今日はバレンタインデー。土曜日だけど、研修の身であるあたしたちはお休み。
……なのに、何故か会社に来ているあたし。
一昨日、篁さんから会長室……ってつまり、秘密の53階に行くように言われたから、何をやらされるのかと思って行ってみたら、「明後日ここに来い」という篠宮さんからの一言だった。
加奈子は、「篠宮さんにチョコをあげるんでしょ!」ってしつこく言われたけど、チョコレートを食べる篠宮さんがどうしても想像出来なくて、どんなチョコを買えばいいのか分からなくて、何も買うことが出来なかった。
里佳は、「響子がプレゼントになればいいじゃない」なんて言ってたけど、まさか本当にそういうことになっちゃうとは……。
**********
いつもの如く、クリスさんのお迎えで会社に来たあたし。
仕事じゃないのに会社に来るって、やっぱり変な感じがする。地下の駐車場から入るとはいえ、やっぱり違和感はぬぐえない。
「今日って、篠宮さんはお仕事ですよね?」
基本的に休みの日以外は、殆ど一日中拘束されちゃうのに、あたしが来ても大丈夫なのかな。
「それが、恋人がいる身でバレンタインデーに仕事なんかするか! と言って、強引に休みを取り付けてしまいまして」
「えと……ホントですか?」
「怖いくらいに真顔でした」
そう言ったクリスさんの顔は、本当に怖そうだった。
あたし、何をやらされるんだろ!? こ、怖いよぉ!!
そうこうしてる内にエレベーターは52階に着いちゃった。お仕事してるなら53階にいるんだから、ここで止まったってことは、お休みってことなのよね?
エレベーターのドアが開いた途端、視界に飛び込んできたのは、黒いスーツで黒っぽいシャツを着た篠宮さんの、腕を組んで仁王立ちしている姿だった。
「遅い!」
「申し訳ございません」
全然遅くないはずなのに、クリスさんが丁寧に頭を下げる。
あたしは左腕にはめた腕時計を見た。
「あの……」
「俺が仕度を終えてんのに、お前が遅くてどうするよ」
「えっと、でも篠宮さんが」
「名前」
な、名前って……まだ慣れてないのに、呼ばなきゃいけないんですか!?
って口に出せたら、あたしももっと色々楽になれるのになぁ、なんて思いながら、一生懸命口にしてみました。
「えと……しゅ、しゅ、しゅーすけさんが」
「なんだ、その舌ったらずな言い方は!」
「だって、まだ慣れてませんもん。篠宮さんの方が言いやすいんですけど……」
ダメもとで訊いてみたら、やっぱりダメだった。
「慣れてないなら尚更だ。もっとスムーズに言え。面倒臭ぇ、行くぞ」
「え!?」
エレベーターを降りたばっかりで、今度は篠宮さん……えっと、しゅ、愁介さんと一緒にエレベーターに乗せられた。
「せっかく上ってきたのに……」
「どうせすぐに出るんだ。別にいいだろう」
それはまぁそうですけど……。
「でも、本当にクリスさんは遅くなんかなかったですよ?」
さっき言いそびれたことを言ったら、ジロっと睨まれた。な、なんで!?
「……お前、相変わらずクリスは名前で呼ぶんだな」
「だって、それで慣れてますから、あっ」
「ってことだ。俺のことも慣れろ」
うぇ〜ん、慣れろって言われても、何でもない人の名前を呼ぶのと、好きな人の名前を呼ぶのは全然違うんですけど。……って、こんな女の子の気持ちなんて、全然分かってないんだろうなぁ、し…愁介さんは。
うわぁ、名前で呼ぶとあたしたちって恋人同士なんだなぁって思う。スムーズに口に出せるようになるには、もっと時間が掛かりそうだけど。
「どうせお前のことだから、変なこと考えてんだろ」
「へ、変なことじゃありません!」
「ふん、今日一日俺のことは名前で呼べよ。苗字で呼んだら、その回数分、後で覚えてろ」
ぎゃっ!
「返事は?」
「う、わ、分かりました。えと……し、愁介さん」
呼ぶたびに顔が赤くなってると思うんだけど、篠宮さ……愁介さんは満足そうに笑った。
**********
駐車場に着いたエレベーターを降りてから、し、愁介さんの車に乗せられて、やってきたのは銀座。
なんか凄い建物に入ったような気が……。テレビで見たことありますよ!
車を降りて、いつぞやの食事の時のように、し、愁介さんの腕に自分の腕を絡むようにして歩かされて、ロビーのようなところに出た。
受付みたいなカウンターにいるのは、スッゴイ美人のお姉さん二人。お客さんみたいな人も、みんな美人さんばっかり。テレビとかで見たことがある。もしかしてここってエステサロンとか言うところ!?
ほえーっと周りを見ている間に、しの…愁介さんはここの人と話をしていたみたいで、あたしは美人のおばさん……って言ったら失礼だけど、あたしよりずっと年上の女の人なのにスッゴイ美人な人に引き渡された。
何が始まるのか分からない状態のあたし。
何故か服を脱ぐように言われて、バスローブみたいものを着せられ、顔やら体やら、なんかとっても気持ちのいいことをされた。何ていうの? こう……溜まったものがスッキリ出ちゃうような、そんな感じ。終わると、顔と体の皮が一枚剥けたような感覚がした。
それから今度は髪を色々いじられた。これもまた、いつもの美容室とは比較にならないくらい気持ち良くて、うとうと眠っちゃった。
そっと肩を叩かれて目を覚ますと、今度は別のフロアに移動。えっと、バスローブのまんまですけど……と思っていたら、行った先は芸能人の衣裳部屋みたいなところ。
すごーい! 綺麗なドレスが、これでもかっ! ってくらい並んでいる。ふと壁を見て、卒倒するかと思った。だって、あたしでも知ってるブランドのロゴマークがあったんだもん。え、もしかして、ここってあの何とかタワーってところ!?
ひえー!
血の気が引くあたしの元に、その美人のおばさん……もとい、ずっと年上の女の人は、すみれ色のドレスを持ってきて、あたしの体に当てた。そんなのウェストが細いドレス、あたしは着れないですけど!?
そうは思っても口に出せるはずもなく、女の人は、今度はレースのついたブラジャーやパンティを持ってきて、あたしにニコッと笑った。
「どうぞ、島谷様。こちらをお召し下さい」
「え!? で、でも」
「篠宮様から承っております」
し、愁介さんからって……あ、さっきなんか話してた。うう、着ないとダメですか? って、これ脱いだら裸だもんね、あたし。
仕方なく、それらを受け取って……って、どこで着替えるの!?
不安になって女の人を見たら、すぐにカーテンで仕切られた場所に連れてってくれた。
一人になって、急に心細くなったけど、そのままでいることも出来ないから、思い切ってバスローブを脱ぎ捨てて下着を着けた。
ビックリ。あたしにピッタリなんだもん。……あたし痩せたのかな?
「島谷様、よろしいでしょうか?」
カーテンの向こうから、あの女の人の声がした。
「あ、はい。着けました!」
慌ててそう言ったら、その人は優しそうに笑いながらカーテンの中に入ってきた。
「そんなに緊張されることは、ありませんよ。このようなところは初めてですか?」
「う…… は、はい。すみません、あたし慣れてなくて」
「気に病まれることはありません。どうぞもっとリラックスなさってくださいな」
その人は、下着姿のあたしを上から下まで眺めた。ひぇ! まさか、そんな風に見られるなんて思わなかったから、思わず身をよじった。
「恥ずかしがることはありませんわ。島谷様は、素晴らしいプロポーションをされています。これなら、どのような服もお似合いになられますよ」
「そ、そんなことありません! この下着も、絶対入らないと思っていたんですけど、あたし痩せたんでしょうか?」
「先程エステを受けられましたでしょう。それで多少細くなられたとは思いますが、それは元々の島谷様のサイズでございますよ」
えっと、商売上手なのかな? この人。そう言われて嬉しいとは思うけど、そんなにあたしは細くない。
「え……でも、前はもっと」
「ここにお越しになられた時にお召しになっていた下着は、サイズの選び方を間違っておられたのです」
ええー!?
それから、その女の人……って、よく見たら胸に名札が付いていて、ここの副支配人さんだった。その副支配人さんに、ブラジャーの正しいサイズの選び方を教わった。あたし、今まで一回り大きいのを選んでたみたい。
「でも、着けていて楽だったんですけど?」
「今は如何です? 苦しいですか?」
言われて、よく感触を確かめてみた。
「そういえば、全然苦しくないです。っていうか、むしろ今までのよりも胸が張っているような感じで、気持ちがいいかも」
副支配人さんは笑顔でコクッと頷いた。
「サイズの合った下着というのは、そういうものですわ」
そっか。うん、一つ勉強になった!
「では、次にこちらをどうぞ」
そう言って見せられたのは、さっき体に当てていた、すみれ色のドレスだった。ノースリーブのような肩の形で、胸のところに同じ色のレースやビーズで刺繍がしてある、あたしが見ても素敵だと思うドレス。
「でも、あたしには細過ぎます」
「そんなことはありませんわ。どうぞお召しになってみて下さい」
そう言って、ドレスのファスナーを降ろしてあたしの足に履かせようとしたから、慌ててそれを受け取った。
「あ、あたし、自分で着れますから!!」
「では、外でお待ちしていますね」
一人になって、ちょっとホッとした。
とはいえ、本当にこれがあたしに入るのか? 半信半疑ではいてみたら、測った様にピッタリとあたしの体にフィットした。
「いかがですか?」
「は、はい!」
び、びっくりした! あたしが着終わって、体にフィットしたのに感動したところで声を掛けるんだもん。どこかに監視カメラでも付いているんじゃないかと、疑っちゃうよ!
副支配人さんがカーテンから入ってきて、あたしを見て目を丸くした。
ごめんなさい、せっかく選んでもらったのに、似合ってませんよね。
「まるで島谷様のためにデザインされたようなドレスですわ」
は!? あたし耳がおかしくなったかな?
「よくお似合いですよ。わたくしの目に狂いはありませんでした」
ホウッとしたような感じの口調で、もしかして似合わなかったら、しの…愁介さんから何かされるのかもしれないって思っちゃった。だって、それくらいしそうだもん、愁介さんて。
それから、10センチはありそうな紅いハイヒールをはかされた。足元がぐらつく〜!
そうしたら今度は美容室に逆戻りして、メイクしてくれて髪もアップにセットされた。後れ毛がセクシーなんて思ったけど、これってあたしよね!? 自分じゃないみたい。
キラキラした金のイヤリングに、高そうなネックレスと、アクセサリまで用意され、ハンドバッグまでしっかり持たされて、出来上がったのはとんでもない美女だった!
えー!? これってホントにあたし!?
姿見の前にいるのは、すみれ色の膝丈ドレスを着た、綺麗なお姫様みたない美人さん。自分が動く度に、鏡の中の美人さんも一緒に動く。確かにあたしだ! 今にも足が素ッ転びそうだから、絶対あたしだ!
「如何なさいましたか? 島谷様」
鏡の前で、しかも鏡を見ながらしきりに動き回るあたしを、副支配人さんは不思議そうな顔で見た。
「あ、いえ……その、馬子にも衣装ってこんな感じかなって」
こんなこと言って笑われるかなと思ったら、やっぱり笑われた。
「その言葉は、島谷様には適しませんよ」
「え!?」
「笑ってしまい失礼致しました。ですが、その美しさは島谷様自身が持つものです。わたしくは、貴女様の持つその『美』を表現するのを、ほんの少し手助けしただけですよ」
「で、でも、お化粧だってしたし、髪も普段のあたしじゃないし、ドレスだって」
いつものあたしの格好じゃないもの!
でも、副支配人さんは、はっきりと首を振った。
「メイクは、ファンデーションを薄くひいただけで、後は全てポイントメイクでメリハリを付けただけです。ヘアは、そのドレスに合う形にさせて頂きました。ドレスについては、先程申し上げました通り、島谷様のためにデザインされた思われるほどにフィットされておいでです。わたくしがどんなに手を尽くしたとしても、似合わないお客様には決して似合わないのでございます。ですから、これは島谷様だけのお姿ですよ」
もう一度、鏡の中のあたしを見た。
よーく見れば、メイクはそんなの濃くない。髪だって、会社に行く時は丸く上げてバレッタで留めてる。ドレスだけはいつもと違うけど、でも、やっぱりあたしなんだ。
この美人さんが、あたしなんだ……。
副支配人さんに連れられて最初に来たロビーに戻ると、受付のお姉さんやお客さんの姿はなくて、愁介さんだけがソファにもたれて眠っていた。
もしかして、今日お休みにするために、昨日まで無理してお仕事してたのかな? いくら総帥だからって、勝手にお休みなんか出来ないもんね。口ではどんなに言ったって、そういう人だって、あたしはよく知ってるんだった。
ただの黒だと思っていたスーツは、同系色で薔薇みたいな地模様が描かれている。ネクタイも同じ柄だ。光沢があって、角度によって模様がくっきり見えたり消えたりする。ううん、高そう。
シャツも黒っぽいけど、よく見ると赤っぽいストライプが入ってる。とっても細くて暗い色だから、遠目には黒にしか見えない。でも近くで見ると黒には見えないから不思議。
こういうコーディネイトは、マギーさんの担当って以前に聞いた。愁介さんのことを、よく分かってるんだなぁ。あたしも、いつかそういう風に出来る時が来るのかな。自信はまだないけど、そうなりたいって、今の愁介さんを見て思った。
愁介さんは、あたしが目の前に来ても目を覚ます気配がない。
どうしよう……。チラッと副支配人さんを見たら、ニコッと笑って頷かれた。
あたしの自由にってこと?
ううん……お伽話では、キスで目覚めるのはお姫様だよね。王子様でも……いいかな? 周りに人もいないし……。
あたしは、そっと愁介さんに近付いて、軽く触れるように唇にキスをした。
うわー!! 初めて自分からやっちゃった! 恥ずかしい! っていうか照れる!! 誰か人がいたら、絶対に出来ないよ!!
ほんのちょっとだけのキス。でも、離れた瞬間、愁介さんがパチッと目を開けて、それからボー然とした顔であたしを見上げた。
「響子、お前今、キスしたか?」
恥ずかし過ぎて声を出せずに、無言で頷くあたし。愁介さんは愁介さんで、何故か頭を抱えているし。
ど、どうしちゃったの!?
「お前、する前に声くらい掛けろ」
「だ、だって……。声掛けたら愁介さん、起きちゃうじゃないですか」
うわー、やっぱり口に出して名前を呼ぶのって、思うだけとは違って心臓がドキドキしちゃう。
それから愁介さんは、満足そうに副支配人さんに目を向けた。
「ふん、魔法使いに任せて正解だったな」
「え? 魔法使い、ですか? 副支配人さんが?」
愁介さんの口から『魔法使い』って、ちょっと笑える。
「ああ、業界じゃ有名だぜ。平凡な女も、彼女の手に掛かると目の覚めるような美女に生まれ変わるってな」
「じゃあ、あたしも……」
「お前は違うだろ」
「ち、ちがって……」
「お前自身の思い込みと長年の刷り込みの結果だからな」
うう、その通りですけど……。お母さんも、それだけは悪かったって謝ってたし。
「で?」
「で? って何ですか?」
「魔法使いに、長年掛かっていた魔法を解かれただろ。気分はどうだ?」
「ど、どうだって言われても……えっと、何ていうか……これってあたしなんだなって、その、認識したというか」
最後はあまり言葉にならなくて、ゴニョゴニョした感じにしか言えなかった。でも、愁介さんには通じたみたい。
ゆっくりと立ち上がって、あたしの腰に手を回してきた。
こ、これは、前に見た、篁さんが碧さんの腰に手を回してたのと、同じポーズ! ちょっとくすぐったいけど、なんか照れるというか、ちょっと恥ずかしいかも。
「えっと……愁介さん?」
すぐ傍にあるイケメンを見上げた途端、思いっきりキスされた。だ、誰もいなくて……副支配人さんだけでよかったー。
「そのドレスとアクセサリと靴は、お前にやるよ。バレンタインのプレゼントだ」
「え!? で、でも普通バレンタインは女の子からチョコのプレゼントでは……」
「そりゃお前、日本だけだぜ。菓子メーカーが仕組んだイベントだろうが」
「えー!? じゃあ、チョコレート会社の陰謀っていう噂は」
前にちょこっと小耳に挟んだ程度だけど、まさかって思っていたのに。
「真実ってことだな。で? そう言うってことは、お前は俺に用意してたのか?」
うう、そんな意地悪そうな顔で訊かないで下さい。
「あの、その……チョ、チョコを食べる愁介さんが想像出来なくて、結局用意してないです。だから、その……あのぉ」
里佳の言葉がグルグル頭の中を巡ってる。言うの!? あれを!! い、言わなきゃダメ!?
「なんだよ。早く言え」
うぇーん!
「あ、あたしをプレゼントしますから、もらって下さい」
言ったー!! と思った瞬間、物凄い力で抱きしめられてしまいました。