Act.1 お願い、悪い夢だと言って!...10

 絶対ラッシュに巻き込まれるかと思っていたのに、遅刻することなく出勤することが出来た。隆広の運転技術が凄いと言うべきなのか、6時30分ちょうどにお店の前に到着した。
 近くで降ろしてくれればいいって言ったのに、まるで意地悪のように、お店の真ん前に車を停めた。当然のことながら、あたしが降りるのをエスコートする。
 目立つ外車で銀座のド真ん中。こいつ自身も目立つ男だから、嫌でも注目を浴びることになった。当然、出勤途中の同僚たちも、立ち止まってあたしたちを見ている。ああ……これでもう今日は針のムシロだわ。
「送ってくれてありがとう。今度こそ、もう姿を見せないでよね」
「ふん、棒読みで礼を言われても、ちっとも嬉しかねぇぜ。まぁ、精々頑張って来い」
 そう言って肩に触れてこようとしたから、睨み付けて止めさせた。これ以上、何にもしないで!!
 背中に隆広の視線を感じながらお店に入り、控え室に行くと、当然のように同僚のお姉様方に囲まれた。
「ちょっと小夜、あの人誰!?」
「こんなドレス、どうやって手に入れたの!?」
「バイトの癖に、いつの間にあんな金持ちそうなイケメン、掴まえたのよ!?」
「就職するなんて言いながら、あたしたちと張り合う気なら、容赦しないわよ!!」
 ああああもう!!
 こういうことになるから、お店の手前か奥で停めてって言ったのに、あの俺様御曹司め!!
「あたしはちゃんと必ず就職します! あいつは単なる行きずりの男! ドレスはややこしい事情で押し付けられただけで、好き好んで着てるんじゃありません!!」
 煌びやかなお姉様方に囲まれた真ん中で、精一杯声を張り上げて訴えた。
 着なきゃここを潰すって言うんだから、しょうがないじゃない! そう喉まで出掛かって、何とか呑み込んだ。こんなことが知れようものなら、こんな追及じゃ収まらないもの。
 みんな胡乱気な目であたしを見ている。でも、これが本当のことなんだから!
「失礼します!」
 人の輪の隙間からズカズカ進んで、部屋の隅に移動した。背中に感じるみんなからの視線が痛いけど、もうどうしようもない。くそぉ、絶対この仕返しはしてやるんだ!!
 密かにあいつに対する報復を心に決めていると、「小夜ちゃん」と呼ばれた。これ、あたしの源氏名。さやこだからさよって捻りも何にもないけど、シンプルだから結構気に入ってる。
 振り向くと、にこやかな顔をしたママがあたしを呼んでいた。年齢不詳のママは、オフショルダーのセクシーな黒いドレスを素敵に着こなしている。首元に光るネックレスとイヤリングは、本物のダイヤ。もう美女としか言い様がない人で、毛穴なんて存在しないんじゃないかと思えるくらい綺麗。
 そのママが、にこやかな顔をしている。一見して穏やかそうだけど、こういう表情をしている時は、意外と要注意。多分、このドレスと送って来た隆広のことだろうなぁと思いつつ、腰を上げた。
 その場では何も話さず、お店のオフィスに通された。うわぁ、これはいよいよ深刻な話だわ。
 ソファーに座るように促されて、ママと対面するように座った。
「何の話かは、小夜ちゃんのことだから、分かっているでしょうね。さっき小夜ちゃんを送ってくれた人は、東海林隆広ね?」
「はい、そうです。別に知り合いでも何でもなくて、偶然にこういうことになっちゃったんです」
 普段はあまりやらないけど、今回ばかりは先回りして釈明することにした。バッサリ端折ってはいても、嘘は言ってない。そもそもバーで会ったこと自体が偶然だったんだから。
 っていうか、お姉様方は分からなかったのに、顔を見ただけであいつの正体が分かるって、さすがママだわ。
 ママは頬に手を当てて、考え込むようにあたしを見ている。嫌な視線じゃない。ただ、あたしの言葉と表情から色々読み取ろうとしている、とは感じた。
「彼がどういう人物かは、知っているのね?」
「それはもう、嫌というほど!」
 俺様で最低でデリカシーがなくて、変なところで紳士な奴。さすがに口に出しては言わなかったけど、あたしにとって東海林グループの会長は、こんな奴だ。
「そのドレスは、彼から?」
「はい。あたしは着たくなかったんですけど……」
 脅されたことは、言いたくなかった。言葉を濁しただけで、きっと気持ちは理解してもらえると思ったから。それなのに、ママの言葉はそれから大きく外れていた。
「そう、小夜ちゃんによく似合ってるわ。あなたの魅力を十分に分かってくれているのね」
「は?」
「いいお客様になるといいわね。小夜ちゃんにとっても、『椿』にとっても」
 え!? あ、あの……それはどういう意味でしょか?
 ママの言葉をぐるぐる考えている間に、話は終わったとでも言うように、ママは席を立ってしまった。
「さぁ、もうじき開店の時間よ。小夜ちゃんも準備して」
「は、はい……」
 ヤバイ! 絶対に誤解された!! ママにだけは、そういう誤解をされたくなかったのに!! 最悪じゃん!?
 くそぉ、やっぱりあいつに仕返ししてやる!

 
 

 気持ちの上ではどんなに腸が煮えくり返っていても、笑顔でサービスするのは、この仕事じゃ当たり前。いや、どの仕事でも同じか。
 今までは地味なドレスであまり目立たないようにしていたのに、今日はこの無駄に目立つドレスのお陰で、やりづらくて仕方が無かった。お客様の注目は集めちゃうし、お姉様方からはほしくもない剣呑な視線を頂いたちゃうし。もちろん、あからさまになんて絶対にしてこない。それがまたイライラに繋がるのよね。
 予想はしていたけど、この針のムシロは、なかなかに強敵だった。何度溜め息を押し殺したことか!
 開店して2時間ほどが経った頃、ホステスとお客様の会話でざわついていた店内が、一瞬水を打ったように静まり返った。
 その時のあたしはご指名を受けて、かなり歳のいったお客様のテーブルに着いていた。バイトのあたしでもお得意様はいてくれて、この人もその一人。60歳はとっくに超えてるだろうなぁ、とは思うけど実際の年齢なんて聞いたことは無い。あたしでも知ってる一流企業の社長さんであることを、名刺を頂いて知っているだけ。
 でもこの人のお相手をしているお陰で、煩わしい視線を感じ取ることがなかったから、今日は来てもらえて本当によかった。
 ざわついていた店内が急に静まり返ったのは、このお客様と経済談義に花を咲かせていた時だった。
 何じゃい? と思って顔を上げたら、思わず声を上げそうになったよ。
 緊張したような顔の黒服に案内されているのは、東海林隆広じゃないか!! 涼しげな顔をして、やけに場慣れしているように見える。急に静かになったのは、こいつが登場したから? どんだけ目立つ存在なのよ!? まぁ、確かに存在感はある奴だけどさ!!
 フロアにいる全員がポカンと口を開けて見送る中、あいつが通されたのは、何とVIPルーム。そりゃまぁ、天下の東海林グループ会長だから扱いは全く違うだろうけど、このお店、一見さんはお断りだったはず。まさか、あいつもお得意様の一人だったのかぁ!?
 すぐ後から、ママも同じVIPルームに入っていく。きっとママのお客なんだ。だから、あいつの顔を見ただけで、ママは正体が分かったんだ。ちょっとホッとした。
 あいつの姿が消えると、再びフロアに活気が蘇った。さっきよりざわつきが大きく感じるのは、きっとあいつの噂をしているからなんだろうな。
「珍しいね、彼がこういう店に来るなんて」
 隣に座るお客様が、溜め息と共にボソッと言った。タバコを口にされたので、すかさずライターで火を点けて差し上げる。あいつのことは、知っていると思われない方がいいと判断して、話を振った。
「ご存知なんですか? 今の男の人」
「小夜ちゃんは……まぁ顔は知らないか。名前は聞いたことがあるだろう、東海林隆広という」
「まぁ、もしかして東海林グループの会長の?」
「そうだ。今年30歳になったのか、若い身でありながら東海林グループの全権を握る男だよ」
 さんじゅう!? てっきり20代後半かと思ってたよ。ま、そんなに変わらないか。
「お若いんですね。会長さんて、もっとお歳を召した方がなると思ってました」
「彼の祖父に当たる先代の会長が、後見になって指導しているらしいな。しかし小夜ちゃん」
「はい?」
「いつも思っているんだが、私はこういう話しか出来ない男で、いつも経済の話ばかりしているが、いいのかい?」
「はい、全然構いません。私はこういうお話が好きですし、とても勉強になりますよ」
 ニコッと微笑んで、お客様に2杯目の水割りを作って差し上げた。このウィスキーの水割りも、あたしが作ると美味しいって評判なのよね。
 お客様は、安堵したような満足したような顔で、受け取った水割りを美味しそうに飲んでいる。学費と生活費を稼ぐためだけにここで働いているけど、お客様のこういう反応を見ていると、やりがいはあるよね。
 いい雰囲気で、さっきの話の続きをしようと思っていたら、ママがテーブルにやって来た。
「小夜ちゃん、いいかしら。ご指名よ」
 う、それはもしや、東海林隆広でしょうか?
 何も言ってないのに、ママは穏やかに微笑んでうなずいた。
 行きたくないけど、行かないと今度は色々と探られるかもしれない。仕方なく、あたしはお客様にお詫びを言って、席を立った。お客様は、ちょっと驚いたような顔をしていた。そりゃまぁ、ああいう状況ですぐにママが呼びに来れば、指名の相手があいつだってことは、分かっちゃうわよね。
 あたしが立った後、すぐにママがお客様の傍に座ってくれた。あたしの代わりがママなら、お客様も文句は言わないもんね。
 それより、こっちが問題だよ。二度と姿を見せないでって言ったのに、あの俺様最低野郎!!
 フロアを歩いていると、周りからお姉様方の視線が体中に突き刺さる。あたしだって、指名されて迷惑してるわい!
 このやり場の無い怒りは、あいつにぶつけるしかない!
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