Act.1 お願い、悪い夢だと言って!...5

 エレベーターが地下に着く頃には、ボロボロに泣いていた。こんな顔、誰にも見せられないよ。どこの階にも止まらなかったのは、幸いだった。
 扉が開くと周りも確認せずに、ひたすら歩いた。歩く度にヒールがカツカツと、甲高い音を立てる。
 いつまで経ってもヒールの音が止まないから、泣いて痛い目を開けて、周囲をよく見てみた。壁にある出入口の文字と矢印が示すのは、逆方向だった。今まで闇雲に歩いていたから、それに気が付いていなかった。そっちに向かって再び歩き出す。
 ようやく明るくなって地上を歩き出してから、だんだん嗚咽を抑えられなくなってきて、子供みたいにわんわん泣きながら歩いた。周囲から注目されているのが分かった。でも、途中で泣き止むことは出来なかった。こんなに泣きわめくのは、凄く久しぶりだ。
 どこに行くとも決めてなくて、ただ足を動かしていたら、突然、後ろから羽交い締めにされた。体に感じるのは、スーツの感触と力強い腕。そのまま後ろに引きずられる。
「いや! 離してぇ!!」
 拘束されてもジタバタもがいていたら、耳元で囁かれた。
「分かった。離してやるから、今は言うことを聞け」
 隆広の声だ。もう二度とあたしの前に姿を現さないでって言ったのに、なんで追い掛けてくるのよ!
 こいつの言う通りにするなんて嫌だ。あたしはその場に座り込んだ。
「やだ、やだぁ!」
「ったく、手間掛けさすな」
 苛立ったそんな声を耳にした瞬間、体が浮き上がった。肩から首の辺りと膝の裏に、力強い腕の感触。ハッと気付けば、隆広にお姫様抱っこされていた。ぎゃー!!
「やだっ降ろして!」
「今はダメだ。もう少し我慢しろ」
 思ったより優しく聞こえたその声に、口を開けて隆広を見上げた。怒っているような感じはしないけど、こいつの股間を蹴り上げて来ちゃったんだよね。
 絶対、嫌味とか言われて、更にまたとんでもないことされちゃうんだ。しまったなぁとは思ったけど、元はと言えば、こいつが取引なんかしようとするからであって、あたしは別に悪くない。
 よくよく周りを見てみると、そこは広い交差点だった。信号待ちの人々が唖然とあたしたちを見ている。中には10代の女の子たちが、こっちを指し示しながらキャッキャッ言ってる。うう、恥ずかしい。早く下ろせ。
 横断歩道の信号が青に変わって、隆広はそのまま歩き始めた。てっきりホテルに連れ戻されると覚悟していたのに、赤レンガ倉庫の前を突っ切って公園に出た。
 天気がよくて、秋の日差しがちょっと暖かい。海風もあるけど、そんなに強くなくて気持ちいい。つか、お姫様抱っこされてるから、こいつの体温で寒くないんだよね。気付きたくないことに気付いてしまった自分が憎い!
 観光スポットだから、今日みたいな平日でも結構人がいる。そんな中を抱っこされて歩くなんて、体のいい羞恥プレイだ!
「あのさ、もう降ろしてよ」
「断る。降ろしたら逃げるだろうが」
「逃げないよ、ちゃんとついて行くから。この格好の方が恥ずかしい」
 つい本音がポロッと口に出ちゃった。あたしのバカ!
「ふん、だったら着くまで恥ずかしい思いをしてろ」
 やっぱり!! くそぉ、つい口にしちゃった自分が悪かったとはいえ、こいつはやっぱり最低だ。
 しょうがなく、こいつの腕の中に収まっていることにした。泣きすぎたせいで、目がまともに開けられないのもあったし。きっと瞼が腫れてスゴイ笑える顔になってるよ。
 それにしても、人一人抱き抱えてよくこんだけ歩けるな。背中や足に触れる腕の感触は、疲れた様子が全然ない。
 隆広の足が止まったのは、芝生のあるベンチのところ。そこに腰を降ろされた。
「ここで待ってろ。すぐに戻る」
「あ、うん」
 ポンと頭を撫でられた。さっきとは打って変わって優しいな。なんか企んでいるのか?
 去っていく後ろ姿を見送りながらそう思ってしまうのは、相手がこいつならしょうがないよね。就職先斡旋と引き換えに付き合えなんて、マジで言う奴なんだから!
 鞄から化粧ポーチを出して、コンパクトミラーで自分の顔を見た。うっ……顔全体が笑える状態になっていた。瞼が腫れていて、目は真っ赤に充血してる。鼻の頭も真っ赤だし。泣いたって、一目で分かっちゃうな。
 いくら見ていても、泣き腫らした顔が治るわけでもなし、早々にコンパクトを化粧ポーチに戻して、顔に付いていた涙や鼻水をティッシュで拭いた。
 あいつ、なんで追っ掛けて来たんだろ? しかもこんな場所に連れてきて。股間蹴り上げた報復するなら、ホテルに戻った方がずっと都合がいいはずなのに。
 正面の奥にある柵の向こうは、海だった。カモメかな、白い鳥が飛んでる。ベイブリッジの橋も見えた。風に吹かれながら、ベンチの背もたれに寄りかかって、ボーっと海を眺めた。
 泣くといろんなものがスッキリするって聞いたことがあるけど、あれって本当のことだったんだ。就職が出来なくて鬱々していた気分とか、少し解消出来た気がする。
 それにしても、のんびりしてるなぁ。就活始めてから、昼間にこんなにのんびりするの、初めてじゃない? 日差しが暖かくて、ウトウトしてきちゃった。
 肩に何か掛けられたのを感じて、ハッと目が覚めた。次いで、隣に誰かが座る気配。
「よう、寝てていいぜ。こんな往来じゃ何もしねぇよ」
 あいつの声だ。一緒に缶のプルトップを開ける音が聞こえた。
「冗談でしょ! ちゃんと起きるわよ!」
 慌てて体を起こして、髪を手透きした。
 腕が上がった拍子に、肩からスルリと何かがずり落ちる。持ち上げてみて、黒っぽいジャケットと分かった。隣の隆広を見るとシャツ姿だった。
「着てろよ、風が冷たいだろ」
「いいわよ! あんたの服なんか誰が!」
 丸めて突っ返そうとしたら、「着なきゃ後で襲うぞ」と言われた。仕方なく肩に掛ける。頼まれたって袖なんか通すもんか!
 口を引き結んで真正面を睨んでいたら、目の前にミルクティのペットボトルが差し出された。キャップがオレンジ色だ。
「飲めよ」
「い、いらないわよ」
 散々泣いたから喉は乾いている。でも、こいつから受け取るのがシャクで、突っぱねてしまった。ちょっと後悔。
 隆広はあたしとの間のベンチに、ペットボトルを立てて置いた。
「飲みたくなったら飲め」
 自分は、ブラックコーヒー無糖のショート缶を傾けている。
 しばらく無言で正面を見ていたら、今度はあたしの肩に掛けたジャケットの内ポケットから何かを出した。タバコに火を点ける音がする。ポイ捨てなんかしたら、非難してやる!
 そう意気込んでいたのに、こいつはちゃんと携帯灰皿を持っていた。マナーがあるんだかないんだか。あたしにはあんなにデリカシーに欠けることを、平気で言ったりやったりするくせに。股間蹴り上げてきたことも、特に咎めてこない。一体なに考えてるのよ!?
 両膝に頬杖をつき、公園を眺めて海を眺めて、海風に吹かれながら溜め息をついた。
「おい、咲弥子」
 唐突に名前を呼ばれたから、ゆっくりと頬杖ついたまま、顔を巡らせた。
「なによ?」
「さっきは悪かったな」
「は?」
 こいつの口から謝罪の言葉? 嘘でしょ!?
 頬杖を崩して、唖然と隆広を見上げた。正面を向いているからあたしからは横顔しか見えない。でも、その目は真剣そのもの。ホテルで見た意地悪な表情や小バカにしたような表情は、片鱗も見えなかった。
「さっきって、あたしの就活を笑ったこと?」
「ああ、お前が怒るのも無理はねぇ。あんな言い方して悪かったな」
 今度はあたしをちゃんと見て言った。あたしは思わず目を逸らしてしまった。
「謝るくらいなら、笑わなきゃよかったのよ!」
「確かにそうだな、俺が軽率だった。俺は職業に貴賤はないと思ってる。だから、ラウンジで声を掛けてきたオヤジが、お前のことを貶した時も、それがどうしたとしか思わなかった」
「だったら、どうして部屋に戻ってきて、あんなこと言ったのよ?」
 すごいショックだったんだから。恋人になれば就職先を斡旋するなんて、時代劇の悪代官が何とか問屋に「娘を差し出せば商売を続けさせてやる」とか脅してるようなもんよ。
 口に出してそう言ってやったら、「俺が悪代官かよ」なんて、ショックを受けたように呟いた。
「それで、なんであんなこと言ったのよ?」
「む? そりゃお前、俺に対してあんな態度をとる女は、初めてだったからな」
 あたしは開いた口が塞がらなかったわよ。
「あんたって……ああ、まぁいいわ」
「よくねぇよ、なんだ? 続きを言え」
「あんたって本当にお坊ちゃんなのね」
 溜め息交じりで言ってやったら、鼻で笑われた。
「ふん、言ってくれるぜ。俺にそんな口を利くのは、世界広しと言えども、お前だけだろうな」
「なによ、あんたってそこまで偉いわけ? どう見てもお坊ちゃんじゃない」
 だって、こいつの歳からしたら、もっと偉い親とかお爺さんとかいるじゃない。 30歳……行ってないよね?
「神をも怖れぬってやつだな。お前、さっき俺の名字を聞いただろ」
「しょうじっての?」
「せっかく名前しか教えなかったのに、あの阿呆が余計なことしやがって」
 阿呆? 大企業の社長を「阿呆」呼ばわり!? やっぱり、こいつは最低だ!
「なによ、しょうじ隆広ってのが、そんなに偉い名前なわけ?」
 何も考えずにこいつのフルネームを口にしてみたら、ちょっと引っ掛かるものはあった。
「お前だってニュースくらいは見るだろ」
「なによいきなり」
「いいから答えろよ」
「そりゃ見るけど」
「それで俺の名前を知らないって? 名前くらい見聞きしたことあるだろ」
 バカにされた。ムカッ! なによ、しょうじたかひろでしょ!? しょうじたかひろしょうじたかひろしょうじ……?
 心の中でこいつの名前を連呼していたら、ちょっと閃いた。閃いて……青褪めた。まさか、ねぇ。
「あのさ、もしかしてしょうじの漢字は、東海林と書くとか? そんでもって、実家はデッカイ企業グループとか?」
 恐る恐る訊いてみると、我が意を得たり、という顔をされた。
 マジですか!? 東海林グループっつったら、世界でもトップクラスの企業体ですよ!? テレビを見ていれば、ニュースやCMで一度は目にする東海林グループですよ!?
 それに東海林隆広っつったら!!
「あの、もしやあなたは、ショウジグループノカイチョウサンデスカ?」
「なんだ、急にカタコトで言いやがって。やっと分かったかよ」
 ぎゃー!! 嘘でしょ!? 誰か、お願いだから、これは悪い夢だと言って!!
「俺だって、会長なんかやりたくてやってる訳じゃねぇが」
 どうしよう!? あたし、こいつの股間蹴り上げちゃったよ!? 軽く傷害罪じゃん!?
「まぁ、会長っつっても、今時に言えばグループのCEOとCOOを兼任してるようなもんか」
 しかも、その前にこいつとセックスしちゃってるじゃん!! スキン付けててくれて、よかったけどさ!
「一昨年親父が死んじまって、爺さんはそれですっかり意気消沈するかと思いきや、自分が存命の内に磐石体勢で、後継者を育てようって腹積もりらしい。孫で男の俺にお鉢が回ってきた」
 っていうか、なんで東海林グループの会長が、あんなバーで一人で酒飲んでたのよ!?
「ウチは各企業に独立して社長がいるが、グループ全体の組織は実家が仕切って……って、おい、聞いてんのか?」
「うわ、はいはい、聞いてるよ!! あんた以外に、その孫ってのはいないわけ?」
 ビックリした。急に話し掛けないでよ!! とりあえず話を聞いていた証拠に、咄嗟に耳に残っていたことを訊いてみた。
「後は女ばっかりなんだよ。姉貴が二人と妹が一人。お陰で実家は居づらくて仕方ねぇ」
「それで、毎晩女と遊び歩いてるってわけ?」
「毎晩って訳じゃねぇ。大体、仕事が忙しくて、遊べるのは夜しかねぇんだよ」
 だからってそういう立場の人間がさぁ、バーで一人で飲むってどうよ? 護衛みたいな奴、あそこにいたっけ? 思い出せないや。
「でも、やりたくてやってるわけじゃない割りに、やりたい放題やってるんじゃないの? さっきだって、あのお得意様、結構な大企業の社長さんだよ」
「やりたくてやってるわけじゃねぇから、あの程度は許されるのさ」
 なによ、その理屈。あれで「あの程度」なわけ? 呆れるしかないわ。まぁ、あたしには関係ない世界だしね。
「とりあえず、さっき股間を蹴り上げたことは、謝っておくわ。でも、悪いとは思ってないから」
「しょうがねぇな。元はといえば、俺がいらんことを言ったからだ。あの時一瞬花畑が見えたが、とりえあずこうして生きてるしな」
 なによ、その引っ掛かる言い方。いやいや、とりあえずさっきのことは謝ったし、もうこいつと一緒にいる意味はないよね。あたしは腰を上げた。肩に掛かっていたこいつのジャケットは、きちんとたたんで返す。
「どこへ行く?」
「決まってるでしょ、家に帰るの。夜はバイトに行かなきゃいけないし、それまではゆっくり休みたいのよ。泣き腫らした顔も、治さなきゃいけないしね」
「就職したくねぇのか?」
 口調は真剣だったのに、なんだか足元を見られたような気分になって、ムカついた。
「したいに決まってるでしょ。でも、あんたの世話になんかならないわよ! じゃあね。二度とさようなら、金輪際さようなら!!」
 捨てゼリフのように言い放って一歩踏み出したところで、出鼻をくじかれた。
「クリーニングに出した、あの似合わねぇリクルートスーツはどうする?」
「あんたならあたしの住所くらい、すぐに調べられるんじゃないの?」
「ちっ、本当に可愛くねぇな。だが、やっぱいいぜ、お前」
「は?」
 あたしの前に立ちはだかるように、こいつもベンチから立ち上がった。
「ちょっと、なんのつもり?」
「俺が誰か知っても、お前の態度は変わらねぇ。それが気に入ったっつってんだよ」
 あたしの腕を掴んで、引きずるように歩き出した。転びそうになるのを、慌てて付いていく。
「やだ、離してよ!」
「断る。俺の女になれってのは変わらねぇが、お前のその気概に免じて、ボランティアしてやるよ」
「は? なに、どういうこと?」
「来れば分かる」
 飲まなかったミルクティは、しっかり鞄の中に突っ込まれて、来た道を引き返すことになった。
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