Act.2 EXTRA クリスの憂鬱

 次の会議の時間が迫っていることを、主である愁介に知らせに来たクリスは、愁介がやけに楽しそうに携帯電話で話しているのを見て、軽く驚いた。
 ついさっき、廊下ですれ違ったのは篠宮家の執事である佐原。
 彼の、自分に向けた気難しげな表情を見れば、何があったかは想像に難くなく、さて、如何にして愁介の機嫌を治そうか、頭を悩ませていたのだ。それがこの光景である。
 拍子抜けしたが、面倒な仕事が一つ減ったのは歓迎すべきことだ。
 クリスはキッチンに向かい、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、グラスに注いだ。

 
 

 ここは、愁介がオーナーをしているホテルの、隣に位置する外資系ホテルのスウィートルーム。常から会議はこのホテルで行っており、その間は愁介もクリスも、この部屋に泊り込んでいる。
 自分のホテルが隣にあるというのに、奇妙な話ではあるが、愁介は公私共に自分のホテルを使うことは滅多に無い。自分が使うことで一室分無駄になり、従業員にも余計な気苦労を掛けると、思っているのだ。
 だから、島谷響子を拾った夜、彼が自分のホテルに彼女を連れて行ったことを知って、大いに驚いた。どういう風の吹き回しか、それとも少しは垣崎らの、たまにはオーナーに利用して欲しい、その思いを汲み取ってやった、ということなのか。
 或いは、単に他のホテルに行って、真夜中に女性を連れ込む事情を説明するのが、面倒臭かっただけかもしれない。
 愁介とは中学時代からの長い付き合いだが、何を考えているのか分からないところは、相変わらずだった。執事として自分を迎えてくれても、それは同じだ。

 
 

 クリスは、水滴の浮いたグラスをトレイに乗せ、主の元へと持って行く。
 その主人は、さっきまで楽しげに会話していたはずが、今は何故か黙っている。ただ、携帯電話は耳に付けたままなので、切れてはいないようだ。
 ソファにゆったりと座り、足を組んでいる愁介の前にグラスを置いた。
 彼はチラッとクリスを見上げ、キンキンに冷えたミネラルウォーターを、半分ほど一気に飲む。
 この会議期間中、愁介はアルコールを殆ど飲まなくなり、煙草も吸うことはない。
 健康的と言えば聞こえはいいが、体が受け付けなくなるのだから、愁介の心身には相当のストレスが掛かっているのだ。それがクリスにとっては心配でもある。が、彼に出来ることは、主の身辺の世話と、会議前に上がってくる資料の整理くらいしかない。
 会議室の中では、別のスタッフが愁介のサポートをしている。
 愁介の仕事のサポートもしたいが、それには致命的な欠点を持っている自分では、足手まといにしかならない。だが、スタッフたちから言わせると、「クリスは特別」なのだそうだ。
 愁介が、常に傍にいることを許しているのはクリスだけなのだ。執事以上のプライベートな用事を頼むのも、クリス以外にありえない。
 それほどに信頼されているというのに何をか言わんや、と諭された。
 多少丸め込まれたような気がしないでもないが、「会議では英語は必須」と言われてしまっては、もう何も言えなかった。

 
 

 携帯電話の相手が、島谷響子であることに多少驚いたクリスだったが、会議の時間まで10分を切った。
 黙ったまま人の話を聞いている愁介も珍しいが、彼女の話がたとえシリアスな内容だとしても、愁介を遅刻させる訳にはいかない。
 舌打ちされるのを覚悟でクリスは声を掛け、その通りの経緯を経て、今は会議室へと向かっている。
「愁介様、よろしいのですか? 響子様をあのホテルに呼んでも」
「ここに呼ぶ方が面倒だろ。垣崎は響子を気に入ってるみたいだからな。ちょうどいい」
「まぁ、そうですが……」
 確かに、彼女と愁介が一緒にいるところを篠宮の者に見られるのは、かなりよくない。愁介のスタッフならば問題はないだろうが、それも早とちりされては色々面倒だ。
「それに、碧も呼ぶことになるからな。向こうの方が都合がいい」
「森沢先生も……ですか」
 彼が何を考えているのか、それでクリスは分かってしまった。随分と彼女に執心しているのは、なにか考えがあってのことか。だが、彼にしては珍しく抜けていることにクリスは気付いた。
「ところで明日は3時まで会議が入っていますが、まさかお忘れになっていらっしゃいませんか?」
 ピタッと止まる愁介の歩み。背中しか見えないが、それでも焦っているのがよく分かる。
「…… 忘れていたんですね」
「……あー、そういやそうだったな」
「ちなみに、4時からも会議ですよ?」
「それは覚えてるよ。だから碧に任すんだろ」
「響子さまは、どうなさいますか?」
「…………」
 無言の返答でも、後ろ姿からは何を言いたいのか伝わってくる。
「分かりました」
「悪いが」
「「…………」」
 奇しくも同時に発した言葉に、思わず口を閉じる二人。

 
 

 こうして、「仕事が長引いて来られない」という苦しい言い訳の元、クリスは響子を迎えに大学へ向かうのだった。
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