2009篁洸史Birthday特別編

※本編のネタバレありますので、Act.4を読了後にお奨めします。
 

「社長、お先に失礼致します」
 社長秘書の一人、島谷響子が社長室の扉を開け、深々と頭を下げて終業の挨拶に来た。普段の彼女は社長よりも先に帰ることを望まないのだが、今日はある人物から「定時になったらすぐに来い」という呼び出しを受けている。
 社長もその辺の事情をよく理解しているので、秀麗な顔に苦笑いを浮かべ「お疲れ様でした、島谷さん」と応えた。
 室長である清水美佐子も笑顔で彼女を送り出す。響子はこの日定時で帰るために、昼休みを返上して仕事を終わらせた。その姿勢を、美佐子は買っているのだ。それに、呼び出した人物が自分の上司よりも上の立場では、文句の言い様もない。
「あっ」
 同僚たちに挨拶をし、秘書室を出ようとした響子は、ある重大な忘れ物に気付き、社長室へと取って返した。再度の訪問に、部屋の主は瞠目した。
「島谷さん? どうしました?」
「すみません、社長。忘れていました」
「何をですか?」
「お誕生日おめでとうございます。プレゼントを用意しようかと思ったのですが」
「大丈夫ですよ、そうしてお祝いを言って下さるだけで、十分です。ありがとうございます」
 ニコッと人の良い笑顔を見せる社長を見て、響子は破顔した。「では、今度こそ本当に失礼致します」と頭を下げて出て行った。
 社長の誕生日というのは、社員……特に1階の受付と社長直属の秘書には非常に忙しい日なのだ。取引先やこれからパイプを持とうと画策している企業にとって、この日は自社をアピール出来る絶好の機会。そのため洸史の元には頼みもしないのに、その企業自慢の製品やら祝電やらがひっきりなしに贈られて来るのだ。その量たるや半端でなく、それらをさばくために通常の業務に差し障りが出るほどだった。
 一昨年までは。
 その半端ない贈り物の量に辟易した洸史は、昨年から各企業に「自分に何か贈る時には「花」にするように」という通達を出した。それを無視して別の何かを贈ってきたら、しばらくその企業と取引しない、という徹底ぶりだ。
 おかげで去年からは嫌と言うほどに届く、花、花、花。
 それを洸史は、各部署のオフィスに配るよう指示した。それも闇雲に配布するのではなく、贈ってきた企業に関連する部署に置く。一年のこの時期だけだが、社内は華やいだ雰囲気になるのだ。こうすれば勝手に贈られてくる花々で、余計な予算を計上することなく社内を飾ることが出来るというわけだ。
 愁介は貧乏性などと揶揄したが、洸史は「もらったものをどうしようと私の勝手です」と言って、平然としていた。
 今日、この社長室にも胡蝶蘭の鉢が一つだけ置かれた。洸史はあまり好きな花ではなかったが、嫌味のように愁介から贈られたとあっては、ここに飾るしかない。
 うんざりした気分でその胡蝶蘭を横目に彼は今日一日の決裁を終え、秘書たちが見送る中、自宅へと戻った。
 
 

**********

 
 
 会社に程近い場所にある彼の自宅は、20階建ての超高級マンションの最上階にある。4LDKの間取り、しかし一部屋がそれぞれ20畳くらいあるため、相当な広さだ。
 彼にとって贅沢極まりないこの部屋は、愁介が勝手に購入し、洸史に押し付けたものである。
 殆ど寝るために使っているような部屋だったが、今は恋人の森沢碧と同居しているので、よく管理されている。
 毎夜この部屋を訪れていた碧が、毎朝自宅マンションに帰って出勤するのがバカバカしいと言って、賃貸だったマンションを解約してここに住むようになったのだ。
 碧は5年前、臨床心理士の資格を持つカウンセラーとして、都内に自分のクリニックを開業した。2年前からは、週に2日だけ洸史の会社で出張診療をしている。
 そういう日の洸史は、彼女と同じ場所へ出勤するのにも関わらず、別々のルートで会社へ行く。公私混同をしないと言えば聞こえはいいが、本当の理由は碧も知らないでいる。
 誰もいない暗いリビング。カーテンが閉められているということは、彼女が一度戻ったと言うことだろう。いつも鍵を置いているサイドボードの上に、書き置きを見付けた。そこには、先にホテルへ行ってます、と綺麗な字で書かれていた。
 それを見た洸史の顔が、嬉しそうに綻ぶ。誕生日やクリスマスなど、年間の特別な行事にはホテルで過ごすことにしているのだ。
 洸史は自室に鞄を置くと着ていた服を脱ぎ、別のスーツに着替えた。
 それから10分後、準備を整えた洸史は静かに部屋を後にした。

 
 

 都心近くにある高級ホテルのロビーで、碧は恋人の到着を待っていた。
 髪をアップにし、鮮やかな真紅のカクテルドレスを着た碧は、周囲の視線を釘付けにしている。大胆にカットされた白い胸元を彩るルビーを配した金のネックレス、大振りのルビーのイヤリング、頬杖を付く手首に掛けられたブレスレット。ドレスの裾から伸びる細い足と、紅いエナメルが光るハイヒール。このどれもが、碧の美貌を完璧なまでに演出していた。
 周囲にいる男性たちの視線を一身に集め、女性たちもホウッと息をつくような表情で彼女を眺めている。
 そんな中、突然ロビーがざわめいた。洸史がやってきたのだ。碧に釘付けだった衆目が、今度は彼に注がれる。
 ロビーの空気が一変したのを感じ、碧は彼がやってきたのを知った。周囲の反応を見れば、それはすぐに分かる。碧は溜め息をつきつつ、そちらに目を向けた。
 パールグレイのブランドスーツ、それもダブルのスリーピースを身にまとった彼は、あらゆる方向から視線の集中砲火を浴びている。しかし当の本人はまるで気にした風もなく、愁介が評する「胡散臭い穏和なポーカーフェース」を浮かべて、自然に歩を進めている。
 愁介も注目を受けるに十分な威風堂々とした雰囲気を持っているが、洸史のはそれはまた違ったものを持っている。
 洸史は綺麗な男だ。見慣れている碧でさえ、ドキッとさせられることが多い。童顔では決してないのに、20代に見られることも少なくない。そんな外見と穏やかな微笑みが、人の心を捉えるのだろう。
 碧が立ち上がったのと同時に洸史も彼女を見付け、ニコッと笑って近付く彼女を迎えた。その瞬間、ロビーのざわめきが一層大きくなる。これだけの美男美女カップルは、そうお目に掛かれるものではない。
 洸史が彼女の腰に手を置いて抱き寄せると、方々で女性の感嘆の声が小さく上がる。ホテルの豪華さも手伝って、二人はまるで洋画の一場面から抜け出てきたようだ。
 人々の好奇と羨望の視線を受けながら、二人はエレベーターへと消えた。

 
 

 碧が予約していた部屋は、スタンダードなスウィートルームだった。洸史なら普通のダブルでも文句はないだろうが、碧はやはりスウィートがいい。広いので、そうそう隣りに音が響く心配がないからだ。
 スタンダードなスウィートといってもそこは高級ホテル。室内に配置された調度品は高価なものばかりで、ソファもテーブルも棚も天井からぶら下がるシャンデリアも、すべてが贅沢な趣向になっている。大きな花瓶には、色とりどりの薔薇の生花が飾られ、甘い香りが部屋中に漂っていた。
 部屋に入った途端、洸史は碧の肩を掴んで自分の方を向かせ、戸惑いの声を上げる彼女の口を自らの唇で塞いだ。
 一瞬驚愕に目を見開いた碧だったが、すぐに彼の首に腕を回して自分の舌で彼のそれを絡めた。しばらくの間、濃厚なキスを楽しんだ二人は、ゆっくりと唇を離す。
「急にどうしたの?」
「碧のドレス姿に、理性が飛んだんですよ」
 ふっと笑顔を向ける洸史に対して、碧は不審そうに肩眉を上げた。
「どうせなら、もう少しマシな嘘をついたら?」
「嘘ではありませんよ」
「今更言う必要もないでしょけど、私にあなたの笑顔は通用しないんですからね」
 碧は言い聞かせるように彼を見上げ、その胸に人差し指をツンツンと軽く突き立てる。
「信用ないですね」
「苦笑したってダメよ。あなたに理性が飛ぶことなんて、あるわけないでしょ!」
 クルッと恋人に背を向け、碧は腕を組んで肩をいからせながら、部屋の奥へと進んでいく。洸史は、そんな悪態をつかれても平然として、ゆっくりと彼女を追った。
「酷いですね。あなたもさっき、私に見惚れていたようなですが?」
「みっ……見惚れてなんかいません。相変わらずだと思っただけよ」
「キスした時も、応えて下さったようですが?」
「あっあれは!! そりゃあ私だって洸史とキスくらいしたいもの」
「そして感じて下さったんでしょう?」
「かっ……そんなことありません!!」
 それでも、碧の顔が赤くなっていることは、後ろからでもよく分かった。耳まで真っ赤なのだ。
 洸史はクスクス笑って、彼女の様子を見ている。
「明日の準備はしてきましたか?」
「して来ない訳がないでしょう? 明日はここから出勤する羽目になるのだから。もうここに置いてあるわ」
「それは良かった」
「やっ……ちょ、今はやめてよ……」
 腹部を抱えるように後ろから抱きつかれ、更に後れ毛の色っぽい首筋にキスされ、碧は慌てて彼の腕から逃れようとする。が、体をよじる度に彼の手の位置も巧みに変わり、中々抜け出せない。
 洸史はジタバタする彼女を、面白そうに眺めてた。
「そんなに逃げないで下さい。碧との食事も楽しみにしているんですよ。それとも、今からやってほしいんですか?」
「違うわよ、お願いだから離して」
「嫌です」
「洸史!!」
 普段の彼女からは想像しにくい、赤い顔で怒鳴る姿に、洸史の微笑みが一段と深くなる。
「本当に、今はやりませんよ。何しろ、あなたを自由に抱けるのは、このような記念行事の日だけなのですから」
「当たり前でしょ! 毎日あんな風に抱かれたら、次の日仕事にならないわ!」
 諦めずに腕の中から逃げようとする彼女を、洸史は自分の胸の中に抱きしめ、むき出しの肩に舌を這わせた。その瞬間、碧の口から上がったのは悲鳴。
「きゃあ!! 今はダメよっ、洸史!!」
「もっと私を信用してほしいですね。あなたとの食事を楽しみにしていたと、言ったでしょう。数少ない今日の機会を、私が自らふいにすると思いますか?」
 耳元で囁かれ、碧の体が震えた。それを見逃す彼ではない。実に楽しそうにクスクスと笑う。
「嬉しいですね、声だけで感じてくれますか」
「分かったわ、信じるから。だから離して」
 碧がそう言うと、洸史はあっさりと彼女を手放した。
 素早く動いて自分から距離を取る彼女を、洸史は熱のこもった視線で見つめる。碧はその視線に、見えない糸で絡められたように動けなくなる。
「洸……」
「食事はルームサービスにしましょう。いいですね?」
「でも予約が……」
 口ごもる彼女に洸史は近付き、腰を捉えて抱き込みキスをした。貪るような激しいキスは、碧に甘い官能を呼び起こした。
 
 

**********

 
 
 ルームサービスで夕食は食べられたものの、その後で洸史に半端なく激しく抱かれ、碧は全裸でぐったりとベッドに横たわっていた。時刻はまだ深夜1時。洸史の姿が見えないのは、お風呂の用意をしているからだ。まだまだ終わりでないことに、碧は溜め息がつきない。
 『記念行事の時だけ自由に抱ける』というのは、つまりこういうことで、毎日こんな抱き方をされては身体が持たないと碧が訴え、洸史も渋々承諾したのだった。わざわざホテルに来るのは、後の始末をしなくてもいいからである。
 全くをもって、日頃の洸史とは別人のような激しい抱き方をする。二重人格なんじゃないかと疑ったこともあったが、彼女の見立てたところ、どうやら単なる性癖らしい。
 悦ばされて悪い気はしないものの、限界というものがある。彼のは碧の限界を簡単に超えてしまうほどの激しさがあるのだ。
「碧、用意が出来ましたよ」
 いつもの穏和な微笑みを湛えて、バスローブを着た洸史が戻ってくる。この微笑みに油断していると、とんでもない目に遭うのだ。
「もう少し休ませて。今日は本当にきついのよ」
 軽い羽根布団を引っ張ってそこにもぐり込み、顔だけ出して碧は頼んだ。彼女の懇願が通じたのか、洸史は「仕方ないですね」と言ってベッドに乗ってきた。
 ギクリとする碧の表情にクスッと笑い、彼女の頭を優しく撫でる。
「そう怯えないで下さい。私だってあなたを壊したくないんですよ」
「だったら、今日はもう寝る方にシフトしてほしいわ」
「それは出来ません。私はまだ満足していませんから」
 この底なしめ!
 碧は心の中で悪態をついたが、口に出したのは別の話題だった。
「ねぇ、一度訊いてみたいと思っていたんだけど」
「なんですか?」
 横たわる恋人の頬を撫でながら、洸史は優しく応える。
「清水さんがあなたを好きだってこと、知ってるの?」
「ええ、勿論です。私が気付かないとでも?」
 ニッコリと微笑んだ恋人に薄ら寒さを覚え、碧は首をすくめた。
「それなら、なんで私との仲を公表しないのよ? 別に隠す必要ないでしょう」
「隠す必要ならありますよ」
「なんで?」
「分かりませんか?」
 分からないから訊いてるじゃないの! という言葉をグッと押し込み、碧は下手に出た。
「教えて」
「あなたでも、分からないことがあるんですね」
「私にだって分からないことはあるわ。人の心なんて、本当のところは誰にも分からないのよ。私に出来るのは、予想して答えを導き出してあげるだけ」
 彼の微笑みが、一段と深くなる。
「その方が都合がいいからですよ」
「は?」
 冗談だろうか? 碧は自分の耳を疑った。
「なんの都合がいいのよ?」
 至極当然な恋人の疑問に、洸史は更に極上の笑みを浮かべて応えた。
「男も女も関係なく、私に好意を寄せる人間は多いですからね。特に女性は特定の恋人がいないとなれば、みな私を振り向かせようと懸命に頑張るでしょう。必然的に仕事の能率が上がり、引いては会社のためになる、ということです」
「…………」
「碧? どうしました?」
 黙ってしまった恋人を、洸史は怪訝そうに見下ろす。
 碧は呆れた表情で彼を見上げた。
「そんな風に人の心を弄んで、楽しい?」
「質問の意図が分かりませんが? 相手が勝手に私に好意を寄せるのであって、そこに私の都合はありませんからね。使えるものは使いませんと、勿体ないですよ」
 崩れることのない彼の鉄壁のポーカーフェースが、この歪んだ性格によるものだと気付いたのは、いつの頃だったか。
 思えばこの男は子供の頃から、班長だの学級委員長だの生徒会長だのと、おおよそ何かのトップに推されることが多かった。本人が望むと望まぬとに関わらず、勝手に祭り上げられてしまうのだ。それが無能ならすぐに飽きられただろうが、哀しいことに洸史は優秀で、その上人心を捉えるのに長けていた。
 彼自身は、平凡な人間として平凡に暮らしたかったらしいが、道を歩けば逆ナンパに遭い、謂れのない難癖を付けられるその外見だけでも、周りが放っておかなかった。それで有能とくれば、引く手あまたなのは当然のことだ。
 これまで常に「望まない人生」を歩まされて来た洸史は、すっかり歪んだ性格になってしまった。
「でもあなたは違いますよ」
「な、なにが?」
「碧のことは心から愛していますよ」
 その言葉に、碧は体の芯が熱く疼いてしまった。物凄い殺し文句だ。こんな綺麗な男にこんな熱っぽく告白されたら、女は誰だってイチコロだろう。それは碧も例外ではなかった。
 碧はゆっくりと体を起こし、彼の頬を両手で挟んでその唇にキスをした。初めは優しくついばむ様に……しかしすぐに舌と舌が絡み合う。ひとしきり濃厚なキスを堪能し、碧は唇を離した。
「本当にそう思ってくれているの?」
「勿論ですよ。でなければ、あなたをこんな風には抱きません」
 言い終えた途端再びキスされ、碧は彼の唇を貪りながら背中からベッドに倒れ込んだ。柔らかなスプリングが、二人の体を優しく受け止める。
「碧、お風呂はいいんですか?」
「いいの。今は、私を愛して」
 その言葉に洸史のスイッチも入り、明け方まで激しい睦み合いは続いた。
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