Act.11  これがあたしの生きる道 ...7

 ダイニングテーブルに着く前に、愁介がどこからかワインが入っているような箱を持ってきた。
「なんですか? それ」
「クリスマスと言ったら、シャンパンだろう。これは、俺が事前に送っておいたものだ」
「はあ。それじゃ、ワイングラスを持ってきますね」
「シャンパングラスの方がいい。物は分かるな?」
「ええ、まぁ一応」
 食器棚には、色んなお酒のグラスが並んでいる。私は、ワイングラスの細長い物を二つ出してきた。
 テーブルに戻ると、さっきまではなかったケーキが、お料理の真ん中に置いてある。
「このケーキは、どうしたんですか?」
「冷蔵庫に入っていた、小さい箱の中身だ。お前、また気付かなかっただろ」
「う……はい」
 グラスを置いて、愁介と向かい合うように席に着く。ケーキはクリスマス定番のブッシュ・ド・ノエル。丸太の真ん中に小さなサンタさんがちょこんと乗っていて、とっても可愛い。
「一人でも食える大きさにしてもらった。俺はいらねぇから、後で響子が食え」
「はい、頂きます。でも、ご飯でいっぱいになっちゃいそうなので、今はしまっておきますね」
「ああ、クリスマスらしく出来たじゃねぇか。やっぱこれからは響子に作ってもらう」
「ですから、会社を辞めてからで」
「それまで待てねぇよ。お前、俺んとこに引っ越して来い」
「はい!? そ、それはちょっと……」
 口ごもりながら、崩れないようにそっとケーキを箱に戻して、冷蔵庫に入れた。愁介は甘い物の匂いも苦手だから、ない方がいいと思ったから。
「どうしてもダメか?」
 う……そう言われると、ダメですとは言えなくなる。でも、同じビルの上から出勤なんて、やっぱり嫌!
「すみません」
「しょうがねぇな。響子の手料理が食いてぇ時は、俺がマンションに押し掛ける」
「はあ、まぁ雪絵がいいと言うなら」
「黙らせる」
 そ、そうですか。とりあえず、愁介のところに引っ越ししなくていいなら、もう勝手にして下さい。
 私が何も言えずにいると、愁介がシャンパンの入った箱を開け始めた。出てきたのは、見たことのない黒っぽい瓶。よく勢いよくコルクを抜いて、中身がシュワシュワ出てくるのを見るけど、ここでそれをやって大丈夫なのかしら。
 なんて思っていたら、そんな心配は無用だった。愁介はタオルをかぶせて慎重に丁寧に、そしてとても静かにコルクを抜いた。軽い音を立ててコルクが抜ける瞬間、シュッと炭酸の弾ける音がした。
 グラスに注がれる、黄金色の炭酸酒。白い泡が輝くように、煌いて見える。
「綺麗ですね」
「ローラン・ペリエのグラン・シエルクだ」
 そう言われても、シャンパンの名前なんてドン・ペリしか知らない。
「もしかして高いんですか?」
「まぁ、三万ってところか」
「はい!?」
「諭吉が三枚」
「それは分かります! あんまりにも高くてビックリしてたんです」
「100 万ってシャンパンもあるんだぜ」
「……もう、信じられません」
 絶句していると、愁介は続けて耳を疑うようなことを言った。
「飲んでみたけりゃ、買ってやるぞ」
「いいいいいです! そんな、勿体無い!」
 三万円だって、私にとっては目をむくようなお値段よ。それが 100万円だなんて、正気の沙汰じゃないわ。
「まぁその内、嫌でも飲まなきゃならなくなるさ」
「それって、愁介と結婚したらってことですよね。やっぱり、普通の暮らしじゃないですよね」
「普通の暮らしかと訊かれりゃ、違うとしか言いようがねぇが、あまり深く考えんなよ。ほら」
 グラスに半分ほど注がれたグラン・シエルクを、愁介から渡された。シリアスにこういうことを話している時は、優しげな微笑みを見せてくれる。
 そうよね。今から考えても仕方ないよね。その時になってみなきゃ、分からないし。自分にそう言い聞かせて、グラスを掲げた。
「メリー・クリスマス」
 今までに何度かシャンパンを飲んだことはあるけれど、これはちょっと違う感じがする。
「グラン・シエルクは、シャンパンとしては力強いがまろやかさもある。芳醇さと上品さのバランスが絶妙……ってのが、専門家の批評だ」
「はあ、正直よく分かりません。ハチミツとアーモンドの香りはしますけど」
「変に捏ねくり回したコメントを言うよりは、感じた味わいをそのままに言うのが、一番いいのさ。要するに、美味いか不味いかだな」
 くいっとグラスを傾けて、ほとんど一気に飲んでいる愁介を見ると、美味しく感じているみたい。
「私は、同じスパークリングなら、ウォッカを炭酸で割った方が美味しいと思います」
「響子らしいな」
 感じたままを言っただけなのに、笑われた。バカにするような笑い方じゃなくて、思わず出てしまったような感じの笑いだった。
 先の宣言通り、愁介はターキーの足に食らいついて食べた。ワイルドだわ。それを見ていて、ふと思った。他所で食事をする時は、こんな風には食べられない。総帥としての立場が、そうせざるをえないと思う。そうしたら、プライベートな食事の時は、自分の好きなように食べたいものよね。
 私も、ターキーの足に噛り付いてみた。香草の香りが、淡白なターキーのお肉にアクセントを与えていて、深みのある味わいになってる。うん、美味しい。
「響子、スープにもやし入れんのか?」
 野菜スープの具をお箸でつまんだ愁介が、不思議そうに訊いてきた。
「あ、はい。もやしのシャキシャキ感が、たまらなく美味しいですよ」
 何を隠そう、これは私が好きなスープなのだ。ニンジンにタマネギ、しめじとレタスともやしを入れて、スープの素で味を付けただけの、シンプルなスープ。一人暮らしの時は、大量に作って二〜三日掛けて食べていたものよ。
 愁介は半信半疑な顔で一口食べて、それからはお野菜だけがあっという間になくなった。
「なかなか美味いな」
「でしょう? あ、スープも飲んで下さいね。野菜のエキスがたっぷり溶け込んでますから」
「ああ、シンプルな味付けなのに、野菜の旨味ってのが出てるな」
 やった。久しぶりに作ったけど、美味く出来てよかった。
 
 

**********

 
 
 愁介は食事の後、書斎から本を一冊持ってきて、ソファーで読み始めた。私はその間に片づけを済ませることにする。少し残ったシャンパンは、ケーキを食べる時に一緒に飲もう。
 スープもターキーのお肉もトーストピザもサラダも、軽く三人前は作ったはずなのに、綺麗に食べられた。用意したメニューは、予想通りほとんど愁介のお腹の中に収まった。私も結構食べたと思うけど、やっぱり彼の胃の許容量は全然違う。せっかく用意してくれたケーキも私はすぐには食べられなくて、太るのは覚悟で後で食べることにした。
 洗い物を終えてリビングに行くと、愁介はまたソファーで眠っていた。片手に本を持ったまま、それは胸の辺りに伏せられている。そんなに無理して本を読まなくても、素直に寝ちゃえばいいのに。
「愁介、寝室で寝た方がいいですよ」
 肩を揺り動かすと、今度は身動ぎもしなかった。どうしよう……。
 とりあえず胸に乗ってる分厚い本をどかした。百科事典みたいなハードカバーで、片手でようやく持てる重さだわ。一体なんの本だろう。
 表紙にはAinsworthと書いてある。エインズワースと何か関係があるのかな。中身は全部英文。英語の会話に苦労しなくなったとはいっても、読み書きとなるとちょっと勝手が違って、私にはまだ読むのは無理。ドイツ語だったら、大体何でも読めるのに……。もっと英語も覚えなきゃ。
 本をどけて体が軽くなったのか、彼が寝返りをうつ。今度は何もしないで、大人しく見ていることにした。寝ている愁介の体に、そっと毛布を掛ける。睫毛、長いな。男の人なのに、これはちょっと反則だと思う。
 でも、暇になっちゃった。テレビもないし、私の部屋にあるブルーレイの映画を、見る気にもなれない。
「う……ん?」
 ソファーの下で膝を抱えていると、愁介がパチッと目を開けた。
「あ? 悪い。俺、寝ちまったか」
「いえ、疲れてるんですから、寝てていいですよ」
「そうはいかねぇ。せっかくフリーの時間が増えたんだ。日頃出来ないことをしねぇとな」
 笑いながら起き上がってきたから、慌てて距離を取った。
「も、もうダメですよ。今夜は大人しく寝たいです!」
「ったく、レオンといいお前といい、俺をなんだと思ってんだ?」
「え……だって、愁介とデートした時って、必ずそういう展開になるじゃないですか! さっきだって」
「そりゃ、普段なかなか会えねぇんだからな。たまのデートの時くらいは、日頃の欲求不満を解消したっていいだろうが」
「う……そ、それは」
「とにかく、今日はもうしねぇよ。響子に無理強いはしたくねぇからな」
 いつも無理はしているような気がするけど、『強い』は確かにしてない。でも、何だか納得は出来なかった。
「じゃあ、何をするんですか?」
 警戒心を解かずに訊くと、愁介はニヤッと得意げに笑みを浮かべた。

 
 

「88、89、90、91……」
 リビングの床に毛布を敷き、愁介がその上で腹筋運動をしている。私は足を押さえる係で、ついでに回数を数える係。
 日頃出来ないことってこれのことだった。
 いつもは会えても夜の数時間くらいで、一夜を共にしても朝にはお互い仕事、というのが多いから、愁介のトレーニングに付き合うことは全然なかった。
 私が数を数える前で、両腕で頭を抱えた彼は、すいすい上体を起こして倒してを繰り返している。
「……99、100! 凄い、愁介。疲れないですか?」
「あ? 全然。まだ続けるぞ、しっかり数えろよ」
「う、はい」
 100回を超えても全く動きに淀みがなくて、結局200回いってしまった。
 彼はちょっとだけ息が乱れているけど、それだけ。しんどそうな感じは、全く見られない。額にうっすら浮いた汗を手で拭って、体を起こした。
「普段からこんな風に鍛えてるんですか?」
「ああ、執務室にはトレーニングルームもあるぜ。比較的時間が取れた時は本格的にやってるしな」
「凄いですね」
「これが気分転換にもなるしな。座ってることが多いから、動かねぇと体がなまる」
 そんなことを言いながら、今度はうつ伏せになって腕立て伏せを始めた。
「でも、ご飯を食べた後でこんなに運動して、大丈夫ですか?」
「一時間は経ってる。問題ねぇよ」
 腕立て伏せって、結構筋力使うよね。なのに、話してる愁介の口調はいつもと全然変わりない。私なんて、きっと一回も出来ないわ。愁介の前でやるのは恥ずかしいから、今度、マンションで試してみよう。
 ソファーに座った私の前で、腕立て伏せもスイスイと200回やって、今度は柔軟をし始めた。
「筋トレをやってから、柔軟するんですか?」
「そう決めてる訳じゃねぇが、後でこれをやると、使った筋肉がほぐれる感覚があるからな、気持ちいいんだ」
「そういうもので、すか」
 変なところで言葉が切れちゃったのは、愁介が開脚した状態で、ほとんど胸が床に着くくらいまで体が伸びたから。さっきから驚きの連続で、あのアスリートのような体はこうして出来たんだと、納得してしまった。同時に、ちょっとだけ優越感も持った。こんな人が私の恋人で、来年は結婚するんだ。
 私も、エステだけじゃなくて、体を鍛えることもやってみようかな。
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