Act3.EXTRA クリスの憤慨

 車内は気まずい雰囲気がたち込めていた。
 愁介を迎えに行ったついでに響子も自宅に送り届け、彼のオフィスに向かう道中である。
 さっきまでは響子が隣りにいても、どこか上の空だった愁介が、今は逆に浮かれている様に見える。ハンドルを握っているクリスは、溜め息が尽きなかった。
「はぁ……」
 あからさまに肩を落とすクリスを後ろから眺め、愁介は白けた様だ。
「お前な、さっきから何だよ。不景気な溜め息つきやがって。幸せが逃げるぞ」
「それは愁介様の幸せですか?」
「なに言ってやがる。お前の幸せに決まってんだろ」
「ご心配には及びません。私は愁介様と違って、幸せはまだ来てませんから」
 不貞腐れた言い方をされ、愁介の眉間に皺が寄る。
「ああ? なに絡んでんだよ」
「別に絡んではいませんよ」
「じゃあ何でそんな機嫌悪ぃんだ?」
 運転席を蹴り付けそうな剣呑さで訊くと、返って来たのはまたしても溜め息。
「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ! 鬱陶しい!」
 怒鳴った途端、愁介は前のめりに後部座席からずり落ちた。クリスがいきなりブレーキを踏み、路肩に車を停めたのだ。
「お ま え は……コントやってんじゃね」
「なら言わせて頂きますが!」
 ぐりんっ! と振り向いたクリスの顔は、それこそ鬼も裸足で逃げ出しそうな形相で、愁介は思わず口を閉ざした。
「実家の帰りに響子様をデートに誘うとは、どういう了見です!? もしお父上の手の者が貴方を尾行していたら、響子様に迷惑が掛かると、貴方ならすぐに分かるでしょう! その上き、キ、キスまでして! なに考えてるんですか!!」
 まるで掴み掛からんばかりの剣幕に、愁介はいよいよ鼻白んだ。
「そんなことで怒ってたのかよ」
「そんなこととは何ですか! 私は響子様のことを心配して」
「お前な……この俺が! 尾行されるなんてドジ踏むと思ってんのか!? ちゃんと確認してる!」
「万が一ということもあるでしょう。事もあろうに響子様とデートしているとは……。このことをセシル様に知れたら、どうなるか」
 考えただけでもゾッとする。
 クリスは青褪めた表情を見せたが、愁介は意に介さず手を振って笑っている。
「セシルは心配いらねぇよ。あいつ、信じらんねぇくらいリベラルだからな」
「ですが、響子様は普通の女性ですよ?」
「別に関係ねぇだろ。俺が誰とくっ付こうと、セシルは何も言わないぜ。ヒューズは煩ぇだろうがな」
 腕を組みつつ、座席に背中を付けた愁介が溜め息交じりに言うと、クリスは急に「あっ」という表情になり、両手で顔を覆った。その変わり具合に、愁介は真顔で驚いた。
「おい、なんだ? どうした?」
「いえ……さっきの自分を思い出しまして、自己嫌悪というか……」」
 口を尖らせて言うクリスが、みるみる赤面していく。愁介は唖然とした。
「よくよく考えれば、貴方がそんな短絡的な行動を取るはずがないですから……」
「くっくっくっ」
「俺は心配したんだ! ……ですよ! なのに、当の本人は呑気にデートなんかして」
「あっはっはっはっはっ、別にデートのつもりじゃなかったけどな。さっき響子にも言ったろ、一人で師匠と飲む気になれなかったんだよ」
 そんな主人の声を背に、クリスは咳払いをして車を発進させた。
「今日は、いつもと何か違ったのか……ち、違ったんですか?」
 つい昔の調子でタメ口をきいてしまい、クリスは慌てて言い直すが、愁介は鬱陶しそうに手を振った。
「二人っきりでいる時くらい、バカ丁寧な言葉遣いはやめろよ。あのジジィ、いつもの如くだがな。勝手に見合いをセッティングしやがった。この前、佐原の爺が来てクドクド言ってたから、何かやるだろうとは思ってたがな」
 ケッと吐き捨てる愁介に、クリスはようやく合点がいった。
「お見合いをセッティングかぁ。まあ、あの人のやりそうなことだが……日にちは? 明日から各国支部を巡回するのに、そんな時間あるか? あの人は、愁介のスケジュールを知ることが出来ないはずだ」
「だから断ったよ! ったりめぇだろ!」
「それで諦めるようじゃ、あの人も年だけど」
「はっ! もう80も過ぎたジジイだぞ。いい年してるくせに、往生際が悪いぜ!」
 腕を組み、呆れたように言い放つ。クリスはここにはいない老人の姿を思い浮かべ、不憫そうな表情をした。
「そう言うなって。あの人はあの人で、色んな目論みが外れてしまったんだから、可哀相な人だよ」
「そうやってお前たちが同情するから、親父が付け上がるんだ! あいつは単に、息子が自分より格上になるのが、気に入らないだけだ。だから自分を持ち上げてくれる無能な神尾なんかを、いつまでも重宝するんだよ!」
「愁介の気持ちは分からなくもないが、神尾も」
「あいつは俺のいる前で、響子を侮辱したんだぞ! 自分の身の程もわきまえずにな。そんな奴のことを庇うこたぁねぇ」
 畳み掛ける様な口調に、クリスの口から溜め息がもれた。
「そんなに彼女のことが好きなのか?」
「なんでそんな話になる!」
 愁介にとっては唐突で飛躍した結論だった。
「違うのか? 夜とはいえ、往来でキスしたじゃないか」
「ああ、そりゃお前、今まで俺の周りに『お仕事頑張って下さい』だの『気を付けて行って来て下さい』なんて、殊勝なことを言う女がいたか?」
「……まぁ、いないな」
「あんな可愛いことを真顔で言われたら、キスの一つや二つしたくなるじゃねぇか」
 彼の言うことも最もなので、クリスは反論も出来ない。
 しかし、そういうドライな関係の出来る女性を選んで付き合って来たのは、愁介自身なのだが。
 もしかして愁介は自覚していないのだろうか?
 ふとクリスはそんな思いに至ったが、口に出したのは別のことであった。
「だからって、いつ出来るか知れないデートの約束したのは、どうかと思うが……」
「来月末には帰って来れる。会議はあるが、それが終われば一日か二日時間が取れるからな」
「彼女のスケジュールも訊かずにか?」
 まったく、俺様男め……。
 さすがに口に出すのははばかられ、クリスは密かに溜め息をつく。
「子供じゃねぇんだ、スケジュールが合わなけりゃ、しょうがねぇだろ」
「まぁいいけどね。気が無くて誘うんだったら、やめといた方がいいんじゃないか? 彼女を泣かせたくはないんだろ?」
「ふん……」
 クリスの真っ当な意見に、愁介は肯定とも否定とも取れぬ返事らしきものを返して、窓の外に視線を転じた。その先に、自分のオフィスがある高層ビルが見えてきた。
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