Act.10  支える存在 ...1

 そんなこんなで、社員になって二年目になった。
 一年目は研修時代よりも仕事が増えて、あぎゃー! となっていたけど、二年目ともなるとデスクワークは増えるし、社長の同行は増えるし……もちろんドイツ以外の外国に行くこともしばしば。私個人で扱う案件は多くなる一方で、ドイツ語と英語で様々な部署を掛け持っている。たまに、私って社長の秘書よね? と誰かに問いたくなるくらい。
 レオンとマギーのスパルタのお陰で一年半経った今、英会話はほぼマスター出来てる。ドイツ語に比べるとまだ語彙が不十分ではあるけれど、普通に会話するには不自由していない。それでも会議の場で通訳をするにはまだまだスキルと経験が足りなくて、ドイツ語と同じように使えるにはもう後二年は必要だろうとレオンは言ってる。
 私と一緒に英語のレッスンを始めたクリスは、こんだけ経っても相変わらず。あんなに見た目が外国人なのに発音が思いっ切りカタカナなのは、ある意味才能かもしれない。
 レッスンを受け始めてから知ったことは、マギーが意外に短気なこと。最初はクリスのあまりの出来なさを笑っていたけど、その内に笑えなくなって、つい先日とうとう匙を投げてしまった。
「こんな英語オンチに何を教えても無駄だ」
 レオンは苦笑いで、それを肯定も否定もしない。マギーが抜けた今も週に一回、辛抱強く教えてあげている。私も勿論、あと2年はかじり付いて習うつもり。
 クリスはクリスで、覚えたい意志はあるのに現実がついていかないもどかしさがあるみたいで、しきりに恐縮してる。
 こんな状況に愁介はどう思っているかといえば……。
「英語なんか出来なくたって、お前の仕事は出来るだろ。大体、これだけ周りが英語を話していて、それに4年もどっぷり浸かってるくせに聞き取りも出来ねぇってことは、向いてねぇってことだろうが。諦めろ」
 なんて無慈悲なことを言っていた。
 確かに、これだけ英語漬けの環境にいて聞き取れないというのは重症だと思う。きっと何か理由があるんだろうけど、何となくそれには触れない方がいいような気がして、訊いたことはまだない。
 するとクリスが「マギーもレオンも日本語ばかり話すじゃないですか!」って逆切れしちゃって。それ以来、マギーはクリスの前では英語をしゃべりまくってる。どう見てもクリスへの嫌がらせだろうけど、私にとっては英語に慣れるいい機会になった。クリスには悪かったけれど……。

 
 

 雪絵との同居は、昨年3月の旅行以来特に問題もなく、私たちはいい関係でいられてる。今は彼女の知る昔の愁介の話を聞くのが楽しみ。きっと愁介は教えてくれないと思うから。
 それに雪絵も決して何でも話してる訳じゃないだろうし。たぶん私が知っても差し支えない事だけだとは思うけれど、それでも私の知らない愁介の話をしてくれるのは、とても嬉しかった。
 愁介の誕生日を5日後に控えた11月の最後の週。
 今日も、夕食を食べ終えた後、テレビで夜のニュースを流しながら雪絵から愁介の話を聞いていた。
 テレビでニュースを流しっ放しなのは、社員になってからの習慣。
 直接私の仕事に関係する話題はないけれど、経済界の動きとか普通は気にしないニュースが、巡り巡って会社の取引先の末端の会社と関係があったりして、そういうことを知っていると、いざという時に社長が動きやすいように色んな対処が出来る。本当に、知ってるのと知らないのとでは仕事の質にも影響してくるから、気は抜けない。
 雪絵が新しくお茶を淹れるためにお湯を取りに席を外した時、聞き覚えのある名前がテレビから聞こえた。速報とか言ってたので気になって、リモコンで音を大きくしてみた。
『……していました篠宮グループ元会長、篠宮秀一郎氏が本日21時24分、心不全のため亡くなりました。 83歳でした』
 篠宮グループといったら愁介だよね? なんて思っていたら、陶器の割れる派手な音がした。
 リビングの入り口で、雪絵が両手を口に当てて青ざめて立っていた。足元にはいつもお湯を入れているポットが無惨に割れている。
「雪絵?」
「だんな様……」
「え…… だんな様?」
 雪絵がだんな様って言うと、この秀一郎って人は愁介のおじいちゃん?
 テレビではアナウンサーが話し続けてる。
『葬儀は三日後、芝山の増上寺で行われます。秀一郎氏は篠宮グループの創業者で、5年前に引退するまで一線で活躍していました。篠宮グループは現在、秀一郎氏の実子である愁介氏が継いでいます』
 ええ!? 実子!? 83歳で31歳の息子!?
 私が大口開けて驚愕してる間に、雪絵は慌てて電話に飛びついている。そういえば家族のことって、愁介から聞いたことなかった。雪絵もその話はしてなかったし。
 雪絵が電話をしてる間に、割れたポットの破片を集めておいた。拾うと指が切れて危ないって雪絵が煩いから、集めるだけに留めておく。
「まぁ、響子様! 申し訳ございません……ですが、それはわたくしの仕事ですから、どうぞそのままで構いませんので。先程は気が動転して、仕事を放棄してしまいまして、申し訳ございませんでした」
「いいのよ、雪絵。もう2年もお屋敷から離れてるんだもの。こんな形で訃報を知ったんだから、それは当然よ。気にしないで」
 雪絵は恐縮しているけれど、正直私もちょっと動転していて、それどころじゃなかった。
 父親が亡くなったとしたら、喪主は愁介よね? でも、明後日からエインズワースの定例会議があるのに、葬儀がその真っ只中なんて……。しかも会議の最終日は、愁介の誕生日だし。
 時計を見ると、もうあと少しで11時になるところ。確か今日は夜に会談があるって言ってた。今電話しても、クリスかレオンが出るかも。……逆にその方がいいかな。過去に身内を亡くした人って私の周りにはいないから、愁介になんて言葉を掛ければいいか、すぐには思い付かない。
 色々考えていると、破片の片付けを終えた雪絵が戻ってきた。
「あ、雪絵。ちょっと訊きたいことがあるのだけど」
「わたくしも、響子様に申し上げたいことが」
「もしかして葬儀のこと?」
「はい…… わたくしの母はまだ現役でお屋敷に仕えておりまして、だんな様には大変な恩がありますので、母と共にご葬儀には出席をしたいのですが」
 まるでそれが恥ずかしいことのように頼む雪絵に、本家の使用人としての肩身の狭さを感じてしまった。そんなことを気にして仕事をしなきゃいけないなんて、そんなの間違ってる。
「葬儀だけなんて言ってないで、明日も朝から帰っていいわよ。そんな大恩のある人なら、お母さんも精神的に大変だろうし、支えてあげて。私は一人でも大丈夫だから」
「ですが……」
 なかなか「はい」とは言ってくれない。しょうがないかな、彼女のこういう頑固さは、この 2年で分かってきたし。そんな時に思い出すのは、以前社長から私が頑固だって言われた言葉。彼女と似たようなものだったのかと思うと、周りの人がどんな風に私を見ていたか分かって、落ち込むこともあった。
「じゃあ、明日から一週間お休みをあげるから、お屋敷に帰ってお母さんを支えてあげて。それでも行けないって言うなら、これは私からの命令ってことで」
 人に命令なんて出来る私じゃないし、そんなの好きじゃないけど、こんな風に言わなきゃ彼女は自由に動けないんだもん。雪絵は渋々といった様子ではあったけど、最後にはそれに承諾してくれた。

 
 

 自室に戻ってから愁介の携帯に電話を掛けてみた。
 私との連絡専用の携帯。愁介が忙しい時にはレオンかクリスに預けてある。たぶん、今は二人のどちらかが持っているだろうと思っていたら、やっぱり出たのはレオンだった。
『はい、響子様?』
 あれ? 最近私と話す時は、たくさん慣れた方がいいって英語で話していたのに、今は日本語。遠くで英語の会話が聞こえるから、きっと周りにはスタッフたちが大勢いるのね。
「レオン、愁介のお父さんが亡くなったってニュースで見たので、ちょっと気になって……忙しいのにごめんなさい」
『構いませんよ。愁介様は今ご実家に戻られています』
「その、大丈夫なんですか? 会議と重なっていて……」
 去年辺りから幹部たちの愁介への風当たりが、随分変わって来たとは聞いている。でも、まさかこういう事態に当たっちゃうなんて今までなかっただろうから、色々難しいし大変じゃないかな。
 そう思っていたら、返って来た言葉に絶句した。
『問題はありませんよ。明後日からの定例会議は予定通り開かれます』
「……え、でも、お父さんのお葬式は?」
『愁介様は出席されません。喪主は篠宮家執事の佐原という者が行います』
「…………」
 えっと……父親の葬儀に出ないってこと? もしかして愁介ってお父さんと仲が悪いとか? でも普通、どんなに仲が悪くても親の葬儀は子供がやるよね……。
『響子様?』
「あ、すみません。それじゃあ、今実家に帰っているのは」
 すると盛大なため息が聞こえた。え、なんでため息?
『今日は朝から本家より「お父上が危篤だ」と連絡が入っていたのですが、愁介様は無視しまくりで。亡くなられてから喪主が愁介様になりそうな雰囲気を察して、乗り込んで行かれたのです。それ以来連絡がありませんので、揉めているのではないでしょうか?』
 父親が危篤でも無視って……やっぱり仲が悪いんだ。でも、どんなに仲が悪くたって親の死に目に会わないなんて、ちょっと普通じゃないと思う。
『愁介様は明日戻られます。今日の予定をキャンセルしたため多忙を極めますが、こちらに来られますか? お会い出来るか不明ですが』
「はい、行きます。私も明日はドイツ人のお客様が来るので、通訳に忙しいですから、いつ行けるか分かりませんけど」
『では愁介様にそのように伝えておきます。明日の早朝には戻っておられますよ』
「ありがとうございます。あ、クリスも一緒ですか?」
 雪絵を篠宮家のお屋敷に送ってもらわなきゃいけないし、そもそもクリスも愁介に付いて行ってたら、誰が迎えに来るの?
『明日の迎えですね? ご心配には及びません。クリスが行きますよ』
 それならよかった。私を送ったその足で雪絵をお屋敷に送って欲しいと頼んだら、微妙な答えが返ってきた。
『それならば少し早めに行かせますので、先にお屋敷へ行ってもよろしいですか?』
「はぁ、構いませんけど?」
『その際はくれぐれも、響子様は車からお降りになりませんよう』
「分かりました」
 何で? と思ったけど、明日愁介に訊けばいいよね。じゃあ、と言って通話を切ろうとしたら、レオンが話を続けた。
『家政婦が一週間いないのでしたら、こちらに泊まられては如何です? お一人は危ないですよ』
「でもここ最上階ですよ? 一人でも大丈夫だと思いますけど……4年間一人暮らししていましたし」
 セキュリティ面からいったら、あのアパートの方がよっぽど危なかったと思うけど、そういうことは全然なかったもん。
 でもレオンは聞いてくれなくて、結局あのビルに一週間泊まることになってしまった。
 複雑な気持ちで通話を切る。すぐに雪絵にそのことを話したら、手放しで喜んだ。実はお休みをもらうことに未だに決心がつかなかったらしい。でも、愁介のところに泊まるなら安心だって。
 セレブな生活にはこの二年で少しは慣れて来たけど、会社のビルの上層部からの出勤は、出来ればもう二度としたくなかったなぁ。
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