Act.1 お願い、悪い夢だと言って!...4

 あたし、こんなにプリプリ怒るような性格だったっけ? こいつといると、調子狂う。
 胸をムカムカさせながら食後の紅茶を飲んでいると、隆広……モノローグで名前を言うのも嫌だけど、しょうがない! 隆広の背後から近付いてくる、中年男性の姿が目に入った。
 危うく紅茶を噴きそうになったよ。バイト先のお得意様じゃん! 確かどっかの大企業の社長さん。席は遠くだったのに、なんでわざわざ来るのよ!?
 しかも、バッチリ目が合っちゃった。まさかバレた!? 逃げ出したいけど、そんなことやったらこいつに付け入る隙を与えちゃうし。絶体絶命だわ!
 冷や汗ダラダラで、お得意様と視線を合わせない様、窓の外に視線をやった。大観覧車が回っているのが見える。もう営業始まってるんだ。
「東海林様、その節は大変お世話になりました。わたくし」
 お得意様の声が聞こえた。こいつ、名字は「しょうじ」っていうのか。こんな最低男でも、大企業の社長から「様」付けで呼ばれるんだ。世の中って理不尽だよね。
 その直後、ガンッと派手な音がして、テーブルが激しく揺れた。お皿に置いたナイフとフォークが、ガチャンッと音を立てる。
「わっ!」
 水の入ったグラスが倒れそうになって、慌てて手で押さえた。
 いきなり何すんのよ、こいつ!!
 見ると、靴底をテーブルの縁に当てているのが見えた。なに、足でテーブルを蹴ったわけ!? 目上の人間が挨拶したのに!?
 無礼な態度に抗議してやろうと、口を開いたところで隆広の顔が見えて、そのまま何も言えなくなった。
 メチャクチャ怒っているような表情で、テーブルの上に睨むような視線を向けている。正直驚いた。こいつって、こんな怖い顔もするんだ。
 お得意様は、衝撃を受けたような表情で固まっている。まぁ、そうだよね。若造相手にちゃんと礼を尽くして挨拶したのに、テーブル蹴られたんだから。
 いきなり隆広が立ち上がった。ギョッとしていると、あたしに向かって手を伸ばした。
「咲弥子、行くぞ」
「え、なん」
 みなまで言わせずに、隆広に腕を引っ張られて立ち上がり、よろめいたところを今度は腰を抱かれた。
「ちょっ」
 こんな場所で、しかも目上の人の前で、なにをするんだこいつは!!
 抗議しようと口を開けたところで、こいつの方が顔を寄せてきた。まさかこんなところでキス!? と身構えていたら、耳元で囁かれた。
「いいから、今は逆らうな。俺の女の振りしてろ」
「…………」
 やけに真剣な口調に、マジマジと隆広を見た。さっき部屋で見た憂いを帯びた目が、今はあたしを見下ろしている。頼まれたって、こいつの言うことを聞くなんて嫌だと思ってたのに、その目を見たら逆らえなくなった。
 しょうがない、頼まれてやろうじゃないの。これも、こいつの弱味ってやつよね。
 隆広の体と密着している腕を伸ばして、あたしもこいつの腰を抱くようにした。お互いに寄り添わせるようにすると、体で支え合う形になって、かなり親密な関係に見せることが出来る。
 これはバイト先で身に付けたやり方。しつこく迫るお客には、お店の黒服に恋人役をお願いして、こんな姿を見せ付けることで予防線にしていた。
 更にバイトを始めてからすっかり得意になった、お店用のサービス微笑を浮かべて隆広を見上げる。こいつも、極上の微笑みであたしを見ていた。演技だと分かっていても、つい見惚れそうになっちゃって、自分を叱咤した。
 見てくれがよくても、こいつは最低男だよ! でも、こんな営業スマイルみたいなのも出来るってのは意外だった。
 隆広は未だにショックを引きずってそうなお得意様に向けて、初めて見る冷たい視線をくれた。傍で見上げていて、ちょっと寒気がするくらいだった。
「東海林様……」
「見て分からねぇか? 今はプライベートを楽しんでんだ。お前だってそうだろう。ビジネスを持ち込むなんて無粋なマネすんじゃねぇ」
 お前!? 明らかに目上の人間に対して「お前」!?  やっぱりこいつ、最低だ!
 顔は努めて笑顔で、心中では大いに罵っていると、腰を抱いていたこいつの手に力が入った。歩くって合図だな。彼女の振りをして大人しくついて行ってやる。
 視線を前に向ける直前、お得意様はこの世の終わりのような顔をしていた。そのままあたしに目を向けたような気がしたのは、やっぱり気付かれたのか。
 今後バイトがしづらくなるよ。どうしよう?
 隆広に誘導されながら、ぐるぐる考えていたら、背後から信じられない言葉が聞こえた。
「隆広様、その女は高級クラブ『椿』のホステスですぞ。男を手玉に取るような女と、ご自分のホテルに宿泊などなさったと世間に知れたら、どうします!」
 やっぱりバレてた。しかも、微妙に脅迫してんじゃん。ヤバい!! こういう事態にはならないように、付き合う男は細心の注意を払って選んできたのに、今までの苦労が水の泡じゃん!
 泣きたくなってきた。なんであのバーに入っちゃったのさ、昨日のあたし!!
 ピタッと隆広の足が止まった。怖くて確認出来ないけど、あたしを見下ろしているように感じる。ああ、もうダメだ。こいつにホステスやってることバレちゃった。部屋に帰ったら、絶対にいいように弄ばれる!!
 うつむいて目を瞑っていると、隆広が振り向いたのが分かった。
 何を言うのよ、こいつ!?
「つまりお前は、この俺がこいつの手玉に取られる男だと言いたいのか」
 何を言われてもしょうがないとビクビクしていたのに、それは予想外の言葉だった。
 驚いて隆広を見上げた。それからお得意様を見る。可哀想になるくらい青ざめた顔で、狼狽えているのが分かった。
 それなりの立場のおじさんをここまで慌てさせるって、リゾートホテルのオーナーってそんなに凄いの? それとも、実家が凄い資産家で、そこの道楽御曹司とか? 後者の方があり得そうだな。
 なんてことを考えていたら、それを裏付けるような言葉が隆広の口から飛び出した。
「随分偉そうにぬかしていたが、要するにお前はその歳で女遊びをしていると、公言したようなもんだ。お前こそ、自分の身辺に気を付けた方がいい。今後は特にな」
 どう見てもこいつの方が年下なのに、ウチのお店のお得意様を鼻で笑った。それから「行くぞ咲弥子」と言われたので、大人しくついて行くことにした。
 ビッグマウスって、こいつみたいな奴を言うのね。別に高級クラブに遊びに行くくらいいいじゃない。こういうお金を持っているお得意様がいてくれるから、あたしみたいのが大学に行って生活出来るんじゃないの!
 こんな凄いリゾートホテルのオーナーをやってる御曹司なんて所詮、苦労知らずのお坊ちゃんね。
 ああ、でも明日から……うんにゃ、今日からバイトどうしよう!? きっとこのお得意様の口からママや社長に伝わると思う。うわぁ、メチャ行きづらい。ママも社長もいい人だから、クビにはしないと思うけど、やりづらくなるなぁ。
 それもこれも、全部こいつのせいだ!!

 
 

 エレベーターに乗って扉が閉まったので、隆広から離れようとしたら、腰をガッチリ掴まれていて動けなかった。
「ちょっと、もういいでしょ! 離してよ!」
「断る」
「はあ? なに言ってんのよ、離っ!」
 無理矢理引き剥がそうとしたら、壁に背中を押し付けられた。そんなに痛くはなかったけど、いきなりされたショックで言葉が続かなかった。見上げると、隆広が顔を近付けてくる。
 またキスされるのか!? 咄嗟に顔を背けたところで、エレベーターの扉が開いた。ホッとすると同時に、腕を引っ張られた。そのままエレベーターを降りて、引きずられるように泊まっていた部屋に戻ってくる。
 リビングに入ると、いきなり叩き付けるように壁に押し付けられた。
「いった! なにすっ」
 顔の両側にダンッと音を立てて、隆広が手の平を壁に付いた。
 ビックリして、口を開けたまま見上げていると、あたしを覗き込むように顔を近付けてくる。無言で睨み付けてやったら、溜め息をつかれた。
「お前、だからもちっと愛想よくしろって。さっきの笑顔はどうしたよ?」
「営業スマイルがほしいんだったら、いつでもやってあげるわよ。この手をどけてくれたらね」
「ったく、俺にそんな口を利くのはお前くらいだぜ」
「あ、そう。悪かったわね」
 こいつは呆れているけど、あたしも呆れたわよ。なによその俺様世界。こいつの周りには、こいつの言うことを聞く人間しかいないのか。そういう人たちに囲まれていると、こういうのが出来上がるのね。
 左側の手がどいたところで、すかさずそこからすり抜けようとした。でも、離れた左手で今度は肩を押さえられた。またかと思って睨み上げたら、やけに真剣な目とかち合った。
「なによ?」
「お前、気に入ったぜ。マジで俺の女になれよ」
「はあ? なにトチ狂ったこと言ってんの!」
「いいや、本気だぜ。ホステスやってるのに、わざわざ就活するってのも笑えるしな」
 そう言って、本当におかしそうに肩を揺らして笑う。
 心の底から腹が立った。怒りで体が震えるって、本当にあるんだ。
「いいでしょ! あたしの勝手じゃない!! ホステスが普通にOLの夢見ちゃ悪いっての!? 生活と勉強のためにお金がいるのよ!! あんたみたいに道楽でオーナー出来るような奴に、理解してもらおうなんて思っちゃいないわ!! そこどいて!!」
「断る。ああ、俺の女になるってんなら、就職先を斡旋してやってもいいぜ」
 その、いかにも小バカにしたような表情に、カッと頭に血が上った。髪の毛が逆立ったように感じるくらい、それは激しかった。
「誰があんたの世話になんかなるかぁ!!」
 初めて、生まれて初めて男の股間を蹴り上げる、なんてことをしたよ。ヒールと靴底がめり込む感覚が生々しい。
 隆広は顔から血の気を引かせて、無様に倒れ込んだ。股間を押さえて悶絶している。そこが男にとって急所だってことは、もちろん知識として知っていたし、蹴ったらどうなるか、なんて考えたこともなかった。こいつの様子を見ていると相当に痛いんだな。
 でも、良心のカシャクなんて微塵も起きない。あんなことを言ったこいつが悪いんだ。
 あたしは寝室に飛び込んで鞄を引っ掴むと、リビングにとって返した。隆広はまだ悶絶している。傍に近寄ると、ピクピク痙攣しながらあたしの足を掴もうとしたから、その手も蹴ってやった。
「お、おま、なに、すん、だ」
「ふん、人をバカにするからよ! いい気味だわ!! 昨日とここの宿泊費とこの服一式のことは、一応お礼を言っておく。ありがとう。だから、二度とあたしの前に姿を現さないで」
 棒読みもいいところで言い捨てて、さっさと部屋を出て行った。後ろから何か言われたようだけど、途切れ途切れだったし声も小さかったから、よく聞き取れなかった。別に、もう二度と会うつもりはないから、なにを言われたって気にしなかった。
 エレベーターに乗ってから中にある各階案内を見て、地下駐車場があるB1を押した。フロントのある入口は1階だけど、地下の駐車場なら誰にも見られないと思ったから。
 独特の浮遊感が体を包んで、エレベーターが下がっていく。ガラス張りの壁から、外の景色が見えた。だんだんとその景色が歪んでいって、ボロッと涙がこぼれた。
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