Act.2 この俺が女に惚れた? 嘘だろ...5

 姉貴のお陰で煩ぇ多香子から解放され、実家を出た時は9時を回っていた。
 む、遅刻だな。まぁ俺が何時にオフィスに出ようと、咎める奴はいねぇが。
 舘の駐車場で待っていた里久は、少し機嫌が直っていた。着ているシャツが汗ばんでいたから、庭で筋トレでもしてたんだろ。ホントにストイックを形にしたような奴だぜ。
 実家からオフィスまでは約30分。昨日、咲弥子を連れてきたビルに入っていく。
 里久を残して先にオフィスに上がった。会長室は直人の部屋より一つ上のフロアだ。自分の部屋に行く前に秘書室に顔を出す。これはいつもの日課で、大抵は冬樹と洋行もいるんだが、今日は春樹だけだった。
 佐藤春樹はここの室長で、俺のスケジュール管理と外部との交渉を一手に引き受ける、有能だが一番口が悪い秘書だ。
「おす」
「ひく」
「……お前な、上司がきて挨拶したのに、んな返答はねぇだろが」
「おはようございます。ご隠居のお話は無事に済みましたか?」
 しれっとして言い直しやがる。まぁ従順にされても、白けるだけだが。
「ああ、見合い話がきていた」
「高嶺建設の社長令嬢でしょう」
「ふん、冬樹か?」
「ええ、先方もご隠居も、非常に乗り気だったそうですね」
「ああ、爺さんから聞いた。アホらしくなるほど、春爛漫なオーラがばんばん出てたぜ」
 面倒な説明をする必要がねぇってのは気分がいい。
「それで、お受けしたんですか?」
「なんでだ?」
「えっ、だってズバリ隆広様のドストライクなタイプの女性ですよ?」
 そこまで驚くこたねぇだろうが。今まで付き合ってきた女は、確かにあんなんばっかりだったが。
「せっかく晴れているんですから、雷雨を降らせるような珍回答をしないで下さいよ」
「お前は……俺をなんだと思ってんだ」
「お付き合いしている女性がいなくて、お見合いの相手がタイプな女性だったら、受けてもいいとおっしゃっていたじゃないですか」
「そりゃ10日も前の話じゃねぇか」
「もしや新しい女性が出来たんですか? まさかと思いますけど、一昨日マスターのバーで出会った、泥酔女ですか?」
 なんだ、その胡散臭そうな顔は。里久の奴、どんな説明したんだよ。いくら気に入らねぇからって、脚色するような奴じゃねぇぞ。
「後で話す。お前らに用もあるしな」
「では、なるべく早く揃って会長室に伺います。ですがその前に」
 改まってなんだ? わざわざ咳払いなんかしやがって。
「高木社長から昨日、貴重なセックスタイムを邪魔されたと、私に苦情が来ました。いつもはちゃんとアポイントメントを取るんですから、勝手なことをしないで下さいよ。しかも女連れだったとか。もう一度訊きますが、あの泥酔女ですか?」
「お前、里久の口を割らせるのに何をしたんだ?」
「隆広様も口を割りたくないようですね。まぁいいでしょう。簡単です、取っ捕まえて縛り付けて、笑い倒したんです」
「笑い倒す?」
「体中をくすぐってやったんですよ」
「…………」
 くすぐった? あいつを? 里久がくすぐられて体をよじりながら大笑いする様を想像しようとしたが、これっぽっちもイメージ出来ねぇ。
「あいつが大笑いしたのか?」
「ええ、それはもう盛大に。洋行も冬樹も見てましたよ」
 そりゃ里久のプライドは粉々に砕かれただろうな。気の毒に。
「しかしお前の細腕で、よく里久を捕まえられたな」
「彼にも弱点はありますからね、そこを突いてやれば簡単です。冬樹と洋行にも手伝わせましたから」
 里久にも弱点があるとは興味深いが、訊いてもこいつは「教えてしまったら私の楽しみが半減しますので、お断りします」とのたまいやがった。温厚面のくせにサド気質な奴だ。
「まぁあんまり虐めてやるなよ。一番年下なんだから」
「虐めているつもりはありませんので、大変不本意なご意見ですが、一応頭の隅には置いておきます」
「ああ、そうしとけ」
 ひらひら手を振って会長室に引っ込もうとしたところで、車を車庫に入れてきた里久が戻ってきた。ドアを開けた途端、春樹の姿を見てギロッと睨み付ける。すげぇ目が怖ぇぞ。一昨日の比じゃねぇな。俺には黙って頭を下げて、自分の席に着いてパソコンを起動させる。
 秘書とはいっても、里久は俺の護衛と運転手が主な業務だから、デスクワークは俺宛のメール整理くらいだ。ただし届くメールの量は半端ねぇから、毎日数百通と格闘している。
 春樹は里久の睨みをあっさりとスルーして、自分の席に着いた。この二人しか秘書室にいねぇと、いつもここの空気は一触即発の殺伐としたもんだ。和気藹々しろとは言わねぇが、よくもまぁこんな中で仕事が出来るもんだぜ。
「あ、隆広様。午後から面会がたて続けにありますから、書類の目通しは昼までにお願いしますよ」
 春樹の声を背中に受けながら、手を振って秘書室を出た。
 ドア一枚隔てた会長室に入ると、ちと気が滅入る。直人の社長室よりも更に広い俺の部屋、窓際にあるデスクの上には、有無を言わさず書類の山が積まれていた。コレ全部に目を通せってか。あと2時間で。
 一日休んだだけでこの高さだ。長期休暇なんかした日にゃ、どんだけ積み上がるか。考えたくもねぇな。とはいえ、休まねぇなんて選択肢はいらねぇし。しょうがねぇよな、引き受けちまったもんは。
 会長室には、いざという時に俺が逃げ込める、プライベートな小部屋がある。そこで仕事着に着替えた。

 
 

 書類と格闘すること1時間……。なんてモノローグやってる場合じゃねぇ。ようやく半分まで、山を減らせたぜ。
 グループ傘下全企業一週間分の、物流・人流・管理会計・営業利益に経常利益……要するに、各企業のあらゆる動きが表となり文書となって、俺の元に上がってくる。俺はそれを元に各企業の事業展開を考えていくわけだ。
 基本は各企業のトップが指揮を執るが、そいつらにGOサインを出すのが俺だ。そいつらの人事を決めるのも俺。俺が出なきゃならねぇ会議がないのは助かるが、その分決裁しなきゃならねぇ書類やら文書やらがやってくる。全企業分が一挙に押し寄せるわけじゃねぇのが、せめてもの救いだな。各分野ごとに日がズレているのは、春樹のお陰だ。口は悪いが俺の業務が滞りないように差配する能力は、やっぱり優秀だぜ。
 それに面会。各企業の代表取締役やら専務取締役やらが、何だかんだと理由を付けちゃ俺のところにやってくる。わざわざ面会に来る連中は、大抵二つに分かれている。
 一つは俺派、つまり古い体質とおさらばしたい連中で、何かにつけて俺と組もうとする。もう一つは前の方がよかった派、親父や爺さんと同年代の連中が多い。おっさん連中から見れば俺はひよっこみてぇなもんだからな、何かにつけて俺を貶そうとする。どっちつかずって奴らもいるが、そういう奴らは両派を高みの見物よろしく眺めてるんで、放っといていい。いざとなれば俺に付くよう、当然裏工作済みだ。
 俺に継がせることが、最悪グループを分裂させる事態になり兼ねねぇって、爺さんは考えなかったのかね。それとも自分が後見になれば、抑えられると考えたのか。俺が継いで一年間は、どこに行くにも誰に会うにも爺さんがベッタリ貼り付いていた。そこで俺がヘマをしなかったのに安心したのか、二年目に入ってからは爺さんも本家に引っ込んでいることが多くなった。
 爺さんがいないことで身軽にはなったが、俺を舐めてる連中は此れ幸いとちょっかいを出してくるのが鬱陶しい。重役連中の人事権を持っているとはいえ、気に入らねぇからって無計画に辞めさせる訳にはいかねぇからな。俺と対立してもグループ全体から見ればマイナスにしかならねぇのに、それも分からずに噛み付くいい歳したオヤジ共がいるから面倒臭ぇ。
 爺さん派の連中は、本家に度々面会に来てるらしい。あることないこと吹き込んでいるんだろうが、これまでのところ爺さんがそれに惑わされたってことはねぇな。だが今後は少し注意した方が良さそうだ。爺さんの様子だと、咲弥子の受けはあんまよくなさそうだしな。それこそ、妙なことを吹き込まれたら、信じまいかねねぇ。
 ふん、俺も咲弥子のことは少し調べた方がいいか。
 小休止に煙草に手を伸ばす。おっと、大事なことを忘れてたぜ。今の内に済ませておくか。
 火の点いた煙草を咥え、携帯で俺の仕事着をオーダーメイドしている仕立て屋に連絡を入れた。
 俺が『椿』に行ったことが知れ渡ってるなら、指名したのが小夜だってことも、同様だろう。俺が客に付いたってのに、小夜が安物のドレスなんか着てたら、また何を言われるか知れたもんじゃねぇ。東海林の名前自体も低く見られちまうからな。
 裾は歩きやすく見た目はゴージャスに。そんな注文を付けて至急で3着作らせることにした。向こうじゃ悲鳴を上げてたが、いつも通り仕事をしてくれりゃ、明日の夕方には出来上がるだろう。
 咲弥子のアパートに直接届けさせてもいいが、あいつの存在はあまり広めねぇ方がいいな。届け先をいつも通りここに指定して携帯を切った。まぁ咲弥子が大人しく受け取るとは思わねぇが、着させる自信はある。
 煙草を一本吸い終えたところで、ノックがした。
「入れ」
 秘書室に繋がるドアから、春樹たちがやってきた。四人揃うのに、随分時間が掛かったな。冬樹が何か調べてたのか?
「隆広様、休憩中でしたか」
「おう、タイミングいいな」
 片手を挙げながら、二本目に火を点ける。ヘビースモーカーと言われる俺だが、仕事の時は吸わねぇことにしてる。喫煙は俺の息抜きなんだ。それを理解しねぇ頭の固い奴もいるが。
「また煙草ですか? そろそろ禁煙を考えたら如何です。隆広様が肺ガンでくたばろうと隆広様の勝手ですが、我々が副流煙でとばっちりを受けるのはご免ですよ」
「ふん、この中じゃ俺と長くいる時間はお前が一番だからな。お前が肺ガンにでもなったら、労災くらいは降りるようにしてやるよ」
「ガン保険にも入っていますよ。ところで、洋行と冬樹から報告があるそうです」
「なら先に聞こう」
「隆広様のご用は?」
「後からでいい」
 どうせ咲弥子の履歴書を見せるだけだ。
 件の二人が顔を見合わせ、洋行が軽く挙手をした。
「では先ず俺から。高木社長のことです」
「直人の? なんかあったのか?」
「あったのか? じゃないですよ。さっき高木社長に書類を届けに行ったのですが、穏やかにいつもの微笑み浮かべて、真っ黒いオーラを撒き散らしているんですから、心臓に悪いです。ヤスリで寿命を削られてるような感覚ですよ、あれは」
 あいつは性格悪いからな。機嫌が悪い時ほど愛想がいい。それを知ってる奴なら、近付きたくもねぇだろ。
「昨日、隆広様が急に押し掛けたせいです。あれ以来、高木社長の機嫌は超低空飛行だそうですよ。あれでは社員が可哀想です」
「セックスを中断されただけでかよ? あいつも心が狭いな」
「というか、赤星秘書が五日前まで、その、女性のアレだったのと、予定が立て込んでデートする暇もなかったために、久しぶりに出来るチャンスを潰されたとか。夜は元々会食の予定があったそうで、あの昼休みが本当に貴重な機会だったらしいです」
 だからって何でお前が俺に恨めしげな視線を向けるんだよ! ったく、しょうがねぇな。
「分かったよ、俺がなだめてやりゃいいんだな?」
「と、会った社員からことごとくお願いされました。赤星秘書も、さすがに手を焼いているようです」
「確か今夜は俺も予定があったな」
 誰かと会う約束があったはずだ。春樹を見ると、うなずいて口を開く。
「隆広様好みの広告代理店の女社長と会食が入っています」
「なんでそこを強調するんだ?」
「ご隠居の見合い話を断られたからです。あんなに隆広様好みのご令嬢なのに」
 爺さんならともかく、なんでお前からそんな残念そうに言われなきゃならねぇんだ。そんなに高嶺建設とパイプを作りてぇのかよ。
「しょうがねぇな、明日の夜、直人にアポ取っとけ。嫌がったら何でもいいから脅していい」
「本当に何でもいいんですか?」
「常識的な範囲でだ」
「…………分かりました」
 返事をするまで随分間があったな。まぁ相手が直人なら、多少無理な脅しでもいいが。
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