Act.10  支える存在 ...3

 秘書室に戻って、清水さんに今日一日席を外すことを伝えると、「しょうがないわね。社長が言い出したことだから、責任を持ってお客様を一人で応対してもらいましょう」なんて、冗談とも本気ともつかないことを言っていた。本当に仕方なさそうに言っているから、本気かもしれない。
 普段は私より早い出勤の伊藤さんも、さすがにこの時間ではまだ来ていなくて、部屋には他に誰もいなかった。
 さっき入れたばかりのバッグをロッカーから出して、清水さんにもう一度挨拶をして『会社』を後にした。

 
 

 そうしてやってきた54階。私は初めて来るフロア。
 ここで愁介と会うのは彼の住居のある52階か、エインズワースの本部の一つである53階のどちらかだった。53階には総帥の書斎と執務室があって、たまに仕事中に呼び出されるのはデスクワークに使われるその階だったのに、今回社長から言われたのは54階だった。
 エレベーターを降りると、何だかどこかの会社のロビーのような広場になっていた。スーツを着た外人さんたちがそこを行き交っていて、丸っきり普通の会社みたいに見える。
 このビルの1階にある受付そっくりのカウンターがあって、受付嬢みたいな人もいる。嬢、と言ったら失礼かな。女の人じゃなくて男の人だから。
 外国に出張して気付いたことの一つに、会社の受付に女の人がいるのって日本以外ではあまり見掛けないことだった。女性がいたとしてもカウンターの中には必ず男の人もいて、私はちょっとビックリした思い出がある。
 53階とは違う賑やかさに唖然としていると、カウンターの中の男性と目が合ってしまった。彫りの深い白人のその人は、私を見たまま受話器を取って何か話している。
 もしかして、不審人物と思われちゃった!?
 その人がカウンターから出てきて、私の方に向かってくる。警官に職務質問されるような気分で立ち尽くしていると、その男性は私の前で恭しく頭を下げた。
[島谷響子様でございますね?]
 丁寧な英語はマギーの発音とよく似ている。イギリス人だ、この人。
[はい。総帥に会いに来たのですが、ここにいらっしゃいますか?]
[ご案内します。こちらへ]
 優雅な仕草で右手を進行方向に向けてから、私の前を歩いていく。動作がいちいち綺麗なのは、きっとこの人の育ちがいいんだと思う。まだたった2年だけど、社長の秘書として色んな人と会って来たお陰で、立ち居振る舞いでその人がどういう人間か、大よその予想がつくようになってきた。
 白人男性に案内されながら歩く私とすれ違う人々は、みな丁寧に会釈をしていく。その丁寧さは、普通にお客様に対してよりももっと徹底しているような感じを受けた。もしかして私が愁介の恋人だって、もうみんな知っているんじゃない? 彼の言っていた公表の条件まで、まだ一年あるのに。
 複雑な気持ちを抱えながら、あるドアの前まで来た。
[総帥はこちらにいらっしゃいます]
 白人男性はそう言うと、一礼して戻っていく。ここまで来て、ドアは自分で開けろってこと……よね。エインズワースがそういうところなのか、私だからそうなのか分からないけれど、行っちゃった人はしょうがないから、一度深呼吸してから目の前のドアをノックした。
「Come in」
 わ、英語。……って当たり前よね。でも……この声、誰? 愁介の声じゃない。
「失礼します」
 思いっ切り日本語で言ってドアを開けた。それほど広くはないけれど、ソファとテーブル以外には物がなくて、とても開放感のある部屋だった。応接室かサロンって感じだわ。
 中にいたのはソファに座っている愁介とその隣りに立っているレオン、そして愁介の向かいのソファに座っているのは、以前ドイツでお会いしたマギーのお父さんだった。つまり、先代のエインズワース総帥、セシル・フォスターさん。
 ひぇー! まさかここで会っちゃうなんて!!
[こ、こんにちは! 初めまして、島谷響子です]
 慌ててお辞儀しながら英語で挨拶すると、前に会った時と同じ様にセシルさんはにこやかな表情で私のところにやってきた。今までに見たことのない優雅な足取りで、貴族がやるような大仰な礼をしてから、私の右手を取って甲にキスをする。
 ひぇー! こんなこと初めてされたぁ!!
[初めまして、未来のファースト・レディ]
「ファ、ファ、」
[セシル様、響子様が混乱されておいでです。将来のこととはいえ、今はご自重下さい]
 普通じゃない呼び方をされて、セシルさんに右手を取られたまま固まっちゃっていたら、後ろからレオンさんが呆れたように声を掛けてくれて、私をセシルさんから離してくれた。
「あ、ありがとうございます、レオン」
 呆然自失で何とかお礼を言えた。
 愁介と結婚したら私、ファーストレディなの!? 総帥夫人ってそういうことなの!? 雪絵が「愁介様の奥様になる方が……」って私をよく叱っていたのは、そう呼ばれる人になるから!? それであの時、国王夫妻を例に挙げたのね。今更になってようやく理解した。それなら、口を酸っぱくして言うのも分かるわ。ごめん雪絵、私初めて分かったよ。
 レオンの引き離し方がちょっとあからさまで、セシルさんはとっても寂しそうな顔をした。マギーとはあんまり似てないかな? でも目の色がそっくり。聞いていた年齢よりは、ずっと若く見える。
 愁介はソファに沈み込むように座っていて、天井を向いた顔の目のとこを腕が覆っている。凄く疲れているみたい。全然動かないし、もしかして眠っているの? 大丈夫なのかな……。
「ところで響子様、何故こちらに? ロビーから知らせを受けた時は、驚きましたよ」
 あ、レオン日本語。セシルさんには聞かれたくないの?
「社長……篁さんからこちらに行くように言われたんです。しばらくの間、秘書の仕事は休んでいいので、愁介のそばにいてあげてほしいって」
「篁殿が?」
 レオンは困惑してるみたい。じゃあ、これは社長の独断なの?
[タカムラサンというのは、この会社の社長だね。彼がどうしたのかな? 私の分からない日本語で話すとは、君もなかなか意地悪だね。レオン・インベルグ]
 セシルさんが下を指差して訊いて来る。言い方に棘があるように聞こえるけど、顔は何だか楽しそう。レオンは静かにため息をついて、私の両肩に両手を置いて言った。
[篁殿が愁介様のカンフル剤を派遣して下さいましたので、セシル様はどうぞ観光でもなさってきて下さい。今マギーが来ますので、久しぶりの親子水入らずで過ごしては如何ですか?]
[それだとつまらないじゃないか。私は愁介と響子さんのラブラブっぷりを見たいのだ]
 真顔でとんでもないことを言うセシルさんに、眩暈がした。レオンが肩に手を置いてくれていなかったら、完全によろめいていたかも。
[今の愁介様にそのような余裕がないことは、先程ご理解されたはずです。大体、響子様が現れたからと言って、目的を挿げ替える必要はないでしょう。セシル様がいらっしゃった本当の目的は、愁介様も十分に理解されていますし、私もマギーも同様です]
 セシルさんが来た本当の目的って……。
[レオン。それはもしかして、セシルさんは愁介を心配して、日本まで来られたってことですか?]
 どうしても確かめたくてレオンに訊いたら、セシルさんが目を丸くした。
[響子さんはドイツ語が堪能と聞いていたが、英語も扱えるとは初耳だよ?]
[私とマギーで仕込ませて頂きました。まだ二年経っていませんが、日常会話ならば不自由はありません!]
 ありません! って……確かにそうかもしれないけど、そんなに胸張って言っちゃって、セシルさんが「試験をしよう」なんて言っちゃったらどうするんですか!?
 内心焦っている私に嬉々とした表情を見せ、セシルさんは感動したように両腕を広げた。
[素晴らしい! 響子さんは優秀だと聞いていたが、噂以上のようだね]
[ザッ]
 そんなことありません、と言おうとしたのに、レオンの手が私の口を後ろから塞いだ。
[ですから、愁介様には響子様がいらっしゃれば問題ありません。セシル様はマギーと東京見物に行ってらっしゃいませ]
 言い終えると同時にドアがノックされて、ワンピースを着たマギーが入って来た。
 凄ーい、マギー綺麗! きっとどこかのブランドのドレスだわ。真っ青な生地で、胸元には大粒のラインストーンがついていて、それが巻き毛の金髪に映えて、とってもゴージャスに見える。膝丈のスカートの裾からスラッとした脚が見えているし。しかも生足だよ! 踵の高いヒールもしっかり足元を支えていて、立ち姿はモデルさんみたい。生まれながらのお嬢様って、やっぱり違うんだ。
 思わず自分の姿を見ようと顔を下に向けた途端、レオンの両手が今度は頭を左右から挟むように添えられて、グキッと正面を向かされた。
「響子様はマギーに引けを取りません。もっと自信を持ってもバチは当たりませんよ」
 耳元で囁かれた言葉に度肝を抜かされた。レオンてば、スウェーデン人なのにどうしてそんな『バチが当たる』なんて日本語を知っているの!?
 マギーが可憐に微笑んでセシルさんの前に立つ。
[お父様、久しぶりにお父様とデートしたいわ。それに、いつまでもお父様が出て来ては愁介様が]
 セシルさんが穏やかな表情で、ゆったりと片手を上げてマギーの言葉を途中で遮った。何気ない仕草だったのに、何かにせき止められたみたいにマギーの言葉が止まっちゃった。
[マギー、お前らしくねぇ。その辺のバカな女みたいに余計なことを言うなよ。久しぶりにデートしたいってだけで十分だろうが]
 え……今の声、愁介?
 レオンとマギーは、突然聞こえた愁介の声にポカンとしていて、セシルさんが一人だけ静かな微笑みを浮かべている。
 それまでソファーに座り込んでいた彼が、おもむろに体を起こした。顔が……っていうか目が凄い疲れてそうに見えます。両目とも充血してるし、目の下にはクマが。ああ〜動かないで、ゆっくり休んでいて下さい。
[ったく、せっかく休んでたのに、隣りでゴチャゴチャ話されちゃ、嫌でも起きちまうぜ]
 だるそうに体を起こして、肘掛けに肘を乗せて頬杖をついた。
[そういうことだね。私が遮った意味が分からなければ、マーガレットもレオン・インベルグもまだまだだ。精進しなさい]
 なんて言うセシルさんは、とっても愉快そう。本気なのか冗談なのか、すぐには分からなかった。
[ではマギー、行こうか。私も可愛い娘とのデートは楽しみにしていたよ]
 続けてそう言って、まだボー然としているマギーの肩を抱いて、部屋を出て行った。その姿はとても親子には見えなくて、何だか恋人同士みたいですよ。外人さんて謎だわ。
 ドアの閉まる音がして、ようやくレオンがハッと正気付いた。
 愁介は頬杖をついたまま、半眼でレオンを見てる。あのジト目……きっと呆れてるのね。でも、秘書としてはやっぱりレオンとマギーの気持ちは分かる。
「愁介、レオンは」
「響子は黙ってろ。あのおっさん、俺を心配して来た訳じゃねぇぞ。んなもんは3年前に卒業してる。ただ響子とマギーに会いたかっただけだろ。それがたまたま俺のクソ親父の死と重なっただけだ。物事を難しく考えると、見えるもんも見えなくなるぜ。気を付けろよ」
「承知しました。これから精進しますよ」
 ため息をつきながら肩を落としているレオン。何となく、解放されたって感じの雰囲気が伝わるのは、気のせいじゃないよね。
「響子様は、これからしばらくこちらにいらっしゃるそうですよ。篁殿の配慮だそうです」
「あ、えと、秘書の仕事は休んでいいからって言われたんです」
「では、私は仕事に戻りますので。愁介様、1時間後には今日最初の会談があります。それまでに目のクマを何とかしておいて下さい。響子様、愁介様を頼みます」
 そう笑顔で言って、レオンも出て行っちゃった。頼みますって言われても……クマなんて一時間で取れるものなの?
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