2011クリスマス特別編

 愛奈が産まれてからは、一度しか来たことのなかったバーラウンジは、クリスマスイブということもあって盛況していた。どういう訳か、カウンターを20代〜30代の若い女性がほぼ占領している状態で、フロア全体も女性が多いように感じる。
 今日のフロアマネージャーは、愁介と私のことをよく知っている初老の男性で、カウンターに私たちの席がないことを酷く恐縮していた。
「奥様がいらっしゃることは存じ上げていたのですが……」
「繁盛しているのはいいことじゃない。私たちはテーブル席でも構わないわよ、今日みたいな日はお客を大事にしなきゃ」
「恐れ入ります」
 案内されたテーブルは、フロアのほぼ真ん中、ボーイたちが忙しく歩き回る場所だった。まぁいいでしょう。たまにはみんなの働きぶりを見るのも、楽しいものだわ。
 向かいに座るのは、育ち盛りの克己。
「お腹空いたでしょう。なに食べる?」
「機内で食べてきたから、そんなに空いてないよ。ファーストクラスって、しょっちゅう何かしら出てくるじゃん。あれで世界中飛び回ってたら、絶対太るよ」
「あら、そういうものなの?」
 そういえば、ファーストクラスって乗ったことがないわ。現役時代はプライベートジェットだったし、日本に帰ってきてからは海外に行ったことがなかった。
 驚きつつそんな話をすると、「母さんて意外と世間知らずだね」と呆れられてしまった。
 言ってくれるわ。克己の歳でファーストクラスに乗る人だって、そうはいないわよ。愁介がいるから特別なことだってことを、肝に銘じさせなくちゃ。その辺のところは、アルベルトが教育してくれているとは思うけど。
 わざわざフロアマネージャーが注文を取りに来てくれたので、私はシャンパンとおつまみに海老のマリネを頼んだ。勿論、グラスは二つ。
「俺、未成年だよ?」
「クリスマスイブだから、特別に一杯だけよ。まさか、普段から飲んでいるじゃないでしょうね?」
「まさか。あのアルが許すと思う?」
 まぁ、そうよね。あの真面目なアルベルトなら、絶対見逃すこともないでしょうし。それに怒ると物凄く怖いという話。克己は一度叱られたことがあるらしく、二度とアルを怒らせないと誓っていた。私は見たことがないから、一度見てみたいものだわ。どのくらい怖いのか。
「それよりさ、気にならないの? あのカウンターの女の人たち」
「あら、どうして?」
「父さん目当てだよ、きっと」
 克己の位置からは、カウンターの中にいる愁介の姿がよく見えるみたい。私の背後を指差して言う。
「あんな中年親父のどこがいいのか、よく分かんないけどさ」
「でも若く見えるわよね、愁介って。年齢を知らなかったら、30代後半ってところじゃない?」
「だからさ、そうやって若く見える父さんに群がる若い女の人たちが、母さんは気にならないの?」
 どことなく意地悪に聞こえる言い方だった。子供のくせに、ませているわ。
 振り返って見てみると、確かにカウンターに座る女の子たちの目は、シェーカーを振りマドラーでステアする愁介の姿に釘付け。ちょっとウットリしているように、見えなくもない。
 愁介の方は、そんな女の子たちの視線はまるで無視して、自分の仕事をこなしている。気付いてはいるようだけど、別にわざわざ愛想を振りまく必要はないんだし。
 姿勢を直すと、息子は頬杖ついて意外にも真剣な目で父親を見ていた。
「克己?」
「世界経済の半分は、エインズワースの資本で動いてるのにさ。そこの総帥だったなんて、あの姿見ていると想像つかないよね。なんでバーテンなんかやり始めたんだろ。仕事なんかしなくたって、十分に生活出来るのに」
「夢だったのよ、愁介の」
「バーテンダーが?」
 目を丸くする克己に、微笑みながらうなずいて見せた。私も初めて知った時は驚いたわ。
 ちょうど運ばれてきたシャンパンで乾杯してから、愁介のことを話して聞かせた。自分のホテルでバーテンダーをするため、都内のバーで修行をしたこと。ようやく夢が叶う時になって、エインズワースの総帥に指名されてしまったこと。それも10年で終えるはずが、20年もやることになってしまったこと。
「ようやくよ。20年も掛かって、愁介は自分の夢を叶えることが出来たの。今はとっても楽しんでいるはずよ」
「ふうん、ちょっと意外だった」
「あら、何が?」
「ちゃんと修行したってこと。俺、道楽だと思ってたよ」
「まぁ、道楽といったらそうでしょうね。お給料はもらってないんだし」
「え、マジ?」
「あなたもさっき言ったじゃないの。仕事をしなくても十分に生活していけるって。本人にとっても道楽でしょうけど、やるからには完璧にって思う人だから。でもちょっと抜けてはいるわね。接客業に向いている性格じゃないって、分かっているはずなのに、こんなことしているんだから」
 岡崎さんのところで修行した時に分かっていたでしょうに、バーテンダーはお酒を作るのだけが仕事じゃないってこと。
「それなら母さんが言ってやればいいのに」
「言えないわよ、そんなこと。長年の夢がようやく叶ったんだから。それに、私は引退した彼には好きなことをさせてあげたいって思っていたし」
「……なんで?」
「やっと窮屈な仕事から解放されたんだもの。当然でしょ」
 世界経済の半分を支えている財閥の総帥なんて、上手くやってもそれが当たり前としか見られず、失敗でもしようものなら内外から非難轟々の嵐。それを20年もやらされてきたんだから。
 生まれた時から父親がそんな地位にいた克己には、よく分からないかもしれないわね。
 引退して2年も経つのに組織の愁介への依存が治まらず、ただの中学生になってもいいはずの克己まで、お目付け役が付くんだもの。それが当代総帥の依願なものだから、断ることも出来ない。因果な人生になっちゃったわね、私たち。
 それから少しして、フロアマネージャーが私たちをカウンター席に案内してくれた。バーラウンジに入ってから一時間以上が経っていた。お客の数も少し減ったみたい。
「はぁい、愁介。今日はお疲れ様ね」
「ああ、暇な女が多いな、今年は」
 やっぱり、カウンター席にいた女の子たちの視線には、気付いていたのね。でもそれって、さっき咲弥子さんも言っていたけど、ここのバーが雑誌で紹介されたからよ。それを言ったら渋い顔をされちゃった。
「どうしたの?」
「携帯で写真を撮ってる女もいた。しばらくはここに出られないな」
 ああ、そういうこと。今頃は個人ブログやソーシャルネットに掲載されているでしょうからね。雑誌には顔写真を出させなかったけど、さすがに個人のネットを妨害する訳にはいかないわ。
「いいじゃない。休暇だと思えば? 克己も2週間は日本にいるんだから」
「…………」
 もう、二人してそんな嫌そうな顔で睨み合わないの!
 密かに呆れていると、愁介が克己のシャンパングラスを目に留めた。
「酒を飲ませたのか」
「クリスマスイブだもの、一杯だけよ。それにあなたが14の時には」
「分かったよ、一杯だけ見逃す」
 息子の前で若気の所業をバラされるのは、父親の沽券に関わるものね。克己は興味津々で聞きたがったけど、そこは愁介のために黙っておいた。私もそんなに詳しく知っている訳じゃないし。
「愛奈は?」
「お母さんに預けてきたわ。明日の夜まで、面倒を見てくれるって」
「ふん、なら今夜は楽しめるな」
 なにを、とは敢えて聞かないわ。まぁ、嬉しそうな顔しちゃって。愛奈のことは息子よりは可愛いと思ってくれているようだけど、今は何かと手が掛かる時期だからしょうがないかしらね。私も今夜はゆっくり眠れそうだし。彼が早めに解放してくれれば。
「お正月は克己も連れて行くって言ったら、喜んでいたわよ」
 こういう時しか帰ってこない克己は、お爺ちゃんお婆ちゃんとは2回しか会った事が無い。今後は一緒に過ごす時間が増えるといいのだけど。
 克己を見たら、ちょっと複雑そうな顔をしていた。この歳の子供だと「お年玉がもらえる」と言えば嬉々として付いてくるでしょうけど、この子は昔から金銭に苦労したことがないからね。
「なにか飲むか?」
 愁介がちょっとバーテンダーの顔になって訊いてきた。せっかくだもの、彼のカクテルを飲みたいわね。
「じゃあ、今夜はホワイトレディを頂戴」
「ジンでいいのか?」
 大抵はウォッカベースが好みの私だから、ちょっと驚いた目でゴードンのボトルを手にする。
「うん、そうして」
「俺は」
「ジュースをやるからそれを飲め」
 有無を言わせない口調に、ムッとした顔を見せる克己。
「分かってるよ、だからウォッカなしのソルティドッグって言おうとしたのに」
「愁介はちゃんと分かっているわよ」
 憮然としている克己を慰めている間に、愁介は手早くシェイカーを振って、ジンとホワイトキュラソーとレモンジュースを混ぜていた。それをカクテルグラスに注いで私の前に差し出す。
 克己には、縁に塩を付けてスノースタイルにしたタンブラーに、グレープフルーツジュースを注いでいた。見た目はちゃんとソルティドッグにするんだから、気に入らなくても彼なりに息子のことは思ってくれているんでしょう。
 愁介に向けてカクテルグラスを掲げたところで、背後から驚愕したような声が聞こえた。
「ゲッ、なんでこんなとこにいるんだよ」
「え、誰? あっ」
 聞いたことのある声だわ。グラスを置いて振り返って見ると、さっき会った隆広さんと咲弥子さんが腕を絡め合って立っていた。
「あら、来たわね」
「あ、こんばんは。えっと、誰ですか?」
 咲弥子さんは愁介のこと、知らないのね。目を丸くして、カウンターの中にいる彼を指差している。指を差された愁介は、怒るというより呆れた目で隆広さんを見た。隆広さんは慌てて指差す咲弥子さんの腕を下ろさせた。
 こちらには聞こえないように耳打ちしているのは、エインズワースのことを話しているのかしら。咲弥子さんは、ビックリした表情で私と愁介を交互に見た。
「なんでそんな偉い人が、バーテンなんてやってるのよ?」
「俺に聞くなよ。あいつがいるって知ってたら、お前にせがまれたって来ねぇよ」
「おい、聞こえてるぞ。とっととここに来て座れ」
 愁介が空いている私の横の席を示すと、隆広さんは逆らえずにスゴスゴとやってきた。
「顔を出した方がいいって、こういうことですか」
「ええ、そうよ。私が言わなくても、あなた方が泊まったことは愁介の耳に入るもの。会っておいた方がいいでしょう」
「まぁ、それはそうですが」
 日本を代表する東海林グループの会長を務める彼は、若くても形式や礼儀を蔑ろにしないと聞いているわ。そんな人が愁介を無視する訳にはいかないでしょう。
「響子さんて、すごい人だったんですね」
「そんなことないわよ。愁介と結婚したから、そういうことになっただけ。あなただってそうでしょ?」
「でも、東海林グループ会長夫人なんて、あたしの柄じゃないですよ」
 それを言ったら、私だって同じよ。お互いパートナーが偉いと苦労するわね。口には出さず、でも目でそんなことを話してみると、咲弥子さんは苦笑いで返してきた。
「お前たち、まだ結婚してないのか」
 愁介が二人の前に、琥珀色のお酒を満たしたショットグラスを置いて言った。二人共、お酒に強いのは有名だもの。中身はウィスキーね。
 愁介の口調はちょっと呆れているように聞こえる。まぁそうよね。東海林家では咲弥子さんをとっくに認めているのに、未だに籍に入っていないんだもの。
「こいつがさせてくれないんですよ」
「だって、結婚したら仕事を続けられないでしょ。あたしはまだ辞めたくないの!」
 確か咲弥子さんて隆広さんの秘書をやっているのよね。一緒に住んでいるとも聞いているし、実質的には夫婦みたいなものなのに。愁介は肩頬を歪めて笑っているわ。
「お前にしては珍しく弱気だな」
「こいつに逃げられたくないですからね」
「逃げたりはしないけどさ、あたしは仕事をしていたいの!」
 私も篁さんの秘書をしていたから、その気持ちは分からなくもないわ。仕事を続けられればそれが一番いいのでしょうけど、それじゃ東海林家の体面に関わるものね。
 咲弥子さんは、ショットグラスのウィスキーを一息で呷ってしまった。隆広さんはもう3杯目が注がれている。私も他人のことは言えないけれど、二人共酒豪よね。
「ところで、雑誌に載っていたイケメンのバーテンて、篠宮さんのことですよね?」
「ああ、そうだ」
 私たちと話している間も、愁介の元にはお客の注文が入ってくる。その度に手早くカクテルや水割りを作って行く。メジャーカップも使わずに目分量で、グラスにピッタリの量を作って行く鮮やかな手捌きは、いつ見ても感嘆ものだわ。咲弥子さんも感動した目でその姿を見ていた。
 それにしても、イケメンと言われてサラリと肯定するところは相変わらずね。確かに同世代の男の人たちと比べたら、若くてイケてるけど。
「どんなカクテルも美味しく作れるって紹介されてましたけど」
「ふん、俺を試す気か。いい度胸だな」
 隆広さんにもあんな態度だものね。でも愁介に対しても物怖じしないって、凄いわ。ちょっと感動していると、私の隣に座っている隆広さんが溜め息をついた。
「あんまり挑発するなよ。怒らせるとおっかねぇんだから」
「でも、飲んでみたいじゃない」
「東海林を潰すなよ」
「えっ、そういう人?」
 愁介を指差しながら、咲弥子さんは驚愕の目で隆広さんを見た。それは言い過ぎでしょ。お酒のことで挑発されたくらいじゃ、怒らないわよ。
「そんな大人気ないことをするか。大体、東海林が無くなったら日本が困る」
「俺も困るんで、やってほしくないですよ。ったく、とんでもないことを言いやがる」
「お坊ちゃまにはスリリングでしょ。俺様御曹司は、たまには困窮すればいいのよ」
「冗談でも、この人の前で言うなよ。本気になられたらマズイじゃねぇか」
 本当に困るように言うから、驚いたわ。怒らせたならともかく、理不尽なことはしない人なんだけど。声の調子や口調から、隆広さんは本気で彼をそんな怖い人だと思っているみたいね。総帥時代に、そんな怖ろしげなことしたかしら?
「お前たちが俺をどう思っていようとどうでもいいが、何が飲みたい」
「あっ、じゃあ、ボンバーでお願いします」
「……本気か?」
「カクテルグラス一杯くらいなら、大丈夫ですよ」
 あの愁介が一瞬でも絶句した。物凄く強いカクテルなのかしら? 咲弥子さんはケロッとしているし、隆広さんもさっきの方がよっぽど驚いていたから、彼女にとっては普通なのね。
 どういうカクテルなのか興味津々で見ていたら、ウォッカとブランデーを手に取った。それに2種類のリキュールを加えてシェイクしている。リキュールだって甘口だけどお酒よ? さすがにこれだけのアルコールを一気に飲んだことは、私もないわ。
 最後の一滴をグラスに注いでも決して溢れない絶妙な量で、咲弥子さんの前に差し出す。
「いただきます」
 グラスを持ち上げて、くいっと一口含む。ちょっと目を丸くしてから飲み込んで、もう二口いった。それで全部飲み干しちゃった。
「美味いのか?」
「感動するくらい。ウォッカもブランデーもちゃんと混ざってるし、強いお酒を使ってるのに口当たりもいいわよ」
 咲弥子さんの感想に、隆広さんはピンと来ていないみたい。あの感動は、愁介のカクテルを飲んだ人にしか分からないわよね。
「混ざってて当然じゃねぇのか?」
「それがさ、下手な人だと微妙ぉな感じが残るんだけど、全然そんなことないの。凄ぉい、あたしまたここに飲みに来よう」
「なっ!? カクテル飲むならマスターのところでいいだろうが」
「マスターはマスターでいいけどさ、篠宮さんのカクテルは別格だよ」
 感動する気持ちはよく分かるけどね、咲弥子さん。隆広さんの愁介を見る目が怖いわ。
「来るのは構わんが、こいつは連れてくるな。煩い」
「うるさ……誰が、頼まれたって来るか。おい、もういいだろ。行くぞ」
「ああん、別のも飲んでみたいのにぃ」
 咲弥子さんの抗議は無視して、隆広さんは彼女の肩を抱いて行ってしまった。強引に歩かされながらも、咲弥子さんは私たちに会釈して行く。器用な人だわ。
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