Act.5 EXTRA 深愛

 ベッドから這い出た響子が脱ぎ捨てられた服を抱えてバスルームに飛び込むのを、愁介はベッドの上から見送った。
 サイドボードに置いてある煙草を取り、火を点けて紫煙を吸い込む。以前はセックスの後ですぐに吸いたい衝動を抑えられなかったが、今日はそれはなかった。満足したと、いうことなのだろうか?
 肩を震わせ自嘲した彼は、昨日からの一連の出来事を思い起こし、苦笑いを浮かべる。
 過去に恋人と呼べる女は二人いた。だが、響子はそのどちらとも似ていない。むしろ、彼女のようなタイプは避けていた方だ。それがこんなことになろうとは。
 昨日、彼女が泣きながら告白されてキスもされたと聞かされた時、頭が爆発するかと思った。彼女の唇を奪い、泣かせたその男に本気で殺意を覚えたものだ。響子に告白しておこうと決めたのはその時だ。だからこそ強引にデートの約束をさせたのに、まさかこんな時に熱が出るとは……。しかし結果オーライなこの状況。クリスの機転に感謝するべきなのか?
 指に挟んでいた煙草を口に咥え、電話機に手を伸ばした。内線のボタンを押し、レオンら彼の秘書たちのオフィスに繋げる。出たのはレオンだった。
 ヒューズを謹慎にして以来、彼は本国イギリスに引っ込んでしまった。反省したのか憤慨したのかは不明だが、今はセシルの付き人になっているらしい。その方がお互いにとって、精神的な平和な関係でいられる。
 正式にヒューズが抜けた今、愁介がオフの日はレオンに全ての業務が押し寄せる。それをさばくのに忙しいはずなのに、そういう状況でも最初に内線に出るのは、いつもレオンだ。背後では英語の会話がひっきりなしに聞こえる。
「マギーを呼んでくれ」
『承知しました』
 通話を切り、煙草を吸い終えたところでマギーが到着した。
「愁介様、なにか」
 用か、と言い掛けて軽く絶句している。
「響子を見てやってくれ。初めてでテンパってる」
 バスルームのある扉に向けて顎をしゃくり、自身はベッドを降りてシャワールームへと向かう。一糸まとわぬ全裸だが、見た方も見られた方も何食わぬ顔だ。
[響子様を抱かれたんですね]
 唐突に英語で話し掛けられ、愁介は眼力を込めてマギーを見た。その視線の鋭さに、慣れているはずのマギーは僅かにたじろいだ。
[何が言いたい?]
[そんなに睨まないで下さい。響子様を抱かれたということは、私たちはお役御免ですよね?]
 その問いに、愁介も眼光を和らげる。
[ああ、そうだ。約一年か、ご苦労だったな]
[いいえ、お役を仰せつかっていた私たちにとっても、良いことだと思います]
 笑顔で言うマギーに皮肉やわざとらしさはない。心から彼女がそう思っている証拠だ。
[響子を頼む]
[承知しました]
 上司に向かって頭を下げ、マギーはレストルームに入って行く。それを見送って、愁介はシャワールームに入った。ここには風呂のついた広いバスルームの他に、簡単にシャワーだけを浴びられる部屋もあるのだ。

 
 

 レストルームへと入ったマギーは、涙ぐんでいる響子にやや驚いたが、その体に付けられた愛の跡を見て顔を綻ばせた。
「ああ、何でもない。ただのキスマークだぜ」
「……は!? キキキキスマーク!?」
「そ、病気でも何でもない。愁介様からの愛の証だろ」
 途端に響子の顔が真っ赤になり、マギーは彼女が可愛く思えた。
 自分に付けられることはなかったその跡。彼が響子をどれだけ想っているか、その証でもある。彼にそういう相手が出来たことに、マギーは安堵した。
 初めて男性を受け入れた体は、本人が考えるよりずっとしんどい。マギーは響子をバスルームへと促す。
 勝手を知らない響子にバスタオルとバスローブを出し、彼女の服と下着を持って寝室に出た。響子のパンツスーツをクロゼットにしまい、下着は手頃な袋に入れる。
 そして、乱れたベッドを前にやや途方に暮れた彼女はポンッと手を打ち、内線でクリスを呼び出した。ベッドメイクなどしたことないお嬢様なのだ。ここでは彼女たちスタッフの部屋も、日常の雑事はエインズワース専属のハウスキーパーがやってくれる。だが愁介に関しては、全ての雑事をクリスがやっているのだ。
 彼に出来て自分に出来ないというのも、何だか癪に思える。
 出来るところまではやってみようと布団をめくると、シーツに付いた小さな赤い点を見付けた。こんなものをクリスの目に入れたら、響子は羞恥で悶絶してしまうだろう。
 マギーは布団をバッサと放り投げ、シーツをひっぺがす。そこでクリスがやって来た。
「マギー、一体なんです?」
「ベッドメイクを頼む」
 シーツが剥がされた状態のベッドを見て、クリスが妙な顔をする。
「……愁介様と響子様がこんな状態にしたんですか?」
「違う! これはあたしがやったんだ。出来るとこまでやってやろうと思ったんだよ!」
 仁王立ちで憤然とのたまう彼女を、クリスは怪訝な顔で見下ろしていたが、何かに気付いたようにフッと顔を綻ばせた。
「分かりました。私がやればいいんですね。愁介様と響子様は」
「響子様は今風呂に入ってる。愁介様はシャワーだ」
「ああ、なるほど。分かりました」
 今のやり取りで諸々察知したようだ。クリスは実に手際良く真新しいシーツを張り、皺一つなくベッドメイクを完成させる。
 父親が総帥の時は笑ってしまうくらいメイドたちがいて、こんなことは執事の仕事ではなかった。だが、彼は嫌な顔一つせずにこのような雑事もこなす。
[クリス、執事という名目なのに、こんな仕事もして嫌にならないの?]
 つい英語で問い掛けてしまい、振り返った彼は眉間に皺を寄せて怪訝な顔をした。
「マギー、それは皮肉ですか? 私に対して英語で訊くなんて」
 嫌味ったらしく言われてしまい、マギーは気分を害したようだ。
「悪かったな! お前が英語をしゃべれないのがいけねぇんだろ。アメリカ人の癖に! 執事って名目なのに、そんな仕事もして嫌にならねぇのかって訊いたんだ!」
 日本語はこんな言葉しか知らない彼女だから致し方ないが、逆ギレされてクリスの眉間に皺が寄る。
「そのことを忘れるほどマギーが耄碌したとは思いませんでした。脳トレでもやっては如何です?」
「のーとれ? 何だよそれ」
「脳力トレーニングのゲームです。脳年齢を若く出来るそうですよ」
 クスクス笑って言う彼の態度で馬鹿にされたと分かり、マギーの美しい顔に朱が混じる。
「嫌味な野郎だな」
「あなたに言われたくないですね。別に私はこういう仕事も嫌ではないですよ。実際出来る仕事は限られていますし」
 唐突に会話が元に戻ったので、それに付いて行けなかったマギーはポカンと口を開ける。
「いい顔ですね。写メってセシル様に届けましょうか?」
 そう言って胸ポケットから携帯を取り出したので、マギーは正気付いた。
「やめろ! ったく、親父に見せたらいい話のネタにされる! あれで人をおちょくるの大好きなんだぞ!」
「セシル様が? 意外だ……」
「全然意外じゃねぇだろ、クリス」
 唐突に会話に加わった自分たちの主人に、一瞬鼻白むマギーとクリス。バスローブ姿でシャワールームから出てきた愁介は、タオルでガシガシ頭を拭いていた。
「あの親父、ああ見えてかなり人をいじり倒すのが好きだぞ」
「まさか! 愁介様のことをあんなに気に掛けていらっしゃるのに?」
 昨年愁介の海外視察に同行した折に一度会っただけだが、そんなにお茶目な人にはクリスには見えなかった。しかし、マギーは神妙な顔でコクコクと相槌を打っている。
「お前も何回か会えば分かるさ」
 マギーに手をヒラヒラさせて笑いながら言われ、クリスは釈然としない顔だ。
「そういうことだな……おっ?」
 髪を拭き終えた愁介がタオルを手に歩き出した途端、不意に足元がフラリとよろめいた。
[愁介様!]
 近くにいたマギーがとっさに両腕を伸ばし、彼の背中を受け止める。しかし女の細腕で70キロの体重を支えることなど出来ず、そのまま床にベチャッと沈む。
[お、重いぃ……]
「マギー!」
 慌ててクリスが愁介を引っ張り上げると、その体は普段よりも幾分熱かった。
「愁介様、熱が」
「あ? なんだ、急に体がふらついたぞ」
[また熱が上ってしまったんですよ! もう、シャワーなんて浴びるから]
「病み上がりでセックスなんてするからですよ! どうせ素っ裸でいたんでしょう! もっと自分の体に頓着して下さい!」
「ギャーギャー煩い。頭が痛ぇ」
[「自業自得です!!」]
 日本語と英語で異口同音に怒鳴られ、愁介はしかめっ面でそれを聞いている。上司であるはずの自分が、何故怒鳴られなければならないのか……彼の表情はそう語っているが、口には出さなかった。自業自得と、自分でもそう思ったのかもしれない。
 それから愁介はベッドに無理矢理押し込まれ、レオンまで呼んでクリスと二人掛かりでパジャマに着替えさせられ、マギーに鎮痛解熱剤を飲まされた。
「お前ら大げさだっ」
 ベッドに押し込まれた愁介は上体を起こして抗議したが、その顔は熱のためかやや赤く火照っていて、威厳も説得力もない。
[明日から通常の執務なんですよ! 丸一日休みをもらいながら次の日に熱でダウンした、なんてことにでもなったら、各国支部長が笑いに来ますよ! それでいいんですか!?]
 ヒューズと違って滅多に怒ることがないレオンが声を荒げた。その剣幕にクリスとマギーはタジタジとしている。透き通るような肌が怒鳴ったことで紅潮し、切れ長のアイスブルーの瞳が恐ろしい程に吊り上がる。
 今後レオンを怒らせないようにしよう! クリスとマギーは心に誓った。
 愁介も普段は穏和なレオンの憤慨に唖然としていたが、飲まされた解熱剤が効いて来たのか、不覚にも寝入ってしまった。
 
 

**********

 
 
 寝苦しくなって目を覚ますと、汗でパジャマがビッショリ濡れていた。どうやら思っていたよりも熱が上がったらしい。だが目覚めた今は、体も頭もスッキリしていた。
 起き上がろうとすると、左側の布団が引っ張られる。何かが押さえ付けているらしい。怪訝に思って重しのある方に視線を向け、愁介は信じられないものを見た。
 そこにいたのは、自分の腕を枕にして眠る響子の姿だった。顔はこちらに向け、窮屈そうな姿勢でスヤスヤと眠っている。
「響子。帰らなかったのか……」
 呟いた声にも起きることなく、彼女は気持ち良さそうに寝ている。長めの髪が顔に掛かり、微妙な影を作っていた。風呂から上がったそのままらしく、髪は乾いているが顔はすっぴんだ。化粧などしなくても十分なその綺麗さに、愁介の目は釘付けになった。
 とっくに帰ったと思っていた。自分が何も言わずとも、クリスが送って行くはずだ。それがこの場にいるということは、響子の意思で残ったのだろう。
 熱を出した自分を置いて帰らなかった。たったそれだけのことだが、愁介の胸中には曰く言い難い想いが渦巻いている。こんな気持ちを、生まれて初めて感じた。
 自分に向けられている無防備な寝顔。愁介は胸がきゅんとなった。そんな自分に驚く。
「おいおい、マジか。冗談っ」
 まさか彼女にここまで惚れ込んでいるというのか?
 それが愚問であることは、自分が一番よく分かっていることだ。好きだと告白した時、あれほど自分の心情を言葉にしたことなど、ついぞなかった。過去に付き合った女性二人とは、響子の存在は全く違っている。
 「愛しい人」。まさに彼女は愁介にとってそういう人だった。理由なんて分からない。ただ真にそう思う。
 布団の中から左腕を出し、眠る響子の頭を撫でる。そこに感じる確かな存在が、これまでになく愁介の心に深い愛情と平穏をもたらしていた。
感想・誤字報告を兼ねた拍手ボタン ←感想や誤字報告などありましたら、こちらをご利用下さい。