Act.11  これがあたしの生きる道 ...10

 年が明けて一月。この春に入社する新人さんたちが、正社員になるのと入れ替わりに会社を辞める私は、今までお世話になった部署の人たちに、時間を見付けては挨拶に回った。
 私が結婚退職することは社内ではもう噂になっていたし、目ざとい人たちは薬指にはめた指輪の石が大きくなっていることに気付いていたから、挨拶はすんなりと終わることが多かった。
 それでも名残りは惜しくて、懐かしい人たちに会いに行くと、ちょっと涙ぐんじゃったり。
 そんな私を伊藤さんは「あんたって律儀ね」なんて言ってるけど、私をこんなに成長させてくれたのは、やっぱりここの会社だから。社長は言うに及ばず、国際管理部の人たちや他の部署の人たちも、そしてここの秘書室のみんな、全員が今の私にしてくれたと思う。
 ドイツ支社が軌道に乗ってからは、殆どドイツの人たちに任せるようになって、国際管理部でプロジェクトをやっていた人たちとは、異動したり昇格したりして大分離れてしまった。
 倉橋課長は去年部長に昇格して、成田さんは主任になって今もこの部署にいる。村中部長と新谷さん、それに立野さんは他の部に異動したけど、私が秘書の仕事で社内中を巡っていると、見掛けた時は声を掛けてくれる。
 新谷さんから突然告白されてキスされたのは、今では色褪せた記憶になりつつある。会社の人に告白されたのはあの時だけじゃなく、正社員になってから随分と色んな人に告白された。愁介には言ったが最後、何をされるか怖ろしくて黙っている。
 告白された当時は、なんで私なのか疑問だったり、ちょっと迷惑だと思ったりもしていた。でも、今はそうやって男性から好意を寄せられるというのは、嬉しいものだなって思える。やっぱり嫌われるよりは好かれる方が、ずっといいもの。断るのが大変だったけど。
 挨拶に回りながらも自分の仕事は待ってくれないから、お世話になった人全員に挨拶し終えたのは、2月も終わる頃だった。
 この頃になると新しい仕事はなくなり、この春に入社する新人さんたちの研修の監督が、私の主な仕事になった。秘書室には毎年1〜2人の新人を採用していて、今では11人になっている。
 清水さんは去年、親御さんの介護をするために実家に戻らなければならなくなってしまい、仕事を続けることが出来なくなってしまった。たくさんお世話になった人だから、いなくなってしまうのは寂しかったけど、辞めるその日はみんなで精一杯盛り上げて送別したなぁ……。
 清水さんが碧さんの存在を知っていたのかどうか、今でも分からない。社長は未だに独身で、社内クリニックの女医さんが恋人、というのが社員の誰にもバレていないのはさすがだけど、碧さんの気持ちを思うと複雑な気分。
「別に浮気をしてる訳じゃないし、私を愛してくれているのはずっと変わらないけど、このままじゃ一生独身で過ごすことになりそうだわ」
 そう言って笑っていたけど、私が結婚を控えているからかな。その時の碧さんの笑顔が、少し痛々しく感じてしまった。
 いくら浮気はしないからって、恋人のままずっと待ち続けるのは女性としてつらいと思う。でも、社長の怖いところは、そういう碧さんの気持ちを知っていて、ずっとその関係を維持しているってこと。ちょっと普通じゃ出来ないと思う。碧さんが「性格が歪んでる」って言ってたのも、頷けるかも。
 そんな訳で、現在の社長秘書室長は支倉さん。辻村くんも奈良橋くんも健在。都賀山くんは、半年前に営業部に異動になっていて、今は秘書室にはいない。詳しい話は噂でしか知らないけど、都賀山くんの性格と仕事振りに営業部の部長さんが惚れ込んじゃって、社長に直談判したんだとか。
 都賀山くんのあの性格だったら、秘書よりも営業の方が向いてそうよね。
 そして伊藤さんはと言えば、相変わらず。普通の人なら言いにくいこともズケズケ言ってくるし、本人にとっては至って普通の発言のようだけど、それで泣かされる新人の子もいなくはなかった。ただ、伊藤さんの言葉に傷付いて仕事が出来なくなる人だと、結局のところ、あの社長の秘書なんてとても務められないから、いい修行になったのかも。
 かくいう私も、伊藤さんとは色々あったけど、彼女がいたから強くなれたところがあったと思う。もしかして篁社長が伊藤さんを秘書として雇ったのは、こういう狙いがあったとか? あの社長ならあり得ないことじゃないから、もし本当にそうならやっぱり怖い人だわ。
 そういえば伊藤さん、去年の暮れ辺りから「将来は社長夫人」とか言わなくなってきた。もしかして恋人とか出来たのかな。もしそれが本当だとしたら、彼女にはいいことだと思う。社長への想いは、絶対に叶わないものだから。

 
 

 今年新しく入った新人秘書たちの研修を見届けて、私は5年間勤めた会社を辞めた。
 退職する一週間前は毎日のように、私が関わった部署の人たちが送別会をしてくれた。その度に名残惜しさがこみ上げてきたけど、生きているならこういうことはきっと何度も経験していくんだと思う。
 私の秘書人生最後の日、社長秘書室のみんなと社長の篁さんまで合流して、マスターのお店で飲んだ。
 6年前、このお店で篁さんと出くわした時は、まさかこんな状況になるなんて思いもしなかった。人生ってどんな風に転ぶか分からない。初めはただ流されていると感じていたけど、そういう流れに乗ってしまうのも大事なことだと、今は思う。
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