Act.4 EXTRA 難儀な内にも一興あり、しかして……1

 愁介が響子に電話をしている最中、エドウィン・ヒューズは新たに打診されたスケジュールを以て、彼の執務室に飛び込んだ。
 ここはスペインでも五ツ星超一流高級ホテルのロイヤル・スウィート・ルーム。その一室で、本来書斎として使われるこの部屋を、愁介はスペインにいる間の執務室としていた。このえらく豪華でアンティークな部屋は愁介の趣味ではないのだが、「エグゼクティブ・スウィートの方がまだいい」と言った途端ヒューズに猛反対され、仕方なくここに連泊している。
 そのヒューズは、自分の主人がプライベート用の携帯電話で話しているのを目に留め、まなじりを吊り上げて怒鳴った。
「愁介様! 仕事中にプライベートな電話は」
「うるせぇ、今大事な話してんだ。邪魔するな」
 珍しく深刻に言う愁介だったが、ヒューズもこの時は珍しく頭に血が上っていたのか、それに気付くことが出来なかった。
「それよりも、国王から会食の打診が……って……え?」
 言葉の途中から、愁介が物凄い睨みを利かせて来たため、ヒューズは戸惑った様に言葉を切った。
 愁介は普段から気に入らないことがあると、よくこうして睨んでくる。自分はへっちゃらだが、部下の中にはこの視線に怖れをなしている者もいる。そう、普段であれば、こんな睨みは大したことはないのだが……、ヒューズは冷や汗が背中を流れ落ちるのを感じた。
「エドウィン・ヒューズ」
 フルネームで呼ばれることもあまりない。それはつまり、彼が本気で怒っているということだ。
「は……い」
 気に入らなくても、自分の上司。こういう時に逆らうことは愚の骨頂。
「もしや…… 電話の相手はミス響子で?」
 恐る恐る訊いてみると、「はあ〜」という溜め息。
「洸史から連絡があった。響子が落ち込んでいるだろうから、電話ででも話してやってくれってな。こっちの状況を考えずに、あいつがそんなことを頼んでくるのは滅多にないから、応えてやっていた」
「はい」
「で、お前が飛び込んできた。余計な一言を言ってな」
「……申し訳ございません」
 いつもなら喧々囂々の展開だが、ヒューズはやけに素直に非を認めてきた。
 愁介は気味悪いほど従順なヒューズの態度に、溜め息で返す。
「電話切れてる」
「ぅ……重ね重ねもうしわ」
「日本語で言ってくるってのも珍しいな」
 急に指摘が変わり、ヒューズは面食らった。そして唸りたいのを堪えて、口を開く。
「あなたが、せめて仕事以外では日本語がいいと、おっしゃったからですよ」
「そりゃどうも。お前がこんなドジやらかすなんて、どうしたよ」
「…… 私も人間ですからね」
 憮然と話すヒューズを見て、愁介は吹き出した。
「なんだよ、急に丸くなったじゃねぇか」
「国王があなたとの会談を、あんなにも安易にキャンセルしたのは、私の態度のせいかもしれませんからね」
「…………」
 今度は愁介が目を見張る。
「公的な場でそのつもりはありませんでしたが、あなたを侮るような態度を見せたのかもしれません」
「ふん、ま、国王にとっちゃ俺個人はただの日本の若造だろ」
「今のあなたは、エインズワースの総帥ですよ」
 相変わらず憮然とした表情を崩さない。愁介はからかう意味も含めて、揶揄した。
「お前だって、最初は俺を認めていなかったじゃねぇか。尊敬してやまないセシルが、指名したってのによ」
「あれは……セシル様はまだお若いのに、あなたの様な若造に地位をお譲りになられたからで」
「もう60に手が届くじゃねぇか」
「財閥の総帥としては、まだお若いですよ」
「それを言ったら俺はどうなる?」
 皮肉な笑みを浮かべて言った愁介だったが、ヒューズは神妙な表情で僅かに首肯した。
「ですから、私はあなたを認めず、そればかりかあなたを精神的にも肉体的にも追い詰めた。それは反省しています」
「それでも、まだ俺を認めてねぇだろ」
 痛い指摘に、ヒューズはますます憮然としていく。
「ですから申し上げました。私の態度が国王を増長させたと」
 言ってからヒューズは言葉を切り、一つ息を吐いて付け足した。
「あなたはよくやっています。それは認めているんですよ」
「……槍を降らせる様なことを言うなよ」
「…… 日本のことわざは面妖ですな。嫌いではありませんが。感情面では、私もまだ達観出来ていないんですよ。今後努力はしますが」
「ふん……まぁいいさ。お前が従順てのも、なんか気色悪ぃ」
「気色悪くても、受け入れて頂かねばなりません」
「分ってる。言ってみただけだ。で、国王はなんだって?」
 急に話題が切り替わったが、愁介と話していると、こういうことはよくある。ヒューズもすぐに仕事モードに切り替えた。
「今日の会談をドタキャンした詫びだそうで、昼食会を催したい、ということです」
「ちっ、面倒臭ぇな」
「面倒臭くても、やっていただかなくてはなりません」
「分ってるよ。ドタキャンの理由は何だった?」
 そう訊いて来た愁介の顔は、意地悪く歪められている。ヒューズも溜め息を殺して、憮然と眉をひそめた。
「国王の突然の腹痛でしたな」
「腹痛を起こした奴が昼食会ね」
「愁介様、ご理解されているとは思いますが」
「分ってる。目を瞑れってんだろ。俺もそこまで狭量じゃねぇ」
 そうは言ったが、愁介は辟易した表情で、顔に掛かる髪をかきあげた。
 彼の立場であれば会食を蹴ることも出来るが、今後のことを考えれば受けておくに越したことはない。政財界とは一線を画す王室に借りを作るのは、彼にとっても組織にとってもやぶさかではない。
「では、受けるということで返答してよろしいですね?」
「構わねぇよ。ああ、それからな」
「はい?」
 踵を返そうとしたヒューズは、意味深なそれでいて意地悪そうな笑みを浮かべた愁介を、怪訝な顔で見返る。
「お前、当分謹慎な」
「は!?」
 青天の霹靂とも言うべき愁介の言葉に、この世界では彼よりも遥かに百戦錬磨のエドウィン・ヒューズが固まった。
「響子が電話を切ったのは、お前が国王なんか口に出したからだろ。だから2〜3日謹慎してろ」
「な、何を仰せで……」
「とりあえず、俺の溜飲を下げる目的だ」
 勝ち誇った笑みは、やはり相当怒っていたのだろうか? ヒューズは口元を引きつらせて、掠れた声を絞り出した。
「わ、私がいなくてあなたの仕事がはかどりますか!?」
「んなこたやってみなきゃ分かんねぇだろ。大体お前は、普段からグチャグチャ煩いんだよ。だからほんの2〜3日、それから俺を開放させろ」
「…………しゅう」
「もう一つ」
「…………」
「俺の代わりはセシルしか出来ねぇが、お前の代わりはいくらでもいる」
 その言葉は、鋭いナイフで抉られるかのような錯覚を、ヒューズにもたらした。発した声は掠れ、見苦しい程に震える。
「わ、私の代わりが、他の誰かに務まるとでも、おっしゃりたいのですか?」
「その通りだ」
 なんの躊躇もなく断言する愁介に、ヒューズは傷付いた表情を隠さなかった。愁介が瞠目する。
「ふん、お前でもそんな顔するのか。意外だな」
「私も人間ですからね」
「だったら、もう少し他人に対する思いやりってのを、持つべきだな」
「あなたには十分に譲歩して」
「俺のことじゃねぇよ」
 言葉の途中でピシャリと言われ、ヒューズは口を噤んだ。
「お前、本当に気付いてねぇのか?」
 溜め息と共に吐き出された言葉には、呆れた様な色が混じっている。
 その姿が、自分が尊敬してやまないセシル・フォスターと重なって見え、ヒューズは気圧された様に一歩退いた。まるで言葉遣いは違うのに、しかも目の前にいるのは20歳も年下の若造だというのに。
 先刻感じた冷や汗とは違った何かが、ヒューズの背中を這い上る。呆然とした表情で後退さるヒューズを、愁介の言葉が追う。
「国王が俺との会談をキャンセルしたがったのは、お前にも原因があるだろう? 俺を蔑んだことじゃねぇぞ。お前自身のことだ」
「…………」
「そんなに驚くことか? 本当に気付いてねぇのかよ。マジか?」
「…………」
 声もなく首を振るヒューズ。愁介は疲れた表情で右手を額に当て、それから大きく息を吐いた。
「謹慎を一週間に伸ばす。自分の言動をよく考えてみろよ」
 そう言って愁介は、執務デスクと化したテーブルの電話機に手を伸ばす。内線ボタンを押し、隣りの部屋で待機しているはずの幼馴染みを呼び出した。
「クリス、マギーとレオンを呼んで来い」
 愁介の言った名前の二人は、普段からヒューズとは反目し合っている者の代表格だ。
 ヒューズの眉間に、不愉快そうな皺が刻まれる。それを見て、愁介は肩を落として息を吐いた。
 口を開き掛けたが、ノックの音が重なり、口を閉ざす。
「失礼します。愁介様、マーガレット・フォスターとレオン・インベルグを連れてきました」
 ドアの外でクリスが言う。愁介の意味深長な視線が自分に向けられたが、ヒューズにはその意味が分からなかった。
「入れ」
 「失礼します」という挨拶と共に、クリスが入り、後ろにスーツを着た二人の男女を従えている。
 クリスは室内の険悪なムードを察したか、薄蒼い瞳をやや見開いて、ヒューズと愁介を見やった。
「エドウィン・ヒューズ、もういいぞ。行け」
 冷ややかな口調に素っ気無くドアを顎で示す愁介を、クリスは更に意外な思いで眺めた。ヒューズが苦渋の表情で一礼して、部屋を出て行く。
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