真夜中の訪問者 2

 響子は一人ベッドの上で青褪めていた。
 現在の時刻は3時40分。愁介は今シャワーを浴びている。彼の寝室のバスルームに比べたら、おもちゃのようなユニットバスだが、愁介は全く気にしないと言って入って行った。
 さっき自分は何を言ったのだろう?
 マンションを買って下さい、なんて言ってしまった。脳裏に浮かんだことを、自分なりに言い表しただけだったが、後から考えるととんでもないことだ。
「ちょっと待って、マンションよマンション。しかも会社のすぐ近くなんて言ったら、どんだけ高いところよ!?」
 あんなことを言ってしまった自分が空恐ろしい。しかも「愁介さんも一緒に住める」なんて口走っていた。
「うわぁ、どうしよう……」
 響子は頭を抱えたが、あの時は愁介がそう思っているのではないかと感じたのだ。あのビルの外で、暮らしたいのでないかと……。
「だからって、だからって! あんなこと言うことないでしょ、あたしぃ!!」
 耳まで顔を真っ赤にして、バスンバスンと枕を叩く。そしてベッドの上で膝を抱え、悶々としていた。
 そうしている間に、バスルームから愁介が出て来た。バスタオルで豪快に頭を拭いている姿に、響子はドキッとする。水が滴っていると男前が更にグッと上がるのは真実なのだ。が、しかし、響子は彼の姿を見てあんぐり口を開け、そそくさと壁の方を向いた。
「ん? どうした響子」
「いいいいえ、なんでもありません。早く服を着ちゃって下さい」
 なんでこの人は、女の子の前で全裸を見せるのに、何の頓着もないのだろう?
 出てきた愁介は、体についた水滴はしっかり拭き取っていたものの、素っ裸だったのだ。セックスやシャワーの後でこういう姿なのはよく目撃しているが、慣れるということは一生ないような気がした。
 言われた愁介は、今回は素直に着替えている。大抵はそう言う響子をからかうのだが、さすがに深夜ということもあり遠慮したのだろう。今後いくらでもいじり倒せると、思ったのかもしれない。
「お前は? シャワー浴びるか?」
 そう問われた響子は、彼が着替えたことを確認してようやく壁から視線を離した。
「あたしは、会社に行く前にします」
 5時には日本を発つと言っていた。なるべくなら一緒にいる時間を長くしたい。無意識にそう思った響子は、スーツ姿の愁介を惚れ惚れと見つめた。地味なスーツでも洗い立てのボサボサ髪でも、彼のカッコよさは変わらない。
 その愁介は、またしても意地の悪そうな顔でのたまった。
「ああ、じゃあそのままでいろよ」
「は? そのまま?」
 訳が分からず自分の体を見て、響子は青褪めた。なんと全裸のままだった。慌てて毛布を体に巻いてベッドから降り、床に落ちているパジャマに手を伸ばす。
「き、き、着替えます!」
「ダメだ」
「やっ」
 ひょいと体を抱えられ、そのまま彼はテーブルの置いてある場所で腰を下ろす。響子は全裸のまま、あぐらをかいた彼の膝の上で抱えられた。
「あの、あの……こ、こんなカッコであたし……あっ!」
 ジタバタする彼女の胸を片手で包み込むように押さえると、響子は静かになった。体中白い肌が、羞恥のために仄かにピンク色に染まる。顔は見るまでもなく、耳の後ろまで真っ赤だった。愁介の膝の上で身を固くしている。
 大人しくなった響子の肩に、チュッとキスを落とす。ビクッと飛び上がるように反応する響子に、彼はくつくつと笑った。
「い、いじわるしないで下さい……」
「俺の目の保養になる。いいから、大人しくしてろ。この時間じゃもう何もしねぇよ」
「で、でもでも! せめてパンツくらい……」
「仕方ねぇな」
 本当に「仕方なく」な言い方だったが、響子はホッとして彼の膝から降り、丸まったパジャマの中からパンツを取り出してはいた。
「お前、いつもはそんなパンツはいてんのか?」
「え? そうですけど?」
「ふぅん」
 ニヤニヤ笑う愁介に、響子はムッとした。
「何ですか? ちゃんと言って下さい」
「ああいや、悪い。デートの時は勝負パンツってのをはいてるんだな」
「え……あ! そ、それはっ」
 そうだった。愁介とデートの時は、レース仕立てのブラジャーとショーツを着けている。が、今は自宅でしかもパジャマだったこともあり、コットンの白いパンツをはいていたのだ。
 慌てる彼女を愁介は笑って見ている。
「もう……ホントに、意地悪しないで下さい」
「ああ、悪かった。侘びのしるしに、着替えさせてやるよ。パジャマ着な」
「う、あ、ありがとうございます」
 意地悪されたのだからそれくらいは当然だろうが、礼を言ってしまった自分を響子は少し情けなく思った。
「じゃ、仕切りなおしだな。座れ」
 そう言って、再び自分の膝を指し示す愁介。今度は響子も素直に従った。
 自分の部屋でガラスのテーブルを前に、あぐらをかいた彼の膝の上に座る。これまた非現実的な状況に、響子はいたたまれずにうつむいた。
 その視界に、ピンクのリボンで飾られた白い小さな箱がすいっと入って来る。それは愁介がここに来た折に持っていたものだった。
「愁介さん? これ……」
「誕生日おめでとう、響子。俺からのプレゼントだ」
「え!? プレゼントって……マンションじゃないんですか?」
「ああ、そういう手もあるな。マンションがいいのか?」
「ちち、違います! だって急に決まったお休みなのに、プレゼントを用意出来るなんて……」
 それにマンションなんて代物は、プレゼントであれば少しは気持ちが安らぐと思ったのだ。
「これはお前にやるために作らせたんだ。開けてみろ」
「あ、はい」
 一体中身は何なのか……。震える手でゆっくりリボンを解き、白い箱の蓋を開ける。
「わぁ、ケーキ!」
 それは直径10センチくらいの、チョコレートケーキだった。こんなに小さいホール型のケーキは、そこらでは売っていない。それに彼の来た時間を考えると、この時間に開いているケーキ屋などない。
 響子は首を捻って背後の愁介を見た。
「愁介さん? これどうしたんですか?」
「ベルギーっつったら有名なチョコ・ブランドがあるだろう」
「ベルギーで有名って……もしかしてゴディバですか!?」
「ああ、そこの本店のパティシエに作らせた」
「本店……」
 ドーンという擬音と共に、響子の脳裏に想像上のゴディバ本店のイメージが浮かぶ。そこのパティシエに作らせるなんて、普通は出来ない。
「ゴディバのくせに一人用のチョコレートケーキはないっつうから、特別に作らせた」
「は!?」
「ま、世界にこれ一個ってことだな。日本に来る時はドライアイスの中に入れていたし、箱の中にも小さいのを入れさせたから、この時期でも悪くはなってねぇだろ」
 愁介の説明は、響子の耳を左から右へ抜けていた。
「……せ、世界で一個」
 それが目の前にある。響子は口を開けて、そのチョコレートケーキを眺めた。
「食べてみろよ」
「は!? 食べるんですか!?」
「当たり前だろうが。何のために持ってきたと思ってるんだ?」
 これを食べる!? なんという罰当たりなことだろう。
「そんな、食べられません」
「あ? なんでだよ。そのためにわざわざ持ってきたんだぞ?」
「だって、世界で一個ですよ? 食べたらなくなっちゃうんですよ!?」
「お前、なに言ってんだ。欲しけりゃまた作らせる。いいから食え」
 少し機嫌の悪くなってきた愁介に身をすくめ、響子は諦めて世界でたった一つのケーキを、箱の中から出した。が、そのままでは食べられない。
「えと、あの……お皿とフォークがないと……」
「取って来い」
「あ……はい」
 立ち上がった響子は、食器棚から皿とフォークを2組出す。
「俺の分はいらねぇぞ」
「え、でも……」
 僅かに逡巡した響子は、結局2組の皿とフォークを持ってきた。スウィーツは嫌いな愁介は、実に嫌そうな顔をしている。
「響子……」
「だって、もし使うことになったら、また取りに行かなきゃいけないじゃないですか」
「ふん。まぁいい、座れ」
「う……あの、そこに、ですか?」
 自分の膝を指差す彼に、響子は固い声で訊く。あわよくば隣りに座ろうと思っていたのだが、見透かされていたようだ。
「いいから来い」
「…………あっ」
 無言の抵抗をしていた響子の腰を抱え、愁介は膝の上に彼女を座らせた。
「早く食え」
「えと、それでは」
 皿にケーキを乗せ、響子はひとしきりそれを眺めた。
 ゴテゴテとした飾りは付いていないシンプルなケーキで、ココア色の生クリームが渦を巻いて、ちょこんと乗っている。スポンジの周りはふわふわしたココア色のクリームだ。
 パティシエさん、ごめんなさい!
 心の中で遠いベルギーのパティシエに謝罪し、フォークで一口分を切り取って口に入れた。
「んんんっ、美味しいぃ!!」
「ふん、そうか」
「すっごい美味しいです。こんなの食べたことないです」
 さすがにゴディバだ。そんじょそこらのケーキとは味が全く違う。チョコレート色のスポンジもキメが細かく、上品な味わいのチョコクリームと相まって口の中でとろけるようになくなり、後味だけが美味しく残る。
「うわぁ、食べたらなくなっちゃう」
「食べられるためにケーキはあるんだ。食ってやらなきゃ、ケーキとしての存在価値はねぇだろ」
「それはそうですけど……」
 そう言いながらも、響子のフォークは二口目を切り取っている。幸せそうな顔で口に運び、食べて飲み込む姿を、愁介は斜め後ろから満足そうに眺めている。
 結局最後の一口を残して、ケーキは全て響子の腹の中へと消えた。
「最後の一口……」
「残しておいても悪くなるだけだ、食え。欲しけりゃ帰国する時にまた持ってきてやる」
「それはいいです。世界で一個のケーキを味わえましたから」
「しかも俺の膝の上でな」
 自信のみなぎる声で言われても、あまり嬉しくない状況である。
「はぁ、最後の一口、頂きます……」
 名残惜しそうに呟き、パクッと口に収めた響子。ゆっくりじっくり口の中でとろけさせていると、突然愁介に顔を固定されてキスされた。
「んっ…うっ…んんっ…むぅう…」
 未だケーキが口の中に残っているのに、彼の舌がクリームと混じって響子の口腔を舐めていく。半分以上残っていたケーキは、殆ど愁介の舌で奪い取られてしまった。
「んはぁ! 愁介さん酷い! まだたくさん残ってたのに」
「甘いっ」
 響子の抗議など聞いていないかのように、彼は渋い顔で怒った。響子はわなわなと震えている。
「甘いのは当たり前じゃないですか! 最後の一口返してください」
「仕方ねぇな」
「え? しゅう… んっ」
 自分で言っておきながら一体どんな返し方をするのか、疑問に思っていた響子の頭を掴み、彼は思いっ切りディープなキスをした。その舌の動きは、ケーキを奪われた時など可愛いものだった。
 歯の一本一本まで舌が這って行く感触に、響子は震え上がった。呻き声を出しながら、落ちるのを防ぐため必死に彼にしがみつく。だが自身の舌を絡め取られた時、敢え無く力が抜けてしまった。
 愁介はその体を抱き上げると、キスをしたままベッドに運ぶ。そして彼女を寝かせると覆いかぶさるように自分もベッドに乗り、深く濃厚なキスを堪能した。




 けたたましい目覚まし時計の音に、響子はハッと目が覚めた。
 夏用の毛布にくるまった体は、ちゃんとパジャマを着ている。起き上がってテーブルを見ると、ケーキの入っていた箱と使用済みの皿とフォークに、使われなかったもう一組の皿とフォークが乗っていた。
「本当に、愁介さんが来てたんだ」
 まるで夢でも見ていたような気分だ。
「でも、ケーキの最後の一口……ホント酷いよ。せっかくの味が……なんで急にあんなことしたんだろ」
 それは本人にしか分からないが、嬉しそうにケーキを食べる響子を見て、また頭の配線の一部がショートしたのかもしれない。
「ん? なに、あれ」
 テーブルの上に、フォークではない光るものを見付けた。いそいそとベッドを降り、それを見に行く。
「なに? カード?」
 それは銀色のクレジットカードのようなもので、表面に20から始まる4桁の番号が書かれていた。
「愁介さんの忘れ物かな」
 しかし、時刻は既に6時を回っている。彼はもう機上の人だ。一応携帯で訊いてみよう。必要なら保管しておけばよい。
 そんな考えで携帯を手に取った響子は、メール着信のランプが付いているのに気付いた。開けてみると、それは愁介からだった。滅多に自分から送って来ない彼からのメール。
 誕生日おめでとう、から始まるその内容は、読み進めていく響子の顔が驚愕に変化していく。
「え、……このカード、マンションのキー? カードが鍵!? それにこの番号……20階って……えええ!?」
 どうやら愁介はケーキの他に、マンションもプレゼントする気だったらしい。部屋はすぐに用意出来ると言っていたのは、このことだったのか。
 ペタンと床に座り込んだ響子の目線は、再び携帯に注がれる。書かれている文章は、携帯メールを普段使用しない彼には珍しく長文だった。
「あ、続き。まだあるの?」
 読む進める響子の口がポカンと開く。
「え、引越し今日? もう手配が済んでるって。……え、会社も休み!? 社長も承知って……引越し屋さんが来るのは午後3時?」
 つまりそれまでに引越しの準備をしておけ、ということか。
「え……そんな急に引越しなんて。大家さんは?」
 まさかと思い、更に先を読み進むと響子はガックリと床に手を付いた。ここの部屋は今日付けで出ることになっている、ということだった。一体いつの間にそこまでやっていたのだろう?
「っていうか、愁介さん。たまたま時間が空いたって言って、本当は時間を無理矢理作ったんじゃないの?」
 ボソッと呟く響子の声に、携帯の着うたが鳴り響く。見るまでもなく、愁介からだった。
「愁介さん、このカード!」
『ああ、気付いたか。そういう訳だから、俺が帰るまでに荷物を片付けておけよ』
 スピーカーから聞こえてくる声は、実に楽しそうだ。
「え!? まさかもう一緒に住むんですか!?」
『そう言ったのはお前だろう。実際にその時になってみなきゃ分からねぇが、そのつもりでいろ』
「いろって……あ! 愁介さん今日のために、無理矢理スケジュールを変えたんじゃないですか!?」
『へぇ、よく考えたな、響子』
「やっぱりそうなんですね!?」
『いい読みだが、違う。元々この日にはスケジュールを入れなかったんだよ』
「そんなこと出来るんですか!?」
『お前、嬉しくねぇのか?』
 スピーカー越しの彼の声が不審気に変わる。響子は慌てて言葉を続けた。
「嬉しいとか嬉しくないとか、そういうんじゃないです! 愁介さん仕事が大変なんですから、こういうことで無理しないで下さい。あたし……愁介さんが倒れたりする方が嫌です」
『…………』
 愁介は黙ってしまった。絶句したらしい。しばらくして、彼の笑う声が聞こえてきた。意地悪な笑いではなく、どこか優しい響きのある笑い声だった。
『お前は、やっぱりいいな』
「な、何がですか?」
『お前を選んで良かったって言ってんだよ』
「え……」
『じゃあな、帰るのが楽しみだ』
「あ……」
 そこで通話は切れてしまった。掛け直してみるが電源を切ったらしい。機上では必要以上に携帯の電源は入れない、と言っていた。ということは、彼にとって響子は必要な存在だということだ。
「どうしよう、この話、受けちゃっていいの?」
 受けなければ住むところがなくなってしまう。しかし、このまま素直に受け取ってしまっていいものか迷う。
「……お風呂入って、気分を変えよう」
 彼が使ったユニットバスは、多少水滴が零れてはいたが綺麗なものだった。
「こんな狭いお風呂、愁介さん初めてだったよね。それなのに、こんなに綺麗に使ってくれたんだ」
 その気遣いが響子には嬉しかった。
「うん! もうあれこれ悩むのはやめよう。とりあえず引越しの準備しなきゃね!」
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