Act3.EXTRA クリスの憂鬱 2

 夜も更け、クリスは愁介の執務室でパソコンと格闘していた。愁介に届くメールは毎日数百通に上る。仕事関係の物が殆どだが、中にはくだらないダイレクトメールなども含まれており、仕事関連のメールでも、愁介が直接目を通さなくてもいいものもある。それらを振り分けるのもクリスの仕事なのだ。
 特に、明日から愁介は海外出張なので、大事なメールが入っていたら見逃す訳にはいかない。彼が目を通すべきメールを読んでいなかった場合、咎められるのは愁介自身である。たとえクリスが忘れていたとしても、その責は愁介本人にあるので手は抜けられない。ただメールの振り分けをするのも、なかなかに緊張する仕事であった。
「ふう……ま、こんなもんかな」
 全てのメールチェックが済み、クリスはようやく肩の力を抜いて、椅子にもたれ掛かった。モニターの見過ぎで目が痛い。小さく息を吐き、目頭を右手で押さえた。
 ホウッと体の力を抜き、革張りの重厚な椅子にもたれたクリスの耳に、ドアをノックする音が届く。ささやかな休息を邪魔され、小さく舌打ちしながら体を起こしたところで、ドアが開いた。
「クリス!」
 入って来たのは、以前クリスに「会議で英語は必須」とのたまった人物である。薄蒼い瞳にやや不機嫌な色を見せている。ダークブロンドの髪をオールバックにした、典型的なアングロサクソンだが、その口から出て来たのは流暢な日本語だった。
「愁介様との連絡が途絶えた」
「ヒューズ、愁介様に何か伝えることでもありましたか?」
 立ち上がりながら問うクリスに、エドウィン・ヒューズが歩み寄る。
 ヒューズは元々先代の側近だったが、愁介が跡を継いでからは彼の秘書として仕えている。ヒューズほど仕事の出来る人間はいないと、常に他人から高く評価されているが、クリスにとっては更に嫌味なことに、母国語の英語は当然としてフランス語、イタリア語、ポルトガル語、ロシア語、そして日本語が堪能である。
 クリスの日本語は、日本で育ったが故の産物であるから、比べるべくもない。
 彼の屈折した嫉妬を余所に、ヒューズは淡々と言った。
「本国での視察の前に、先代が会見を望んでおられる。愁介様のスケジュールを変更せねばなるまいが」
 一旦言葉を切った彼は、諦めた様な溜め息をつく。
「ヒューズ?」
「勝手に予定を変更すれば、下手をすると視察自体をボイコットするだろう? 愁介様の我が儘ぶりにも困ったものだが、仕事はきっちりやってもらわねばならんからな」
 苦虫を噛み潰した様な表情で話すヒューズは『先代命!』な人で、60歳に満たない先代が引退することに誰よりも反対していた。
 その尊敬してやまない先代が、後継者として指名したのが未だ20代の若造と知り、彼は初めて先代に意見したのだ。
 そのため愁介とは大変折り合いが悪いのだが、両人ともお互いに『こいつがいなければ仕事にならない』と分かっているので、仲は悪いが対外的にはベスト・コンビだった。
「では、愁介様を連れてくればいいのですね?」
「ああ、そうだ。……が」
「なにか?」
「毎回、自分の父親との会見の後で、連絡が付かなくなるようでは困るぞ」
 苦言を呈するヒューズの言葉は確かに正しいが、愁介にとっては『あの』父親との会見こそ、ボイコットしたいところだろう。
 クリスは自分の主人を思いやって、密かに溜め息をついた。
「愁介様にとっても、お父上との会見は意に添わぬものなんです。それに比べたら、先代との会見は逆に楽しみにされますよ。自分の知らないところで後継者にされたことは忘れないでしょうが、それ以上に先代には助けて頂いたそうですから。その感謝の方が、愁介様は大きいと思いますよ」
 クリスが側近になったのは、愁介が先代に助けてもらったその一連の出来事が終わった後で、彼からの話としてしか聞いていない。むしろヒューズの方が一部始終見ていたはずで、それは十分に分かっているはずなのだが……。
 愁介に関して苦言ばかりが目立つヒューズは、未だに愁介を認めていない部分がある。愁介が苦痛に耐えて、仕事をこなしていることを知っている彼だが、それでも自らの上司としては未熟と感じているらしい。
「では頼んだぞ。早急に愁介様を連れて来い!」
 クリスを無遠慮に指差し、ヒューズは少々乱暴にドアを閉めて行った。
「ふう……やれやれ。相変わらず怒りっぽい男だな」
 言いながら、モニターに表示されていたファイルを閉じ、パソコンの電源を落とす。
「会見は2時間前には終わってる。長引いたとしても、とっくに実家は出てるな。とすると、師匠の店に行って飲んで食べて……そろそろ頃合か」
 左腕にはめた時計を見つつ、クリスはコートを手に執務室を出た。

 
 

 愁介のオフィスには、彼の愛車の他に対外用の、いわゆる高級外車と呼ばれるものも置いてある。
 ブランドというものにお金を掛ける趣味のない愁介は、一人で行動する時、もっぱら国産のスポーツタイプに乗っているが、仕事で外出となるとそうはいかない。
 自分で運転するのは論外。
 愁介の仕事の相手は、乗っている車で持ち主のステイタスを測る傾向があるので、彼らへの牽制のためにもそれなりの高級車でなければならない。愁介にとってもクリスにとっても大変面倒臭いことだが、若造な彼らが老獪な相手にナメられない様にするために、それなりの体裁を整えることには手を抜かなかった。
 これがヒューズが関わる方の仕事になると、相手の方から出向いてくれるので、愁介は外出する必要がなくなる。それはそれで楽ではあるが、逆にカンヅメにされることもあるので、愁介にとってはどちらも変わりがない。

 
 

 地下駐車場に降りると、ちょうど仕事を終えてマンションに帰る洸史と出くわした。
 彼は愁介に輪を掛けてブランドに興味がない。そのため、彼のプライベートカーはエコカーで有名なプリウスである。
 仕事では運転手付きの高級車に乗る彼だが、元々車は走れば良いと思っている。ついでに二酸化炭素の削減に貢献出来れば、言うことはなかった。
「おや、クリス。一人で珍しいですね」
「篁さん、お疲れ様です」
 ふっと穏やかに笑って話す洸史の表情は、彼の人柄が滲み出ている。
 愁介などは、そんな彼の笑顔を『うさん臭い穏和なポーカーフェイス』などと評するが、クリスはその微笑みが結構好きだ。彼が素直に頭を下げるのも、そういう理由からである。
「これから愁介を迎えに行くのですか?」
「ええ……まあ」
「今日はお父上と会うのでしたね」
「よく……ご存じですね。愁介様は貴方に、本当に何でも話されるんですね」
 『篁洸史と篠宮愁介に垣根はなく、情報はガラス張り』というのは、この業界では有名な噂だ。
 勿論それは大いなる誤解だが、そんな噂が飛び交うほど、愁介と洸史は幼馴染で親しい間柄なのだ。そのため、噂しか知らない者は眉をひそめたり、二人それぞれにお節介な忠告をしている。
 やや目を丸くするクリスを、洸史はクスクス笑った。
「貴方が驚くことはないでしょう?」
「いえ、愁介様から話は聞いていましたし、私もお二人のことはよく知っていますが、本当にガラス張りなんですね。お二人の間に秘密はないんですか?」
「さあ、どうでしょう? 少なくとも、私はありますよ。愁介は、逆に無ければ困るでしょう」
 洸史の微笑が更に深くなる。
 なるほど、穏和なポーカーフェイスとはこういうものか。
 愁介が評した『うさん臭い』という意味を、クリスはぼんやりと理解した。
「お父上との会見は、愁介にとっては不本意でしょうが、今日のところはそれほど心配する必要はありませんよ」
 至極当然といった口調で話す彼を、怪訝に感じたクリスはマジマジと凝視した。
「何故……、貴方がそう言い切れるんです?」
「貴方の様に、常に彼の傍にいても分かりませんか?」
 洸史の表情はそのまま、しかし声音に微量の揶揄を聞き取って、クリスはムッとした。
「どういうことですか?」
「響子さんがいるでしょう。今頃、彼女を誘って師匠のバーで飲んでいるのではないですか?」
「…………」
 岡崎のことまで知っている洸史には、絶句する以外にない。
 一体彼は、自分の主人のことをどこまで知っているのか。愁介が自分にも知らせてくれないことまで、彼は知っているかもしれない。
 そんなことを考え、茫然と突っ立つクリスをフッと笑い、洸史は車に乗って走り去った。
 クリスが正気付いた時には、既に洸史は帰っていて、一人地下駐車場に取り残されていた。

 
 

 ヒューズといい洸史といい……
「なんか……悔しい」
 クリスのそんな呟きは、地下駐車場の中を静かに響いていった。
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