れたぜ。とはいえ、俺の安全と引き換えと言われりゃ、納得するしかねぇわな。一応、東海林本家の跡継ぎだからな。俺も小さい頃から誘拐だの襲撃だのに警戒して、周りの連中はいつもピリピリしていた。
 あの煩い多香子や香緒里姉貴、おっとりな由香里姉さんまでもが、そういうことには随分神経を尖らせていたからな。男の俺ともなれば、過敏過ぎて笑っちまうくらいだった。
 幸いなことに、これまでそういう危険な目に遭うことはなかったが、会長にされちまうと笑ってもいられねぇ。ったく、こんな立場になんか、なるもんじゃねぇぜ。

 
 

 いつもの通り、里久は表に待たせて、直人を伴ってマスターの店に入ると、見覚えのある後ろ姿がカウンターに座っていた。
「東海林さん、珍しい、お連れさんですか」
 そいつの背後に立った俺に、マスターが声を掛けてきた。瞬間、そいつは口を付けたロックグラスから、勢いよく酒を吹いた。中身は琥珀色だから、ワイルドターキーでも飲んでいたか。
 隣のスツールに座ると、激しく咳き込んで涙目の咲弥子が俺を睨み付けてくる。ここで会えるなら、出来上がったドレスを持ってくるんだったな。
「なんで、あんたが、ここに、来るのよ!」
「そりゃこっちのセリフだ。なんでお前がここにいる?」
「この間ここのお店に迷惑掛けちゃったと思って、お詫びに飲みに来てたの! あんたが来るって知ってたら、来なかったわよ! ていうか、隣に座んないでよ!」
 相変わらず無礼な女だな。追い払うように、右手を振りやがって。俺は犬じゃねぇぞ!
「おや、藤野咲弥子さんじゃないですか?」
「うっ、社長さん。その節はどうも……」
 横から割り込んだ直人に、咲弥子は頭を下げて挨拶している。なんだ、この差は!
 釈然としねぇ気分を抱えていると、何も言わねぇ内にマスターが俺の前に、グレンフィディックのロックを置いた。直人はいつ頼んだのか、マティーニが出ている。こいつは俺ほど酒が強くねぇっつっても俺と比べてであって、普通よりは強い方だな。ほろ酔いはともかく、泥酔したところは見たことねぇ。
 メールでも送っていたのか、操作していた携帯をしまって一息でマティーニを半分消化し、俺の横から咲弥子に声を掛けた。
「隆広の秘書の件、考えてくれましたか?」
「あー、や、それは、まぁ追々……」
 咲弥子の奴、愛想笑いなんかしやがって、ムカつくぜ。
「おい、なんで直人には愛想がいいんだよ」
「あんたじゃないからよ! だから、寄んないでってば!」
「その犬を追い払うような手はやめろ、無礼な女だな」
「あんたなんか犬と同じ! なによ、デリカシーもないくせに」
「それとどう関係がある!」
「あたしには大有り! なんだって同じところでまた会わなきゃいけないのよ!」
「お前の方から来たんだろうが」
「隆広が人前で痴話喧嘩なんて珍しいですね」
「これが痴話喧嘩に見えるか! 直人」
「東海林さんの恋人になったんですか?」
「ち が い ま す!!」
 ちっ、んな思いっ切り否定しなくてもいいだろうが。ぜってー連れ帰って、泣かせてやる!
 直人は俺に背を向けて肩を揺らしてやがる。
「大変珍しく面白いものを見せて頂きました。いいでしょう、ご希望通り機嫌は直して差し上げます」
「なんだ、その恩着せがましい言い方は。お前の社員が俺に泣き付いたんだぞ!」
「分かりました、業績悪化を防ぐためにも、明日からは平常通りに過ごします。それにしても、本当に藤野さんが気に入ったんですね」
 直人の言葉に「げっ!」と咲弥子の声が聞こえる。本人は声を小さくしたつもりのようだが、ばっちり聞こえてんだよ!
「ああ、そうだ。俺はこいつ以外はいらねぇんだよ」
「なによそれ!」
「この前言っただろうが。お前がほしいって」
「ぎゃああー! 言うな、アホ!」
 咲弥子の奴が耳を押さえて雄叫ぶ。この前別れた時のことを思い出したんだな。ふん、もっと体に覚えさせてやろう。
 俺の前にある手をひっぺがして、耳の穴ん中に静かに長く息を吹き掛けてやった。咲弥子は顔を真っ赤にしながら体を震わせ、腰砕けでカウンターに突っ伏した。
「あ、あんたねぇ、あたしがこれ、弱いの知ってて」
「俺をアホ呼ばわりするからだ」
「このS男!」
 直人がマティーニを吹き、腹を抱えて爆笑している。こっちの方が俺には珍現象だぜ。
「ならお前はマゾだな」
「誰が! 変なこと言わないでよ!」
「お前、性懲りもなくまた面接に行っただろうが。それのどこがマゾじゃねぇって?」
「な、なんで知ってんのよ!?」
 相っ変わらず紺色のスーツなんか着やがって。分からいでか! つか、予備のスーツを持っていたとはな。クリーニングの仕上がったリクルートスーツがホテルから咲弥子のアパートに届くのは、今日の夕方辺りのはずだ。
「お前のやりそうなことくらいお見通しだ」
 咲弥子は悔しそうに唇を噛んでいる。この前もよくこんな顔をしていたな。俺に敵うわけねぇだろ。
「どうだったんだ?」
「なにがよ?」
「面接の首尾だよ」
「うぐっ、それを訊くわけ? 相変わらずデリカシーないわね!」
 ふん、やっぱり手応えはなしか。昼間、冬樹から咲弥子の調査結果と『椿』の概要が上がってきた。後日『椿』に行こうと思っていたが、あそこじゃ話しにくいこともある。今日ここで会えたのは、逆によかったかもな。
 報告書の内容は覚えている。俺の話だけじゃこいつは信じねぇだろうが、まぁ物はためしだ。ストレートにやってみるか。
「咲弥子、就職したかったら『椿』を辞めろ」
「は? なに言ってんのよ!? あたしは生活するのにお金が必要だって言ったでしょ! その歳でもう健忘症?」
 いちいちムカつくことを言うな。俺の秘書になったら、春樹と気が合うかも知れねぇぞ。
「親切で言ってやってんだ。『椿』にいる限り、お前は就職出来ねぇよ」
「辞めないわよ! あんたに言われてなんて、絶対辞めるもんか!」
 とことん俺に反抗するつもりか。ったく、面倒臭ぇ奴だ。
 どう説得してやろうか考えていると、横から直人が口を挟んできた。カウンター上のカクテルがスターダスト・レビューに変わっている。ジンベースにブルー・キュラソーが加わって、鮮やかな青い酒がカクテルグラスに満たされている。辛口でアルコールがかなり強い。顔に似合わず、甘い酒が苦手な奴だ。
「隆広、『椿』というとあの銀座の最高級クラブのですか?」
「ああ、お前は……行ったことねぇか」
「ええ、私はそういった接待は、全てお断りしていますから」
 海東物産の代表取締役ってことは、東海林グループの最高幹部の一人ってことだ。それなりの地位も責務もある。断れねぇ接待もかなりの数に昇るが、こいつは断固として受けたことがねぇ。こういうことが出来る奴だから、こいつを強引に社長に据えた。万が一、東海林の血縁を社長の椅子に座らせたら、老獪なじじい共にしがらみで縛られて、いいように丸め込まれちまうからな。こういう奴が幹部に一人や二人はいねぇと、俺自身が身動き出来なくなる。
「お前にはそういう選択肢があるから、自由でいいよな」
「あなたはその点、がんじがらめですからね。同情しますよ」
「ええ!?」
 咲弥子が唐突にデカイ声を上げた。耳元でうるせぇな。意外そうな顔で俺を見上げやがって。
「なんだよ?」
「だって、あんた、好き勝手やってんじゃなかったの?」
「天下の東海林グループ会長ですよ? 好き勝手にすれば、すぐに叩かれます。隆広はこんな性格ですから、誤解を与えることも多いですが」
「お前も一言多いぜ。誤解する奴にはさせときゃいいのさ。その方が煩わしくねぇ」
「まぁ、こんなことを言ってますが、私が接待を断れるのも、隆広がいるからこそですよ。随分と私の身代わりになってくれましたからね」
「ふん、お前に逃げられるわけにはいかねぇからな」
「そういうことにしておきましょう」
 真顔で礼を言われるのは、あなたも慣れないでしょうから。囁く声でそう付け足す。ちっ、本当に余計なことを言いやがる。あんな面倒臭ぇ仕事に就かせるんだ、それなりの見返りは必要だろうが。
「はあー、信じらんないわ。あんたがねぇ」
「隆広は信頼出来る人間です。私は彼の秘書になることをお勧めしますがね」
「…………」
 その一言で、咲弥子が真剣な顔をしたのは、なんか腹立つな。俺の言うことには全く耳を貸さねぇくせに、こいつの言葉は素直に聞けるってことだろ。舐められてるみてぇで、気分悪いぜ。
 直人はスターダスト・レビューを飲み干すと、早々に席を立った。
「では隆広、私はこれで失礼しますよ。藤野さんとごゆっくり」
「ふん、言われるまでもねぇ。明日から社員を泣かすなよ」
「私は泣かした覚えはないんですけどね」
 しれっと言いやがる。
「そうやって笑顔で黒いオーラを撒き散らさなきゃいいんだよ」
「ふむ、善処しましょう」
「政治家みてぇなこと言うんじゃねぇ」
「少しは実感こめて言ったんですけどね」
 苦笑したところで、腹ん中じゃ舌出してんだからな、こいつは。ま、それくらいじゃねぇと、あそこの社長は務まらねぇが。
「足はどうするんだ?」
「ご心配なく、詩織が私の車で迎えに来ます。ようやく今夜、彼女とゆっくり過ごせますので」
 なるほどな、昨日春樹に脅させてアポ取ったのに、逃げようとしてたのは赤星とデートだったからか。まだ8時を回ったところだ。時間はたっぷりあるだろ。
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