Act4.EXTRA 社長の感慨

 篁洸史が、各部署から上がって来た書類に目を通していると、控え目なノックが聞こえて来た。
 秘書室に続くドア。こんな叩き方をするのは、今のところ一人だけである。
 洸史は書類から目を離さずに苦笑し、「どうぞ」と声を掛けた。怖々と入って来たのは、3日前から研修に入った島谷響子。
 どういう経緯でそうなったのか、愁介が自ら履歴書を提出してきた新卒秘書である。しかも、彼の本命らしい。
 顔は確かに正当派な美人で愁介の好みではあるが、性格は……面倒見の良い洸史でさえも、大丈夫か? と懸念するほど消極的だ。
 最初の面接では、並居る頑固で意地悪な旧経営陣のあからさまな口撃に、懸命に耐えており、そんな卑屈な態度は見られなかった。泣いてしまった彼女だったが、逃げることなくその場に止まり、洸史が突然始めたドイツ語での質問にも、澱み無く答えていた。
 「根性はある」と言っていた愁介の言葉は正しく、精神的なダメージを受けた状態であれほど見事にドイツ語を操れるならば、この世界でもやっていけるだろうと見込んだのだが。
 次に二人で会った時には、驚くほど卑屈になっており、これがあの時と同一人物かと疑った程だ。
 碧によれば、それは母親の教えに起因するらしい。
 「目立たず控え目でいることで、美人であることをひけらかすことなく、トラブルに巻き込まれないように……という親心」
 心療の専門家である彼女はそう言っていたが、実際に二人だけで会ってみると、寛大な洸史でも呆れる程の卑屈ぶりだった。
 そんな彼女を愁介がどうやって見初めたのか。彼女の性格は、愁介の好みでいえば真逆である。
 碧の言う母親の教えだけではないだろう。そう思って話をしていくと、彼女自身が自分の持っている能力を知らない、あるいは信じていないらしいことが分かった。これほど頑固に自分の能力を疑う人間も珍しい。
 生来の性格なのだろうが、開花すれば素晴らしい才媛となるだろう。なるほど、愁介が自分に預けて来た理由が分かった。
 頑固に自分の力を認めない彼女にとっては、ここは都合のいい教育現場であり、鍛練場だ。どんなに本人が否定しても、彼女の持つドイツ語力は社員の中では抜きんでている。
 しかも、最初の面接で見せた根性はなかなかのものだった。
 この中で揉まれていけば、嫌でも自分の実力を認めない訳にはいかないだろう。彼女、島谷響子が自信に満ち溢れたらどんな変身を遂げるのか、洸史自身興味がある。
 こんな新人なら引く手数多だったろうが、幸か不幸か、彼女が就職に選んできた会社は、どこも彼女の能力を持て余すような中小企業ばかりだった。ネガティブな彼女では、その選択が精一杯だったのだろう。その上、あの卑屈な性格では、この不況のご時世わざわざ拾って育てようという余裕も、中小企業にはない。
 かくして洸史が育てることにしたのだが、初出社当日、彼女が訳したドイツからのメールを見て、正直驚いた。
 彼女は大学では経済学を専攻していなかったはずだが、難しいドイツ語の経済用語を上手く日本語に訳していた。おそらくは、この研修のために勉強していたのだろう。
 自分は大したことはないと卑屈な割に、努力家である。
 そんな彼女は、今、やや緊張の面持ちで持っていた書類の束を、洸史のデスクに置いた。秘書室長の清水美佐子から、言い渡されたのだろう。清水も彼女の教育に一役買っている。こうして何かと用事を言いつけては、自分の元に来させるのもその一つだ。
 彼女の卑屈さを治すには、多少の荒療治は仕方がない。彼女にとっては試練の3ヵ月になるだろうが、今はまだ「大学」そして「親友」と逃げ込める場所がある。この「場」があるうちに成長出来なければ、どのみちここでやっていくことは出来ない。
 やり方を間違えれば、有能な秘書を一人潰すことになるのだから、洸史にとってもこの3ヵ月は正念場だ。
 しかも彼の業務はそれだけではない。愚かな旧経営陣が墓穴を掘ったお陰で一掃出来たとはいえ、若輩の彼を軽んじる年嵩の重役もまだ存在する。
 自ら望んだことではなかったが、それでも愁介から預かったこの会社を破綻させることなくまとめていかねばならない。その責任は想像以上に重かった。
 全く、愁介からこの話を聞かされた時には、ある程度覚悟したとはいえ、こんなことを押し付けた彼をブチ殺してやりたい衝動もあったが、結局その愁介もセシルに目を付けられて、否応なしにエインズワースの総帥にさせられてしまった。
 能ある鷹がどんなに巧妙に爪を隠しても、分かる人間には誤魔化せないのだ。
 そこまで考えて、洸史は皮肉な思いに駆られた。
 愁介はセシルに、自分は愁介に、それぞれ複雑で恨みめいた感情を持っているが、将来、響子もまた自分にそんな思いを抱くことがあるのかもしれない。
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