クリスのバレンタイン...2

 それからアッという間に、バレンタインデーがやってきた。結局プレゼントは無難なネックレスにしたが、どうだろう?
 デパートの鞄売り場や洋服売り場や宝飾売り場をうろついていると、色々買わされそうになってその度に逃げ出した。俺はいいカモだったらしい。そんな中で、ちょうど目についた宝飾売り場で一目惚れしたものを購入した。
 大きめのサファイアをあしらった、プラチナのネックレス。リリーの碧い瞳とマッチしているから、きっと似合うと思う。喜んでくれるだろうか。ウン十万なんて桁じゃないから、買うのにも気後れしなかったし、多分彼女の方も気兼ねしないで受け取ってくれると思う。
 バレンタインとはいえ、お互い仕事はあったので、夜8時にビルの玄関前広場で待ち合わせをしている。
 ちなみにこの日、愁介は響子さんとの独身最後の熱いバレンタイン……はお預けで、仕事をしていた。その代わり明日は一日オフなので、俺も休めるのはありがたい。
 リリーはまだ来ていなかった。待ち合わせ場所で佇んでいると、篁さんのところの社員が帰り際に視線を向けてくる。髪を戻してからサングラスも外したんで、俺も注目されるようになってしまった。レオンだの篁さんだの、美形ばっかり見慣れていると俺なんかは十人並みに思えるが、そこから抜けると俺もそれなりの容姿らしい。俺はあまり自覚はなかったが、リリーに言われたことだ。
 あ、そういえば、今日愁介から渡されたものがあったんだ。後で見ろって言われたが、何だ? スーツの内ポケットに入れた白い洋式の封筒を取り出して、封を切った。
「えっこれ……」
 中から出てきたものを見て、あぜんとした。都内でも指折り、いやおそらく日本で一番の超高級ホテルの案内状だ。格式もお値段も超高級で、それなりの給料をもらっている俺でも、そう簡単に泊まろうと思えるホテルじゃない。
 他に小さなカードが入っていて、愁介の直筆で走り書きしてあった。
『リリー・グランジェは明日休暇にさせた』
 これだけなのが愁介らしいといえばらしいが、要するに愁介からのプレゼント?
  ……見なかったことに……というのは無理だろうな。溜め息をついてどうしようか思案していると、背後から名前を呼ばれた。
[クリス、お待たせ]
 振り向くと、白いコートを着たリリーが立っていた。走ってきたのか、白い頬が紅潮していて妙に色っぽい。長いストレートの金髪が揺れて、碧い瞳がまっすぐに俺を見ている。綺麗だ。
[? どうしたの?]
 小首を傾げて見上げられ、見惚れていた自分に狼狽えてしまった。
 愁介からホテルの招待状をもらったことを言うか言うまいか。情けなくも迷っている俺の携帯が鳴った。相手は愁介だ。何てタイミングだ!
「はい、愁介様?」
[え、総帥から?]
 リリーの表情が曇ったので、仕事ではないことを身振り手振りで伝えて背を向けた。今日は愁介から直々に、もう上がっていいと言われたんだ。今更仕事しろと掛かってくるはずがない。
『クリス、あのホテルな、お前の名前で予約してあるから、絶対行けよ』
「は!? 一体いつの間に……」
『どうせお前のことだから、グチャグチャ迷ってたろう』
「うっ……」
『それから、俺から招待状渡された、なんてバカ正直に言うなよ』
「で、ですが、私の給料ではとても払えるところではありません」
 リリーは日本語が分からないから、こんな時は少し助かる。
『阿呆、だからいいんじゃねぇか。情けねぇこと言うなよ』
「ですが」
『煩ぇ、響子みてぇに愚痴愚痴言いやがって! いいから行け! 命令だ!』
「ちょ、愁っ」
 言いたいだけ言って、ブツッと通話を切られた。何でこう、あいつは俺様なんだ!
[クリス、やっぱり仕事?]
 肩を落として溜め息をついた俺に、リリーが心配そうに訊いてきた。もう仕方がない、野となれ山となれだ!
[いや、仕事じゃないよ、リリー]
[でも総帥からの電話でしょ?]
[うん、でも仕事の話じゃかったから大丈夫だよ。食事に行こうか?]
 彼女に向けて、肘を曲げた左腕を差し出すと、嬉しそうに笑ってスルリと腕を組んでくれた。
[ふふ、良かった。さすがにバレンタインはあの総帥も、ちゃんと休みをくれるのね]
[ついでに、明日はリリーに休暇をくれるって]
[うそぉ!?]
[本当。俺も明日は休みだから、丸一日一緒にいられるよ]
[あらぁ、じゃあスタッフルーム抜きで初めてのお泊まりも出来るわね]
 嬉しそうに言われてドキッとした。もしかしてリリーは、ホテルで俺と泊まりたいのだろうか。そう考えた途端、心臓が高鳴ってしまった。落ち着け、俺!
 リリーに半ば引っ張られるようにして歩くのは、やはり男としてどうだろう?
[リリー]
[ん? なに?]
 先を行く彼女を呼ぶと、怪訝な顔をする。俺が出せる目一杯の男の威厳をもって、彼女と組んでる腕を引くと了解したといううなずきと共に、俺の横に来るように下がってくれた。
 予約している食事の場所は、リリーの希望で例の六本木にある高級レストランだ。よりによって敷島さんが支配人をしているところだなんて。クリスマスの時は別の場所で食事をしたから、すっかり油断していた。
 一人で入るには勇気がいるし、敷居も高い。だからこういう機会に行ってみたいんだと、彼女は言っていた。あのリゾートホテルといい、愁介が関わっているところは本当に女性に人気があるな。
 俺としては、知り合いがいないところで食事したいものだが、断る理由が見付からなかった。あの店が愁介と関わりがあるというのは、俺からバラしていいことじゃないだろうし。
 結局、グルグル悩んでいる間に、今日になってしまったという訳だ。つくづく情けない。
[リリー、寒くないか?]
[全然。ベルギーの冬はもっと寒いもの]
[へぇ……]
 か、会話が続かない。頑張れ、俺!
[あのさ……リリーはIT関連の部署で仕事しているだろ。どんなことしてるんだ?]
[ん? うーん……]
 話しにくそうな感じだ。まぁ俺の仕事もどんなだと訊かれれば、説明は難しい。リリーは勝手に、総帥付き秘書の一人と思ってくれているようだ。
[差し障りのない程度で]
[そうね、一番重要なのは、ハッカーに入られないようにすること。あとサイバー攻撃に備えることかしら]
[……なんか大変そうだな]
[そりゃあね、エインズワースは機密文書に関しては、絶対ネットワークを介さないから比較的安全と言っても、連絡はEメールやスカイプを使うことが多いから、神経を使うわ]
 リリーと付き合い始めて4ヵ月になるが、こういう話は今までしたことがなかった。訊く余裕が俺になかったと言ってしまっては身も蓋もないが。
[実際にハッカーに入られたりなんて、あったりするのか?]
[あるわよ]
 あっさり言ってくれたせいで、しばらく絶句していた。そんなこと、愁介やレオンの口から聞いたことなんて、一度もないぞ!?
[それって、結構事件だよな]
[まぁね。私たちの部署からしたら、大事件よ]
 俺にとっても大事件だよ。
[でも、そんな話は聞いたことがないってことは……]
[私たちの活躍で、事なきを得ているってことね]
 誇らしげに微笑むリリーが、眩しく見えた。俺は、自分の仕事に誇りを持てているだろうか?
 
 
 
 
 とか考えている間に、目的のレストランに着いた。
 中に入ると敷島さんが挨拶してくる。事前に俺のことは知らないフリをしてくれと頼んであるので、普通に客として扱ってくれた。
 案内されたのはフロアのほぼ中央。微妙に注目を浴びているのが、何とも居心地悪い。見れば、外人同士のカップルは皆無と言っていいほどだった。
 食事が来るまでの間、白ワインで乾杯した後、テーブルにネックレスの入った箱を置いた。
[リリー、バレンタインのプレゼント。気に入ってくれるといいんだけど]
[ありがとう。クリスが選んだものだもの、何でも嬉しいわ]
 ドキッとした。愁介が言っていた通りだ。
 蓋を開けたリリーの顔が、一瞬で綻んだ。よかった、チョイスは間違っていなかったようだ。リリーはネックレスを両手に取り、自分の首に当てた。
[似合う?]
[想像以上だよ。付けようか?]
 自然と口に出たセリフに、俺自身驚いた。俺、こんなこと言えたんだ。
 リリーは、しばし考えてから首を横に振った。
[うん、でもこの距離だと大変よ。周りの目もあるし]
 そう言って、自分でネックレスを着けた。
[ふふ、ありがとう、クリス]
 嬉しそうに言われると、もう有頂天な気分だ。今度はイヤリングを贈ることにしよう。
 
 
 
 
 食事の後、どうするか訊いてくるリリーに、俺は声がひっくり返りそうになるのを抑えつつ、ホテルに部屋を取ってあることを告げた。正確には愁介が取ってくれた部屋だが、さすがにそれを言うのは情けないと思った。
[用意がいいわね]
[バレンタインだから、ちょっと奮発したんだ]
[あらぁ、楽しみね]
 大通りに出ると、道路はかなり混んでいる。タクシーを捕まえても、移動にはかなりの時間が掛かりそうだ。20分も歩けば着く距離なので、このまま徒歩で行くことを提案すると、快諾してくれた。
[思った以上に食事が美味しかったから、たくさん食べちゃったの。ちょうどいい運動になるわ]
[20分も歩けば、着くよ]
[こんな風にのんびりと街を歩くの、初めてじゃない?]
 クリスマスの時季と比べると控え目ではあるが、冬季限定のイルミネーションを眺めながら、リリーが組んでいる俺の腕に頭を寄せてきた。彼女の重みを感じて、鼓動が高鳴る。それだけで喜びを感じられるのは、幸せなことだとしみじみ感じる。
[仕事のことを考えないでいられるのは、やっぱりいいか?]
[そうね、仕事をしている間は集中しているからそんなに感じないけど、それから解放されると、やっぱり仕事のストレスって大きいと思うわ。クリスだって、そうでしょ? 相手はあの総帥だもの]
[うん、まぁ……]
 愁介と学生時代からの付き合いなのは、公表していない。俺の場合、総帥付きのストレスというより、愁介から受ける意地悪のストレスの方が大きいと思う。そんなこと、口が裂けても言えないけどな。
 目的地のホテルに着くと、リリーは口を開けて建物を見上げた。
[ちょっとクリス、ここって]
[だから言っただろ、奮発したって]
 俺も覚悟していたとはいえ、入口の前に立つと足が震えるようだった。愁介がああ言っていたんだから、ここに部屋を取っているというのは本当のことだろうが、もしイタズラだったらと思うと怖い。
 ロビーに入ると、まるで日本じゃないみたいに豪華絢爛だ。愁介に連れて行かれて、海外の三ツ星ホテルに何度も泊まったことがあるが、そこと全く引けを取らない。周りにいるのは、見るからにセレブなお客ばかりだ。俺たち、浮いてないだろうか……。
 フロントで名前を告げると、相手がコンシェルジュから支配人に代わった。ああ、嫌な予感……。それはバッチリ当たった。
 案内された部屋は、完全に想定外のロイヤルスウィートルームだった。
 愁介……一体いくら使ったんだ? っていうか、まさか後から請求されるなんてことはないよな!? 一ヶ月分の給料は軽く飛ぶぞ!? そういえば、正確にプレゼントと言われた訳じゃなかった。
[クリス、奮発してくれたのは嬉しいけど、大丈夫なの?]
 二人きりになった室内を見回して、リリーは心配そうに訊いてくる。庶民の俺には頭が痛くなるほどの煌びやかな調度品は、きっとウン千万とか億単位の代物だろう。愁介の奴、自分は絢爛豪華なホテルは嫌いなくせに、人にはそれを押し付けるんだから性質(たち)が悪い。
[心配しなくていいよ。明日一日、ここでゆっくり出来るんだから]
 ここまで来て、イタズラだった、なんてことはないだろう。それに、たとえ支払うことになったとしても、破産することはないから大丈夫だろう。
 コートを脱いだリリーが俺を見上げてきた。熱のこもった視線に、体の内側が疼くように感じる。逸る気持ちを抑えつつ、互いに顔を近付けてキスをすると、一気に感情が爆発した。もう何でもいい、たとえここの部屋代を払うことになっても、もうどうでもよくなった。
 彼女の唇を貪るようにキスをし、脱力したリリーを抱えて寝室に行き、熱に浮かされたように彼女を抱いた。何も考えず、ただ彼女を感じさせることだけに悦びを見出していた。
 自分がこんな状態になるなんて信じられなかったが、リリーがそれを受け入れてくれたのは、正直嬉しかった。愁介も響子さんを抱いた時には、こんな想いをしているのだろうか。
 ありがとう、君との出会いに感謝する。リリー、愛しているよ。 
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