篠宮克己のお正月

 日本に帰ってきてから10日が過ぎた。去年はスウェーデンで過ごした年越しを、今年は日本で過ごすようにと母さんに呼ばれたんだ。妹が生まれたし、いつも離れて暮らしているから、こういう長期の休みの時くらい帰って来い、というのがその理由。この分じゃ、春休みや夏休みも帰れって言われそうだな。
 それにしても日本に「帰って来る」という言葉は、俺はあまりしっくりこない。
 国籍は日本だし、母さんも父さんも日本人だけど、俺が生まれ育ったのはイギリス。学校には行かず家庭教師代わりのアルベルトに勉強を教わって、13歳でスウェーデンに留学したから日本で暮らした経験がない。
 それで日本に「帰る」というのはおかしな表現だと思う。でも母さんは気にせず「お帰り」と言うし、それに釣られて俺も「ただいま」と言ってしまう。
 母さんに言わせると、親のいるところが帰るところ、という意味らしい。そういうことなら、イギリスだろうとスウェーデンだろうと日本だろうと、結局は「帰ってきた」という表現になってしまう。
 いいんだろうか? これで。
 何にでも理屈を付けたくなるのが、俺の悪い癖らしい。らしいというのは、自分では自覚がないからだ。お目付け役のアルベルトからは「理屈で説明出来ないことはいくらでもあります。あまり考え過ぎると、将来禿げますよ」なんて言われたことがあって、その時は物凄くショックを受けた。
 物事の色んなことを考えるのは好きだけど、禿げたくはない。といって、考えるのを止めるのは嫌だ。
 …………。
 結局、いつまで経っても気に入る答えは見付からなかった。理屈で説明出来ないことって、こういうことか。なんか本当に髪の毛が数本抜けた気分。
 クリスマスイブを父さんのホテルで過ごした後、そこから徒歩数分のところにあるマンションに移った。父さんと母さんが住むマンションで、30階建ての最上階だ。
 愛奈を入れても家族3人で暮らすには広過ぎる5LDK。だから俺の部屋もちゃんと用意されていた。いつ俺が来てもいいように、いつも掃除を欠かさないんだって。それはありがたいけど、俺の部屋だけ生活感がないから、ホテルに泊まっているのと感覚的に差はない。ここがいつか『自分の部屋』になるかと思うと、不思議な気分だ。
 それから、日本の年末恒例大掃除の手伝いをやらされた。何でも、お正月には歳神様というのが家にやってくるんだけど、部屋が汚いと帰って行っちゃうんだそうだ。だから綺麗に掃除して、歳神様を気持ちよくお迎えするのが、大掃除をするそもそもの理由。母さんが教えてくれた。
 そして大晦日には爺ちゃんと婆ちゃんの家にお邪魔して、昨日……2日まで過ごした。紅白歌合戦なんて初めて見たな。ただ白と赤に分かれて歌ってるだけで、別に点数が出るわけでもなし。それで赤組優勝とか、意味が分からない。
 他にも、ただ騒いでるだけのバラエティ番組とか、あんなの見てどこが面白いんだろう。まぁ、人気のあるタレント呼んで視聴率が稼げて、ついでに楽に製作出来る分、予算とか取りやすいんだろう。
 あ、でも日本全国で除夜の鐘を中継するのは良かった。厳かな気分になれたし、煩くもない。地上波のテレビより、BSの方が静かで興味深い番組が多くて楽しめる。
 年越し蕎麦も初めて食べた。歳末の日本の風物詩だって言うから食べてみたけど、特別なものが入っている訳でもなく、ただの蕎麦だった。『細く長く長寿を願う』とかいう由来で食べるんだと婆ちゃんが教えてくれた。こんなもの食べたからって、寿命が延びるとも思えない。縁起を担ぐのが今も昔も日本人は好きだな。
 元旦にはお小遣いをもらった。『お年玉』と言って、大人が子供にあげる風習らしい。これも日本独特。テレビを見ていたら、お年玉の平均金額特集までやっていた。大人から子供にって聞いたけど、爺ちゃん婆ちゃんからもらっている結構な歳の大人もいた。いいのか、これで?
 万単位の金額をもらって喜んでいる小中学生もテレビに映っていたけど、俺はいくらもらっても喜べないぞ。要するに、扶養家族ってことじゃないか。父さんから小遣いをもらうのって、はっきり言って俺には屈辱だ。早く自分で自分を養えるようになりたい。
「あーっ、ん、うっ」
 回想している俺の耳に、愛奈の声が聞こえた。さっきまで寝てたのに、起きちゃったのか。
 リビングの窓際に置かれたベビーベッド。その中で、ピンクのベビードレスに包まれた小さな物体が、しきりに手足を動かしていた。ベッドの縁から覗き込むと、俺を見て「きゃっきゃっ」と笑う。そんなに笑える顔をしてるか? 俺って。
 目を覚ましちゃったら、しょうがないよな。寝ろって言って寝てくれたら、母さんも苦労はないんだし。
 ベッドに仰向けの状態で、ちっちゃな手を俺の方に伸ばしてくる。人差し指を差し出すと、きゅっと掴まれた。骨があるのかも分からないくらい小さいのに、指を掴む力は意外と強くて驚いた。こんなにちっちゃいのに、ちゃんと爪もあるんだよな。
 空いてる方の手で、ピンク色の頬を突いた。ぷにぷにして柔らかい。突かれる感触が楽しいのか、愛奈は声を上げて笑っている。このまま機嫌よくいてくれるといいんだけど。
 正月も3日目。父さんと母さんは、それぞれ別の用事で出掛けている。愛奈を一人には出来ないから、いつもはどちらかが……って、どうせ母さんの方が圧倒的に多いんだろうけど、家にいなくちゃならない。でも今は俺がいる。
「ごめんね、用事を終えたらすぐに戻ってくるから、それまで愛奈を見ていてくれる?」
 申し訳なさそうに言ったのは、もちろん母さんだ。出掛ける前にミルクを飲ませて、オムツまで替えていってくれた。
 一方の父さんはと言えば。
「日本にいる間中、響子の世話になるんだから、たまには愛奈の面倒を見ろ」
 そのセリフ、そっくりそのまま父さんに返してやりたいよ。自分だって、普段母さんに面倒見てもらっているくせに。
 妹が可愛くない訳じゃないけど、赤ん坊っていきなり泣き出すし、何を言いたいのか全然分からないくて、正直言うとちょっと面倒臭い。
 クリスマスから昨日まで殆ど勉強する時間がなかったから、今日から日本を発つ日までみっちり勉強したかったんだよね。
 宿題として出された課題やレポートは山のようにあるし、スウェーデン語の勉強も平行してやらないと、授業に付いていけない。スウェーデン語が分からなくて困っている訳じゃないけど、いくらやってもやり過ぎるということはないから。
 スウェーデンに留学した時は歳通り初等学校の7年に入るつもりだったのに、試験を受けたら初等学校も高校学校も行く必要ないとか言われて、大学に入ることになった。寝耳に水なその話に仰天した俺だけど、一緒にいたアルベルトは驚くこともなく涼しい顔をしていた。あいつ、分かっていて試験を受けさせたんだな。
 俺がスウェーデンに留学を決めたのとほぼ同時期に、アルベルトはエインズワースのスウェーデン支部長に昇進が決まった。あまりにもタイミングが良過ぎて、その人事に裏があるんじゃないかと疑っていたら、俺のお目付け役もおまけに付いていた。
 その頃には父さんは引退の時期を決めていたし、総帥が一般人になるんだからその息子の俺もそうなっていいはず。父さんみたいに大仰な護衛とか付いてないのが救いではあったけど、その代わりにアルベルトが付いたってことらしい。
 幼い頃から俺に勉強を教えたのはアルベルトだった。学校に行けないのをいいことに、年齢を無視して俺はかなり進んだ勉強を教え込まれていたようだ。同じ年頃の子供がどんな勉強をしているなんて全く知らなかったし、俺自身も興味がなかったから言われるままに、問題を解いたり本を読んだりしていた。そんなだったから、実際にスウェーデンに行った時には初等学校のテストも高等学校のテストも、簡単過ぎてつまんなかったんだよな。
 そんなこんなでストックホルム大学に入ることになり、一年間スウェーデン語をこってり勉強して大学生になった。ということで、今の俺は大学1年生。飛び級の入学は珍しくないが、さすがに14歳というのはあまりないらしく、大学じゃ名物みたいになっていてちょっと鬱陶しい。
 そんな俺でも大学での勉強は、やることがたくさんあり過ぎて大変だ。難しいとは感じないけど、時間がいくらあっても足りない。俺でさえこんなだから、他の学生は本当にハードだ。
 授業料無料の制度が確立されてはいても成績が悪いとそれを打ち切られるし、自費ともなると生活費も稼がなきゃいけないから勉強している暇もない。俺は恵まれた環境にあることを、嫌でも感じる毎日だ。
「あー、ぶぅ」
 愛奈がちっちゃい手で俺の指を叩いた。機嫌はいいようだけど、起きていると目が離せないのがつらいな。本当は自分の部屋で勉強したかったのに、俺以外誰もいないんじゃ、ここでやるしかなかった。でも愛奈が気になって集中出来そうにない。
「頼むから、せめて大人しくしていてくれよ」
「あうぅ、あっ、あっ」
 笑っていても油断出来ないのは、この10日間で嫌と言うほど味わった。さっきまで大人しかったのが急に泣き喚いて、それが本当に豹変だから気が休まる暇がなかった。
 母さんは毎日こんななのかと思うと、気の毒に感じてしまう。そんな俺に母さんは笑いながら言った一言は、衝撃的だったけど。
「克己も赤ちゃんの時は、こんな感じだったわよ」
 ショックで絶句している俺に、母さんは更に続けた。
「誰でも赤ちゃんの頃は同じよ。愁介だってそうだったでしょ。あなたが生まれた頃はお城にメイドたちがたくさんいたから、私が実際にあなたの面倒を見ることは、あまりなかったけれど。本当は私が見てあげなきゃいけなかったのに、エインズワース総帥の奥方様が自ら動いてはいけませんとか言われちゃって。そうこうしている内に、私も面倒な仕事を与えられちゃって、克己と一緒にいる時間がなかったでしょ。あなたには悪いことをしちゃったわね」
 そう申し訳なさそうに言われても、それこそ赤ん坊の頃だから俺の記憶にはない。物心ついた頃には、母さんもエインズワースの副総帥だったから、それが普通だと思っていた。それで母さんから受ける愛情が薄いと感じたことはなかったし、母さんに謝られた時は戸惑っちゃったな。
「ううぅっ、えっ、えっ……」
 あ、やな予感。愛奈の顔が急にクシャクシャになった。泣き喚く合図だ。
「えぁーんっ」
 ああ、やっぱり。一体なにが気に入らないんだか。泣いてばかりじゃ分からないけど、生後半年の赤ん坊に言っても無駄だよな。
 母さんの話じゃ、愛奈は抱っこされるのが好きらしい。とりあえず、見よう見まねで抱き上げてみた。いつもと抱かれ心地が違うのが分かるのか、愛奈の泣き声は益々大きくなる。どうしたら泣き止んでくれるんだよ。
 オムツに異常はなさそうだし、おしっこをしていたとしても1〜2回分はしっかり吸収するって聞いてる。1時間前に母さんが替えたから、まだそんなに濡れてないだろう。
 あやすつもりで体を揺らしてみても、全く効果なし。あと出来ることといったら……そうだ、おしゃぶり。これを咥えさせれば、泣きたくても泣けないだろ。
 愛奈がいつも使っているおしゃぶりを唇に付けると、むしゃぶりつくように吸い付いてくれた。ああ、よかった。
 ホッとして愛奈をベビーベッドに戻そうとしたら、吸っていたおしゃぶりを吐き出して、またも大泣き。手足を大きく動かして、必死に何かを訴えたいのは分かる。
「愛奈ぁ、何が気に入らないんだって」
 吐き出したおしゃぶりを拾い上げて、ふと思い付いた。もしかして、腹減ったのか?
「お前、さっき母さんに飲ませてもらったばっかりだろ」
 俺の呆れ声にもメゲズに、大声を上げて泣く愛奈。本当に腹が減ってるとは思えないけど、他に出来ることといったらミルクを作るしかない。慣れてる母さんなら、愛奈を抱きながら作るんだろうけど、俺には無理だ。ベビーベッドに寝かされて、更に大声で泣き喚く愛奈を置いてキッチンに向かった。
 作り方はこの前母さんに聞いた。作る機会は絶対にないと思っていたのに、まさかこんなに早く作ることになるなんて……。
 リビングからは愛奈の泣き声が、いよいよ大泣きに変わる。あまり大声で泣いていると、その内眠っちゃうんだよな。でもせっかく作ってるんだから、せめてミルクを飲んでから眠ってほしい。
 1時間前に飲んだばかりだから、教えてもらった量よりも少なめに作って、愛奈のところへ行った。相変わらず、泣き続けている。これで泣き止んでくれればいいんだけど。
 愛奈を抱き上げて口の中に哺乳瓶の先を入れてやると、さっきまでの大泣きが嘘のようにピタッと止んで、んくんく飲み始めた。
 よかったぁ……これでようやく勉強が出来る。
 作った分をあっという間に飲み干した背中を軽く叩いてゲップをさせ、大人しくなった愛奈をベビーベッドに寝かせる。小さな体を仰向けに横たえると、着ていたセーターの胸元が不自然に伸びた。
 いつの間にか、愛奈のちっちゃな手が俺のセーターを掴んでいた。
「愛奈……」
 無理に引き剥がそうとすると、ぐずり始める。また泣かれても面倒だ。しょうがないから、愛奈を抱えたまま勉強することにした。

 
 

 1時間程経って、母さんと父さんが連れ立って帰ってきた。
「ただいま、克己。愛奈はいい子にしてた? あらっ」
 出掛けついでに買い物をしてきたらしい。近所の大型商業施設の袋を、父さんと分けて持っている。まさか父さん、用事があるっていうのはここに残りたくない口実だったとか?
 俺はといえば、セーターを離さない愛奈を左腕で抱えながら、本を読んでいた。レポートを書くために読まなきゃいけない資料も、山のようにあるんだ。愛奈を抱えながらも、出来ることは結構あることに気が付けたのは、ある意味収穫かも。
 あまりにも静かだったからか、愛奈は眠っちゃったんだ。俺のセーターをしっかり掴んだまま。それを覗き込んで、母さんは微笑んでいる。
「愛奈、よく眠っているわね。泣いたりしなかった?」
「したよ。母さんたちが出て行った後、少し眠ってたんだけど、起きてから泣き始めちゃって、とりあえずミルクを飲ませた」
 簡単に説明したら、母さんは「やっぱり」と言って申し訳なさそうに話してくれた。
 出掛けるために、母乳を飲ませた時間がいつもより早かったせいか、あまり飲まなかったんだそうだ。少し心配ではあったけど、俺がいるから大丈夫だろうと思ったんだって。
 信用してくれているのは嬉しいけど、それならそうと一言教えてくれればいいのに。
「ごめんね、克己。お詫びに今夜はご馳走を作るから、楽しみにしていて」
 俺の頭を撫でながらそう言う。なんか、子供扱いだよなぁ。子供だけど。
 何気なく視線を巡らせたところで、バチッと父さんと目が合った。機嫌悪そうだな。
「なんで克己だと、愛奈はこんなに寝てるんだ?」
「なんでと言われても……俺は代わってほしいんだけど?」
「……貸せ」
 そういえば、父さんが抱くと愛奈は泣き出すって母さんから聞いた。「顔には出さないけど、本人はそれにちょっと傷付いてるのよ」なんて苦笑しながら言うから、本当のことなんだろう。大丈夫かな?
 父さんの手が俺のセーターを掴んでいる愛奈の小さな手を、指の一本一本を丁寧に外した。こんなに繊細なこと出来るんだ。ちょっと意外。
 愛奈は起きることなく、父さんの腕の中に移った。よく眠っているから、抱かれる腕が変わったことに気付いてないんだな。これ幸いと、勉強道具を持って自分の部屋に戻ろうとしたら、「ふやあぁっ」という声が上がった。確認するまでもない、愛奈のだ。
 俺なんかより、よっぽどサマになっていると思うんだけど、父さんの腕の中で愛奈は声を上げて泣いていた。父さんは呆然と、腕の中の愛奈を見下ろしている。
「どうしたの?」
 キッチンに引っ込んでいた母さんは、俺たちを見て呆れた顔になった。
「もう、どうして愁介が抱いちゃうのよ?」
「悪いか。克己に出来て俺が出来ないのは、気に入らん」
「あのねぇ……まぁいいわ」
「よくない」
 父さん、いくつだよ。
 これで本当にエインズワースの総帥だったなんて、しかも歴代でもトップクラスの優秀さだったなんて、絶対に信じられない!
 泣き喚く愛奈を父さんの腕から受け取った母さんは、抱っこした愛奈の体を揺らしてあやす。次第に泣き声は小さくなっていって、笑う声まで聞こえてくる。
「まぁでも、少しは愛奈も慣れてきたみたいよ」
「そうかぁ?」
「ぐずり方が違うもの。泣き声も小さくなってきたし。前は本当に「嫌だぁっ」って感じの泣き方だったもの。諦めずに抱いていれば、その内泣かないでくれるわよ」
 母さん、優し過ぎるんじゃないの? っていうか、俺には大泣きに聞こえたけど、あれでも小さくなってきたんだ。
「そういう意味で、まぁいいわって言ったのよ。ねぇ愛奈、パパの腕の中、もうちょっとしたら慣れるもんねぇ」
 母さんから笑顔で言われて、愛奈は「きゃっきゃっ」と楽しそうな顔で笑っている。意味が分かっているとは思えないけど、赤ん坊との会話ってこんなもんなのかも。
 父さんを見ると、複雑そうな表情で突っ立っている。喜んでいいのか落ち込むべきなのか、微妙な言い方ではあったよね。父さんに慣れる頃には、もう赤ん坊を卒業しているような気がする。
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