The bar in the hotel

 一週間ぶりに馴染みのバーラウンジを訪れると、カウンター内に見慣れぬバーテンがいた。いつもそこにいるのは、マスターらしき老人と若いバーテンだ。今日はマスターの姿も見えない。カウンター内が一人というのは、このバーラウンジでは珍しいのではないだろうか。
 普段は眺めのよい窓際の席に案内されるのだが、私はその新顔バーテンに興味を持ち、カウンターに案内してもらった。
「いらっしゃいませ」
 一見年齢不詳、だが雰囲気は40代といったところだ。低いがよく通る声と微かな微笑みが私を迎えた。
 かなり整った造形をしている。若い女の子がいうところのイケメンというやつだ。若い頃はさぞモテたことだろう。いや、意外に今もモテるかもしれない。いい歳をして女の子に人気のあるオヤジな社員は私の会社にもいる。30 後半と言っても通用するような若々しい外見と雰囲気を、この男は持っていた。
「なにになさいますか?」
 バーテンに問われ、私はしばし考えてからジン・トニックを頼んだ。アルコールは大抵なんでも飲めるが、ちょうど視線の向いた先にゴードンがあったのだ。バーテンは微かな頷きを見せ、当然のようにゴードンに手を伸ばす。
 ジン・トニックはスピリッツのジンとソーダで作るカクテルだ。シンプルであるが故に、バー、バーテン、客とそれぞれの好みやこだわりがある。私が最も美味いと信じているのは、ソーダとトニックウォーターを1対2の割合で作ったものだ。だが、私はあえてそれを口にしなかった。新顔のバーテンを試す気分で、私は何も言わずに彼を見ていることにした。
 前に見た若いバーテンは、ギルビー・ジンを選んでマスターに頭を叩かれていた。ゴードンを選んだ時点で、このバーテンが酒のことをよく分かっているのが分かる。だからこそ、このバーテンがどのようにこのカクテルを作るか、興味があった。
 彼は一見無造作ともいえる所作で、氷を入れたタンブラーにゴードンを注ぐ。普通のバーテンなら、アルコールの注ぐ量を注視している。だが彼は何気なくジンを注いだ。そしてソーダを注いでからトニックウォーターを注ぐ。そこへ半分に切ったライムを搾り、ステア用にガラスのマドラーを入れた。
 私の前に出来上がったジン・トニックを置く。
 頼んでから物の一分も経っていない。早いだけでなく動作が流れるようにスムーズだ。ここのマスターも鮮やかな手並みで、見るだけでも価値かある。そのマスターに並ぶ腕である。
私はステアせずにタンブラーを持ち、ジン・トニックを一口飲んだ。悪くない。だが、ここは少しステアした方が良さそうだ。
 マドラーで2回程かき混ぜた。すると、無表情だったバーテンが微かに微笑む。どうやら彼のレシピでは数回ステアするのがベストなようだ。自分でステアしなかったのは、客の好みに任せているのだ。
 やはりこのバーテンは、酒のことがよく分かっている。そして、まるで私の好みを熟知しているかのような出来に、感動すらもしていた。
 私がジン・トニックを飲んでいる間も、バーテンには客から注文が入る。
 見事なスノースタイルのグラスを作り、ウォッカとグレープフルーツをステアしてソルティ・ドッグを作る。下手なバーテンだと、まるでドカ雪のように塩がグラスの縁に付着している。が、この男の作るスノースタイルは、粉雪がはらはらと舞っているかのようだ。
 シェーカーを使ったカクテルも、芸術と言っても過言でない程に素晴らしいものだった。なにより、計量カップを使わずにどのグラスにも少なすぎず多すぎず、ピッタリの量で作るのには脱帽した。
 私と同じジン・トニックを注文した客がいたようで、その時はトニックウォーターのみでステアし、ライムも搾らずにタンブラーの縁に飾っていた。
 興味深く見ていると、私の視線に気付いたバーテンは、そのジン・トニックをボーイに渡してからポツリと言った。
「女性客からの注文でしたので」
 客によって同じカクテルでもレシピや見た目を変える。こんな粋なことをするバーテンが、ここのマスター以外にもいたのは少々驚きだ。
「おかわりは如何いたしましょう?」
 私は同じ物を頼み、煙草を取り出した。バーテンがデュポンのライターに火を点す。チラとしか見えなかったが、相当な高級品のようだ。少なくとも一介のバーテンが持てるようなライターではない。このバーテンに対する興味がますます募った。

 
 

 お台場にあるリゾートホテル。その30階にあるバーラウンジがここだ。
 もう20年も前に開業したホテルだが、廃れた印象はこれまでに一度もなく、未だに人気の衰えないホテルである。余程経営者がしっかりしているのだろう。
 私がこのホテルを知ったのは、私がこの近くに小さな会社を起こした頃だ。まだ20歳後半の、今の私から見れば子供のような歳だった。このホテルも開業したばかりで、そびえる新築の建物に眩しさを覚えたものだ。私の会社は、小さなビルの一室を借りての創業だった。
 至れり尽くせりのサービスや東京湾を一望できるその景観から、特に女性に人気が高いホテルだ。それはこの20年変わらず、あの世紀の大不況と言われた時代も、高い人気を維持していた。当時の私でも容易に手が出ない料金なのに、彼女たちのどこにそんな金があるのか不思議に感じたものだ。
 私の会社は幸いにも倒産することなく、今では1000人近い従業員を抱えるほどになり、このお台場に自社ビルも建てた。起業当時は10人に満たない小さな会社だったが、20 年でここまで来られたのは運が良かったからだろう。私の才覚が良かったとは、とても思えない。それが試されるのは、これから先のことだ。

 
 

 二杯目のジン・トニックを飲み終える頃、カウンターに二人の客が来た。私の右側、スツールを一つ空けて、女性が腰を降ろす。はっとするほどの美しい横顔だった。その向こうには、まだ学生らしい風貌の少年。どことなく顔付きが似ている。親子のようだ。
 女性には一つ一つの仕草に品がある。左手の薬指にはめた指輪が、店内の照明に反射して煌びやかな輝きを放っていた。少年は勝気な表情をしているが、それは年齢から来るものだろう。高校生にはなっていない、まだ幼さの残る顔だ。だが、瞳には意志の強さが感じられる。
「遅かったじゃねぇか」
 私に対しては慇懃だったバーテンの口調が、その女性に対してはかなり崩れたものになった。
「ごめんなさい、克己の到着がちょっと遅れたの」
「母さん! それじゃあ俺の責任みたいじゃんか!」
「お前の責任だろうが。こっちに来るのに、随分ごねたって聞いてるぞ」
「む……アルベルトの奴、いつの間にチクッてんだよ」
「そういう言葉を使わないの! まったくもう、なんでこうも愁介に似ちゃったのよ」
「そりゃ父親だからだろ」
「そういう冗談には笑えません! あなただって、今は仕事中でしょう。もうちょっと言葉を考えたら? やっぱり愁介に接客業は無理だったって笑われるわよ。誰に、とは言わないけれど」
 なるほど、この二人はバーテンの身内というわけだ。言われてみれば、少年とバーテンは顔立ちがよく似ている。しかし、私に向かってではなかったとしても、目の前でべらんめえな言葉を使われたのに、大して不快にはならなかった。あまりにも自然だったからだ。先程の慇懃な口調は、かなり無理をして使っていたのではないだろうか。
 愁介と呼ばれたバーテンは、何気ない装いで咳払いをする。そして、最初に私に向けたのと同じ微笑みを女性に向ける。
「お客様、なにをお出しいたしましょう?」
「ぶふっ」
 予想通りの展開に、思わず吹いてしまった。煙草を持った手で口を塞いでいても、抑えられるものではない。失礼だと分かっているが、私は笑い声を止めることは出来なかった。
「ほら、早速笑われたじゃない」
「そういう意味でじゃねぇだろ」
「いや、失礼。しかし……」
 バーテンの行動は素直と捉えてよいのだろうが、それにしてもである。こんなに笑ったのは久しぶりだ。
 冷ややかな空気がカウンターの中から漂ってきた。顔はあくまでも無表情だが、体全体では怒っているのだろう。なるほど、接客業に向いている性格ではなさそうだ。
 まだ肩を震わせている私の横で、女性が細い指を形のよい顎に当てる。
「そうね、じゃあ私はバラライカを頂戴」
「俺はソルティ・ドッグ」
 中学生の飲む物ではない。しかし親二人は何も言うことなく、バーテンはシェーカーに氷、ウォッカとホワイトキュラソー、そして搾ったレモン汁を入れる。シェーカーを振る様は何度見ても感嘆ものだ。
 飲む人間に合わせたのだろう、エレガント・タイプのカクテルグラスに中身を注ぎ、女性の前に置いた。息子の方には、スノースタイルにしたコリンズグラスにグレープフルーツジュースだ。アルコールを除けば確かに「ソルティ・ドッグ」である。少年は不満顔だが、自分の身分はしっかりと心得ているのだろう。黙ってグラスを傾け始めた。
 女性の方は強いカクテルにも関わらず、三口ほどでグラスを空けてしまった。酒に強い女性は世の中にいくらでもいる。淡いすみれ色のカクテルドレスを身にまとい、シンプルなゴールデンサファイアのイヤリングとネックレスで控え目に着飾った稀に見る美人でも、それだけ豪快に飲まれるといっそ清々しい気分になるのだと、私は初めて知った。

 
 

 眺めるだけだったこのホテルに初めて泊まったのは、起業して8年後のことだった。いつかはこのホテルのスウィートに贅沢に連泊することを夢見て、がむしゃらに自分の道を突き進んできた。それが叶ったのが、30半ばの頃のことだ。
 その時、このバーラウンジの存在も知った。初老のマスターが酒の飲み方を教えてくれ、私はここで随分と成長させてもらった。ホテルのバーで20年マスターとして働いているのは、珍しいことだろう。私が商談で日本を離れていた5日ほどの間に、あのマスターは辞めてしまったのだろうか。

 
 

 女性と少年は、あれからすぐに席を立っていった。なんでも、これから3日間は親子水入らずで過ごすのだとか。少年は辟易した表情で迷惑だと言っていた。だが、母親である女性は気にした様子もなく「親孝行のつもりでいなさい」と言い、嫌がる少年の頭を撫でていた。
 私は未婚で子供もいないため、子を持つ親の気持ちは分からないが、少年の気持ちはよく分かった。ちょうど思春期真っ只中。構われると逆に反発したくなる。私にもああいう時代があったのだ。
 柄にも無くセンチメンタルな気分で三杯目のジン・トニックを呷っていると、ここのマスターが客としてやってきた。馴染みである私の隣りのスツールに腰を下ろす。豊かな髪の毛は白いものが多くなり、口髭にもそれは現れている。私が初めてここへ来た時には、もっと黒々としていた。12年はやはり長いものだ。
「こんばんは、マスター。もうカウンターには立たれないのかと思っていましたよ」
「いやいや、私の目が黒い内はまだまだカウンターの中は譲りません。今日は彼のテストのようなもので」
 聞くと、カウンターに立つのは今日で三日目ということだった。二日間はマスターがついていたが、今日は一人でカウンターに立つ。それで採用が決定されるということだ。
「新人とは思えないほどの腕前でしたが?」
「バーテンダーとしてはね。しかし接客の方はいまいちなんですよ」
「ああ、確かに」
 先程のことが思い出され、つい笑いが込み上げて来る。それをマスターが目ざとく気付いた。
「何かありましたかな?」
「いやいや、楽しかったですよ」
 バーテンの顔に一瞬、しまった、という表情が浮かんだのが見えた。私は詳しくは話さず、ただそれだけを伝えた。貸しを作る気はなかった。ただ、今後もこの男がここにいる姿を見たいと思ったのだ。
 マスターがやれやれと首を振る。このバーテンの性格を、よく知っているのだろう。
「明日から三日間、彼は休みを取りますが、それ以降は週に三日ほど出てきます。あたなが来た時に彼がいれば、相手をしてやって頂けますかな?」
 このマスターがこんな風に私に頼むのも珍しい。12年という年月の間に、一回だけこんなことがあった。そのバーテンは5年間ここで働き、今は赤坂で自分の店を開業しているという。
「いいですよ。マスターの頼みならば、喜んで」
 マスターを握手を交わし、奥方から愁介と呼ばれたバーテンを見ると、どこか挑むような視線を向けてきた。それは不快なものではなく、いっそ気分が爽快になるほどの、いい視線だった。

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